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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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駒場城 (下伊那郡阿智村駒場)  

◆伊那谷の南口を抑える交通・軍事上の要衝◆

全く関係の無い話なのだが、先日職場の不健康健康診断があり、体重計に乗ってビックリ・・・前年比▲5kg・・

ジョギングをしようが、山城探訪で月2回1万歩を歩こうが、「今日も元気だ、ビールが美味い!!」なんて生活習慣を繰り返していたら、全くもって痩せる訳ない事実・・・・毎日体重計に乗ってもそりゃ無理だわ・・・・・・(笑)

今回の痩せた要因は何だろう?と考えてみたら、加齢による食欲減退って説が最も有力かもしれない・・・・(爆笑)

ま、そんな個人的な話はともかくとして、今回ご案内するのは地元から城山と呼ばれる「駒場城(こまんばじょう)」

駒場城(阿智村) (1)
城跡から飯田市方面。烽火台としてのロケーションも申し分無い事がわかる。

【立地・背景】

恵那山に源を発する本谷川が、黒川、大沢川等の水を集めて阿智川となって東へ流れる川沿いに、かつての伊那街道の駒場宿がある。
一本道の街道の両側に町屋が並ぶだけの宿場町であるが、この宿場町から阿智川を隔ててそそり立つ急峻な山が駒田城山である。

此の山は、昔から城山と呼ばれ、延宝四年(1676)の「駒場村絵図」に「城山、御公儀林、松立」と書かれていて、当時の駒場村の領主は宮崎太郎左衛門であったが、この山は領主や村人の利用できない「御林」(おばやし)として存在していたことを物語っている。

駒場城(阿智村) (5)
駐車場は郭2と郭3の間にある20×11の郭。公園による改変があり往時の遺構か不明だ。

駒場城見取図①
主郭背後の五連の堀切処理は、その指向性だけ見れば武田氏の侵入に備えた小笠原系の改修とも思えるが・・・。

駒場城(阿智村) (10)
東尾根の段郭に付随する堀切は武田時代の改修のようだが、どうであろう。

駒場城(阿智村) (12)
郭2。全山耕作地となり、その後の公園化による改変により往時の遺構を見るのは難しい。


【城主・城歴】 ※「定本 伊那谷の城」(1998年 郷土出版社)より引用

築城主は、確実な史料がなくわからないが、「信陽伊那記」に次ぎの記事がある。「この駒場次郎は林丹波弟にて、林理右衛門が叔父なる丹波には大伯父なる。応永の頃、川南に山城を築き在城し、駒場を押領す。本名は林恵次郎、息子は惣馬、父子共に討死す。
此の子惣市幼稚の頃、林丹波城を攻めてとり押領し、惣市には僅か八軒屋敷を宛て行ふと云ふ」

駒場城(阿智村) (13)
「ブランコ、お砂場、滑り台」のある楕円形の本郭。高度成長期に公園化された城跡にの残る昭和の遺跡である。

また、「旧事勘考記」という当地の旧家の家伝記に、「城山・阿智川を隔て駒場と相対す。武田氏領地中、狼煙台址にして、北は山本の茶臼山狼煙台、南は浪合方面の狼煙台に信号発いん受継の要に供せしものならんか。
また曰く、駒場次郎は山本保田下林理右衛門の弟なり。駒場を押領し山城を築き居住す。死後其の子惣市若年故理右衛門の子、丹波居城し八百石を押領、後に下条の家臣に討ち滅ぼされたりといふ。駒場次郎は力量強勢者ゆえ在名を呼べり云々」と。

駒場城(阿智村) (14)
主郭その2。主郭には土塁痕が見られるので、外周または一部は土塁が盛られていたと思われる。

この二つの史料にはそれぞれ欠陥があって全面的には信用できない。前者の「応永(1394~1428)の頃」は室町時代の初頭で、武田信玄が伊那谷を領有した天文二十三年(1554)からはおよそ150年前になり、古きに過ぎて人間関係が結びつかない。
後者では烽火台として浪合方面と連絡したというが、この城山からは東方の山本久米城山、飯田城方向は展望されるが、西方の浪合蛇峠方向へは松澤山系に遮られて全く望めないし、貫文時代に「八百石」は適当でない。
しかし、右の二史料によって、中世の山城として林氏が構築した事はほぼ間違いないと思われる。

※以上引用終わり

駒場城(阿智村) (19)
主郭背後の堀切㋕。上巾16mほどあり、後部の郭との落差も結構ある。

駒場城(阿智村) (22)
堀切㋕。五連の堀切の規模と深さを見ると、上野南本城を除けば、境目の城として重要視されていたことが分かる。

駒場城(阿智村) (38)
堀切㋕と堀切㋗の間の20×7の郭。

駒場城(阿智村) (32)
城域で最大幅の堀切㋖(上巾17m)。箱掘なので武者溜りの機能も兼用していたかもしれない。

駒場城(阿智村) (42)
堀切㋖。甲州征伐の際に美濃口から陣城を築きながら信濃の伊那谷に入った織田軍の改修を受けた可能性も否定出来ない・・。

駒場城(阿智村) (51)
上巾9mの堀切㋗。薬研堀で北側で堀切㋘に接続する。

駒場城(阿智村) (56)
上巾10mの堀切㋘。


【城跡】

城山の三角点(693.2)から葯0m低い一段下の東の平場を主郭として東に延びる尾根先を加工した連郭式の山城である。
阿智川に落ち込む東の尾根先が大手筋と考えられ、段郭を重ねた縄張はオーソドックスな手法である。

主郭背後の大掛かりな五連の大堀切と、東尾根に刻まれた竪堀は、この砦が重要視され、改修を重ねた事が容易に想像できるが、それが武田氏によるものなのか、甲州征伐における織田方の突貫工事なのかは分からない。

また、公園化による改変も酷く往時の原型を留めているのは主郭背後の堀切のみのようにも思える。

駒場城(阿智村) (60)
五連の堀切の際級の堀切㋙。ここから急坂となり城山の三角地点に向かうが遺構は何もない。

駒場城(阿智村) (67)
城山の三角点のある場所は自然地形。我ら信濃先方衆は、節穴と言われてもその目で確かめないと気が済まない・・(笑)

駒場城(阿智村) (66)
城山のピーク693.2mの三角点。人工的な加工の跡を見つける事は出来なかった。

駒場城(阿智村) (89)
東尾根の先端の郭3。神社が勧進されているので、現在の地形を往時のままと見るのは無理がありそうだ。

駒場城(阿智村) (83)
西側より撮影した郭3。周囲の遺構は遊歩道の開通と神社参道の取り付けで酷い事になっている。

駒場城(阿智村) (92)
東尾根先端の竪堀㋑。末期の改修であろう。

駒場城(阿智村) (95)
竪堀㋑。堀底に下りて楽しいの?オフコース!「愛を止めないで♪そこから逃げないで♪」(笑)

武田氏の侵略以前は、吉岡氏と小笠原氏の境目の城。武田占領下においては、美濃侵略の軍事中継地点。甲州征伐においては、織田軍の陣城伊那谷攻略の陣城として機能したのであろうか。

駒場は、信玄終焉の地の候補とされ、近くの長岳寺で火葬されたとの伝承が残る。武田軍の重要な外征の中継地点であった。

➾詳しくは武田信玄終焉地考のポンコツ記事を参照ください。

≪駒場城≫(こまんばじょう 城山)

標高:646m 比高110m(阿智川より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡阿智村駒場
攻城日:2013年10月27日
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:城跡まで車が入るので0分
駐車場:有り。※城跡までの道路はすれ違い困難なのでファイト一発の心得が必要かと・・・(笑)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)、「定本 伊那谷の城」(郷土出版社)
見どころ:5連の大堀切、段郭、竪堀など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

駒場城(阿智村) (100)
北東の阿智川沿いから見上げた駒場城遠景。

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Posted on 2019/08/01 Thu. 21:11 [edit]

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