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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0620

鳥羽城 (上田市腰越深山 リテイク)  

◆7年前の未熟さを3年前にリベンジして、ようやく本日お披露目となりました◆


一昨日発生しました大阪北部地震で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。微力ながら信濃の山国より余震が収まる事を願うばかりでございます・・・・・・・。

さて、今回ご案内するのは鳥羽城のリテイク記事である。2011年といば、小生が山城探訪を始めてまだ2年目の青二才の頃である。

とりあえず見よう見まねで始めたスタンプラリーのような山城巡りだったので、遺構もへったくれも無くて、とにかく城跡の中心に辿り着ければ満足していた。

今思えば、ずいぶんともったいない事をしていたが、その後再訪問する事で二度美味しいと思えるようになったので何より・・(笑)

鳥羽城2 (5)
今回も鳥羽館跡と推定される龍福寺の脇の土手から尾根伝いに登る。

鳥羽城2 (7)
鳥羽稲荷大明神の鳥居の先に尾根があるので迷うことは無い。

【立地】

依田川へ武石川が合流する所の西の山が鳥羽山で、鳥羽氏の居城と伝えている。ここには同氏が安置した矢除観音があり岩堂が三つあり、矢除観音の奥の院で往古戦闘の際に伏兵を置いた所という。
鳥羽館跡から尾根を詰めても攻略出来るが、途中で道が無くなりスリリングな刃渡りを強いられるので体力・技術を要する。

鳥羽城2 (8)
20分ほど尾根を辿ると道が消えるので、手足をフル稼働させて前回主郭と間違えたピークに登って小休止。

鳥羽城2 (14)
転落したら絶対助からないであろう岩場の刃渡り。一人がやっと通れる幅しかないので通過するまでに極度の緊張を強いられる。

鳥羽城岩盤
度胸だけでは通れない岩場。


鳥羽城2 (18)
刃渡りから見た依田川流域の諸城。烽火台としても及第点の立地であることが分かる。

鳥羽城2 (17)
鳥屋城保存会の方々には大変お世話になりながら、恩返しができず申し訳ありません・・・(汗)

鳥羽城2 (20)
丸子城⇒根羽城⇒鳥屋城と峰続きなので縦走した方もいるらしいが、ここは効率を考えると個別攻略が良いかと・・・(汗)

【城主・城歴】

小県郡史(大正十一年発刊)には鳥羽「城址」として以下の記載がある。

鳥羽城は丸子町腰越區鳥羽山の字深山屋敷にある山城なり。本郭は東西十二間半、南北八間半許あり。東に凡二間許低下して一郭あり。二の丸といふ。東西四間半、南北八丁許あり。又下ること三間許にして一郭あり、三の丸といふ。
東西六間半、南北十間半許。本郭より西北に一郭あり。東西六間、南北四間。同じく東南に降りて一郭ありて東西六間、南北十五間。鳥羽山は四方峻険にして、南より西に亘りて依田川をめぐらし、東に深山の集落ありて、丸子・佐久方面に連絡す。里傳に鳥羽氏の居城にして、天文中福島肥後守之に拠るといふ。
福島肥後守は佐久郡芦田城主依田信蕃の組下にして此城に居る(千曲真砂) 天正十一年三月二十二日岩尾城の戦に主従共に戦死して廃城となる(信濃細石)

鳥羽城見取図②

【城跡】

麓の居館とは別に、険しい岩山の山頂に築かれた詰め城にも戦闘施設と居住空間が区分けされている。
見取図では、鳥羽山のピーク周辺は土塁で囲み三方の尾根を堀切で遮断し厳しい防御を敷くものの、北尾根筋の東斜面は小屋掛けを意識した二つの広い削平地が造成され、段郭まで置かれている。
加工度は高くないが、東西は険しい断崖で人を寄せ付けず、登城口もかなり制限されるので、少数での防衛には向いているだろう。

鳥羽城2 (24)
根小屋か?と思うほど丁寧に削平された郭。小屋掛けに最適である。

鳥羽城2 (25)
この高所では井戸も無理なので天水溜を備えたか。

鳥羽城2 (30)
日当たり良好の優良物件。逃げ込み城としての機能もあったと思われる。

鳥羽城2 (34)
宮坂先生の縄張図では根小屋から東麓の深山集落に通じる山道が描かれていたが、途中で寸断され辿る事は無理だった。

●鳥羽城の中心地区

居住空間から土橋状の土塁を南へ進みピークの主郭を目指す。堡塁から高低差を利用した堀切㋐で遮断された尾根はかなり厳しい処理で攻城兵を迎撃する。

鳥羽城2 (40)
居住区から本城へ。

鳥羽城2 (41)
堀切㋐の手前の堡塁。

鳥羽城2 (44)
高低差を利用した堀切㋐。かなり厳しい落差である。

鳥羽城2 (50)
堀切㋐を西側より撮影。あっ、ていぴす殿が写り込んでる・・・・って心霊写真かい!(笑)

鳥羽城2 (54)
主郭手前の段郭。周囲を囲む土塁は曖昧な処理に終わっている。

鳥羽城2 (58)
石碑の建つ主郭(22×14)。

主郭には「鳥羽氏先世塁址」と記された石碑が建っている。運び上げるのは結構大変だったと思われる。

主郭の石碑は「福嶋氏石碑」で、「長野県町村誌」に宝暦四年「宝暦四年、伊勢御師福島某、本村鳥羽城本丸跡へ石碑を建て、鳥羽氏の旧地のある事を明にす。石碑南向きにして、正面に鳥羽氏先世塁址と記し、左に孝孫従四位下度会神主未済建、右に宝暦四年三月」と詳細が記されているという。

鳥羽城2 (61)
1744年にこの石碑をここまで持ち込む執念とは・・・(汗)

鳥羽城2 (63)
主郭の西側の土塁壁。風化が進んでいる。

●南尾根の処理

主郭から伸びる南尾根には堀切一条を置いて郭4を置いている。依田川からの敵を想定しているが、岩場が連続するので堀切の防御だけで充分だったようである。

鳥羽城2 (65)
南尾根と主郭を遮断する堀切㋓。上巾6m。

鳥羽城2 (66)
郭4(20×10)

●北東尾根の処理

大手を北尾根の麓にある鳥羽館とするか、北東の尾根先の深山集落方面とするかで大きく変わる。
実際に現地を歩くと、大手は深山集落から登る東尾根で、北尾根は搦め手のようである。が、しかしこれは鳥羽城の最終運営時点の話であり、当初は根小屋などなくピークに物見を置いた単純な作りだったと思われる。

鳥羽城2 (74)
主郭と郭2の間の堀切㋑。かなり埋もれてしまい不明確になっている。

鳥羽城2 (75)
北東尾根はオーソドックスな連郭方式。

鳥羽城2 (77)
郭2。

鳥羽城2 (81)
削平の途中で造成工事が止まったような郭3。

郭3の先は段郭を重ねて堀切㋒を間に挟むシンプルな縄張であったが、鳥羽城の正攻法はこのルートなので、セオリー通りの処理であろう。

鳥羽氏の孫が福嶋を名乗り、信玄の幕下となり鳥羽城の城主となって、武田氏滅亡後は依田信蕃の家臣となり岩尾城の戦いで信蕃と共に討死した。
伝承を鵜呑みにする訳にはいかないが、城歴を知る事で鳥羽城への見方が変わるのもまたしかり。

鳥羽城遠景
依田川沿いから見た鳥羽城遠景。

≪鳥羽城≫ (とばじょう)

標高:843.8m 比高:290m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市腰越深山
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥屋城、鳥屋山砦、根羽城、丸子城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しの痩せ尾根は転落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、小県郡史など
SpecialThanks:ていぴす殿

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Posted on 2018/06/20 Wed. 21:34 [edit]

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