らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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多胡氏館 (長野市田子)  

◆若槻氏の分派である多胡氏の居館跡◆

例年であれば、北信濃や白馬・小谷方面はGW期間中が山城シーズンラストの見頃となるのだが、今年の異常な気温上昇の為に新緑が覆い始めており、終了のゴングが鳴り響いている・・・(汗)

近い将来、山城のトップシーズンは12月~3月末が定着するのでろう。降雪多い地域の山城探訪は12月上旬と3月下旬の1ヶ月に限定となる日は近いのではないかと真剣に心配している次第である・・・。

今回ご案内するのは、夏場の城館巡りに推挙したい「多胡氏館」(たごしやかた)である。

多胡氏館(長野市) (1)
田子公民館の脇の道路の鳥居が居館跡への入口の目印だ。

多胡氏館(長野市) (3)
居館の南側には、田子池と接続する泥田か水沼のような堀が存在したという。

【立地】

先日ご紹介した多胡城の東側の麓で田子神社と田子池の間の丘陵が多胡氏の居館跡と伝わる。

多胡氏館(長野市) (4)
居館の正面には地元の田子地区の方が平成24年に説明板を立ててありました。有難い事ですw

多胡氏館(長野市) (6)
居館の中心とその周囲。果樹園として耕作地化しているが、往時もさほど変わりなかったように思える。

【城主・城歴】 ※現地の解説版を引用

若槻里城に本拠を構えた若槻氏一族は、鎌倉後期から南北朝・室町を経て戦国時代に至るまで繁栄を続けた。「尊卑分脈」によれば、源義家の孫頼隆の曾孫頼仲が、若槻庄内の多胡・押田の両郷を相伝し開発を進めている。

多胡氏館見取図①
yahooの航空写真に加筆修正して往時の縄張図を推察するとこんな感じであろうか。

居館跡については、明治十四年(1881)編纂の「田子村々誌」に、「村の子の方、字北村耕作地柏木山林の麓にあり。東西四十間・南北五十間、東南の二方一段低く堀跡なりtぴう。今は水田となれり。西北は山を負う。多胡氏代々之に居る。里俗伝に該氏は源義家の孫頼隆の三男多胡宗太なる者、当地の郷士となり是に居り、数世の後、某代なるか村上氏の幕下となる。
天文二十二年(1553)八月、村上義清国退去の後、多胡大内蔵義際武田氏に属すると云う。伝記詳ならず」と記されている。

多胡氏館(長野市) (12)
居館の南側の堀跡。その先には多胡城が見える。

【居館跡地】 ※現地説明板より引用

田子神社の東南東約百メートルの八幡平と呼ばれる高台に位置し、西方から南方にかけて幅員10~20メートルの濠状の低湿地が取り囲み堀跡を偲ばせていたが、現在は埋め立てられ、耕地や原野となっている。また、東方は田子池に接続する丘陵台地で、いかにも往昔の古館の跡を彷彿とさせる。

多胡氏館(長野市) (16)
田子池に接続する濠状の濠跡と台地。

多胡氏館(長野市) (17)
「八幡平」という名は、この居館の主が源氏に由来している事を指すのであろう。

≪多胡氏館≫ (たごしやかた) 

標高:420m 比高:6m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市田子
攻城日:2016年5月5日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:公民館の駐車場を借用
見どころ:濠跡
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:耕作地なので無断侵入不可
付近の城跡:多胡城、土京城、鐘撞堂山、若槻山城など


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Posted on 2018/05/02 Wed. 06:07 [edit]

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