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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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伴野古城 (下伊那郡豊丘村神稲)  

◆伊那谷の河岸段丘の城にありがちなオーソドックスな縄張り◆

その気になっているうちに掲載しないと、一ヶ月近くブログ更新が放置されるので連投してみましょう・・・(笑)

今回ご案内するのは、昨日ご案内した「田村の城山城」から約1km南の「伴野古城」。同様に河岸段丘の先端を利用した館城だ。

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城跡の入口には立派な石碑と説明板がある。

【立地】

前回の「田村の城山城」と同じく単流側に突き出した河岸段丘の先端を利用した城館。台地の東側を堀切で仕切っている。詰めの城はここらしいが、麓の居館の位置は不明で、戦国初期の縄張りのまま残り、早いうちに捨て置かれたように思える。
天龍川を挟んだ対岸には松岡氏のネットワークの城群が良く見える。

伴野古城見取図①
時間に追われてしまい、今回踏査したのは、郭1と郭2、そして堀切㋑と㋒のみであった。


【城主・城歴】

5世紀の初めに朝鮮からの帰化人である大伴氏の一族が土着し伴野氏を称したのが始まりだとされ、最初は段丘上に居を構えたというが、後に麓に下ったという。麓の居館跡ははっきりしない。
伴野氏は知久氏の配下であったようで、天文23年に武田軍との合戦に及んでいる。
敗北後は信玄に従い、各地を転戦するが、城館はその後改修される事なく武田氏滅亡後には放置されたのであろうか。

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郭1の東側に新たに造成された墓地。

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郭1と郭2を区画する土塁の上に築かれた社の脇に申し訳程度に標柱が建つ。


【城跡】

道路の開通により改変された堀切㋒と堀切㋑に区画された部分が主郭。83×60と広い。宮坂図に従い、堀切㋑は貫通した堀切を推定して描き込んだが、案外と現状のように堀切は両サイドの斜面に対しての防御のみで、副郭(郭2)とは土塁で遮断していただけに思える。

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郭2.杉林が500年もの間城跡を守り続けている。有難い事ですw

郭2(副郭)は45×60の三角形でこの城域の中での防御性は一番高い。時間の都合で郭3及び郭4は未踏査のままである。
下伊那地方の河岸段丘を利用した館城を歩くとほぼ似たような縄張で、戦国時代の初期は豪族間である程度の築城技術が共有されていたのかもしれない。

DSCF3995.jpg
堀切㋒の痕跡はカーブミラーの奥側に確認出来る。

IMG_0551.jpg
郭2の北側の切岸。かなりの角度を付けている。

伊那谷の城は、戦国時代の早い段階で武田氏の被征服地となったためか初期仕様の館城が多く見受けられ、あまり改修されずにその役目を終えた城が多い。
軍事的緊張の最前線にある山城が絶え間なく改修を繰り返した縄張の面白さとは程遠い為か、あまり人気が無いのも事実だ。
それでも、それぞれの城にはそれぞれの歴史があり色々な背景がある。そんな城をこれからも紹介していきたい。

DSCF4010.jpg
残念ながら堀切㋒は道路になってしまったが、それ以外の遺構がしっかり残っている。


≪伴野古城≫ (とものふるじょう)

標高:505m 比高75m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村神稲(くましろ)
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し、路駐
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

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北側の堀切㋑の堀底から撮影。かなり埋まってしまい辛うじて型が残る程度。



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探訪時のスクリーンショット
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Posted on 2019/06/30 Sun. 11:54 [edit]

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