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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0909

堀金氏館 (安曇野市堀金烏川)  

◆戦国期に活躍した仁科一族堀金氏の居館◆

この度の北海道における震災被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。

一昔前なら「百年に一度の災害」とか「異常気象」とかで片づけた事象が、これからは当たり前の事になるのでしょうか・・・(汗)

今回ご案内するのは、「しつこいぞ!!」と叱られても止める気の無い城館巡りの「堀金氏館」でございますw

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堀金屋敷の正面虎口の近くにある双体道祖神の前に車を駐車して探索開始です。


【立地】

角蔵山(1163.6m)の東側に広がる烏川扇状地形の上堀地区の千国街道沿いに位置し、戦時の城とされた岩原城からは南東約3.6kmである。

堀金氏館見取図①

ここは昨年、ブロ友の久太郎さんが管理人の 「久太郎の戦国城巡り」に掲載があり、「地元民が知らずしてどうする」と重い腰を上げて出掛けた次第です・・・(笑)


【城主・城歴】

仁科一族の堀金氏の初見は「高白斎記」の天文二十年に記載があり、武田氏の平瀬城攻めの際に、堀金氏は出仕し臣従している。以後、天文二十一年の小岩嶽城攻め、弘治三年の小谷平倉城攻めに参加、その戦功により千国六ヵ村の地頭に任じられている。
二代目の堀金安芸守政氏は永禄四年の川中島の戦いで戦死し、三代目の平大夫盛広は永禄十年(1567)の生島足島神社の起請文に「仁科御親類被官」にその名が見える。その後、渋田見氏と縁組したが、信玄より不届きとされて地頭職を失い、その後武田領内を追われ越中国に逃れて没落したという。

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屋敷の南入口は「大庭」と言い上堀郷倉と山車蔵の址が残る。

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北側より見た堀金氏館。道路沿いなので、うっかり通り過ぎてから気づく。

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居館の北側には僅かに土塁痕が続き、その内側を堀が巡っていたと推測される。

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館の北東は鬼門にあたるので、「隅欠け」として市神の牛頭大王を祀る堀金社が安置されている(ピンボケご容赦!)


【館跡】 ※館跡地には現在も居住されている方がいるので敷地内への無断侵入は不可。

一辺が約80mほどの方形居館で、北東及び南の三辺に土塁が残り、その内部に堀跡が残る。屋敷の北東は隅欠けにして市神が祀られている。屋敷の虎口は南側で入口から外は「大庭」と呼び村の広場になっていた。道路を挟んだ反対側には土塁で囲った構えがあり、屋敷地の址の遺構と考えられている。
比較的遺構は良く残っている。

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堀金氏館入口。土塁と堀形が比較的良い状態で残っている。

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東側の土塁の雑木林の中に朽ちた標柱を発見。22年の歳月の重みを感じる・・・(気のせいか・・・)

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館の東側の道路を挟んだ反対側に残る土塁跡(構え)。この場所に堀金氏に関わる家臣の屋敷があったのであろうか?

肝心の岩原城について、このブログで記事にしていないことに気が付く。そのうち書かないと、記憶が薄れていく・・・(汗)


≪穂高氏館≫ (ほりかねしやかた)

標高:573m
築城時期:不明
築城・居住者:仁科系堀金氏
場所:安曇野市堀金烏川上堀
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し 
見どころ:土塁・堀跡など
付近の城跡:矢原北村堀ノ内、矢原東村の堀ノ内、岩原城
注意事項:無断侵入禁止。住民のプライバシーには充分注意
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)







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Posted on 2018/09/09 Sun. 14:41 [edit]

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