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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0928

大熊荒城 (諏訪市湖南大熊)  

◆諏訪を追放された上社大祝継満が復帰を画策して新たに築城した山城◆

ブログの記事を更新し続けるというのは、現地踏査の時間だけでなく、下調べに関する時間、そして「さて、やりますか!」という気力と睡魔に耐える体力、そして家人との時間を犠牲にしないという制約(これ大事!)を乗り越えなければ出来ないのである・・(いや、小生だけか? 笑)

我が信濃先方衆の盟友「ていぴす殿」がブログを中断して2年ほど経過しているが、その呪縛を解き放ち、そろそろ本気出してもらいたいものである・・小生よりも若いし、知識も豊富なのだから・・・・(笑) 請願書を集めてくださいまし。届けますから・・(爆)

さて、今回ご案内するのは、諏訪の山城ではここだけ築城年月がキチンと判明している「大熊荒城」(大熊新城)である。

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看板立ててもらったのは有難いのだが、この看板の位置だと何処が城跡なのか初心者には全く分からない。主郭跡にも欲しい。

この山城の説明についても前回の有賀城と同じく「諏訪市史 上巻」(平成七年刊行)の記事を引用させていただく。

【所在地】

諏訪市湖南大熊。大熊地区の東南で、東側を権現沢川、西側を唐沢川の浸食によって形成された急斜面の痩せ尾根を利用している。権現沢の東尾根には片山、フネ古墳があり、上社と繋がって行く。

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登り口は唐沢川沿いのS字カーブの途中から尾根を入るのが分かり易いし道形もハッキリ残る。権現沢川側は藪で分かりづらい。

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塹壕のような道形をひたすら登るので、迷う事はないが、いったい何処まで登ればよいかという不安に襲われる・・・

【築城と変遷】

築城の初めは「諏訪御符札之古書」に次のように書かれていて、文明十八年(1486)六月頃に、下位殿(おりいどの~大祝を退位した人の名称)=諏訪継満によって築城された。

「文明十八年 丙牛 御射山明年御頭足
一 上増、赤沼、島津常陸守朝国、(中略)
一 左頭 高梨本郷、御符礼五貫六百六十文、高梨刑部大輔政盛代官河村惣左衛門尉秀高、下位殿当軍大熊荒城 取立候、六月十日 甲申 除如此御座候間、(以下略)」

(諏訪大社上社の神事である御射山の儀式のこの年の当番は北信濃の豪族「島津氏」と「高梨氏」及び、かつて大祝だった下位殿の諏訪継満が務め、継満は大熊荒城を築城した、の意)

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一の木戸跡と呼ばれる分岐。(諸説あり)

築城への経過は、上社大祝であった継満が、かねてより準備して、文明十五年正月八日夜前宮神殿の酒宴の席で、惣領家の諏訪政満、同嫡子宮若丸・同舎弟小太郎・同御内人十余人を殺害して惣領家を滅亡させ、諏訪領内の政治祭祀権を一手に握ろうとしたが、惣領家に味方する矢崎肥前守政継・千野入道子孫・有賀・小坂・福島・神長守矢満実子供等に反撃され、二月十九日夜干沢城から伊那(高遠)に落ちて行った。

大熊荒城見取図①
急造の山城ゆえ、単純な縄張である。

それから一月後の三月十九日、下社遠江守金刺興春が継満に味方して、寄力勢百騎ばかりで高嶋城を討ち上原城・武津を焼き高鳥屋小屋に入った。

上社惣領家側では矢崎肥後守・神平・神二郎・千野兄弟・有賀兄弟・小坂兄弟・福島父子等で下社勢と合戦し、下宮殿兄妹三騎・大和兄弟四騎・武居六騎など計三十二騎を討ち取り、興春の首は大熊城に二夜懸け置かれ、同二十一には「下宮悉く焼き捨て広野となる」と「守矢満実書留」に記されている。

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一の木戸と二の木戸の間の竪堀。

翌文明十六年になると伊那の軍勢(小笠原左京大夫政貞・知久・笠原・諏方信濃守継宗等)三百騎ばかりを整えた継満が、五月三日杖突峠より攻め入り磯波・前山に陣を張り、同六日にはその西方に在る片山古城を整備して立て籠もった。

これに対し郡内惣領家側は干沢城に馳せ籠った。敵の軍勢は時々増加するのに、味方に加わるものはなかったが、小笠原民部大輔長朝・同舎弟中務大輔光政が安曇・筑摩二郡の軍勢を以て味方し来り、片山の向城(大熊か)に陣取り干沢城と連携して鶴翼の陣(かくよくのじん)を張って強勢となった。
「当社定めて御感応有らん」と満実書留は記しているが、この時の勝敗は詳らかではなく、恐らく継満は陣を解いて稲へ引き上げたものと思われる。

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二の木戸。簡単な造作である。

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二の木戸三の木戸の間にある石門。ここにも簡易的な防御施設が置かれていたのであろう。

その後、伊那の旧大祝側と諏訪の惣領側で交渉が進められ、和解が成立して荒城の築城や御射山御頭への参加となったのであろうが、これは伊那へ追放された大祝継満が諏訪へ復帰する為の足掛かりとしたものであろう。~(引用終わり)~

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城の中枢部手前の三の木戸。往時の地上の構造物は分からないが礎石に岩や石積を用いている。

「諏訪御符札之古書」によれば、せっかく諏訪に復帰できた継満であったが、北信濃の高梨摂津守から神長に収められる御符銭の取立のことで、晨朝守矢満実を怒らせ、満実に二ヶ月にわたって調伏され、文明十八年9月16日に祈り殺されたとされている。
不運の人生を絵にかいたような気の毒な大祝であったようです。

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城域中枢部の東側の塹壕は山道が風雨により削られたもので、横堀では無いと思う。往時は諏訪と伊那高遠を結ぶ尾根の間道として使われていたのだろう。

【城跡】

唐沢と権現沢に挟まれた細尾根の中段に築かれた山城ではあるが、麓からも限られた範囲でしか見る事が出来ない場所にある。
一の木戸、二の木戸、三の木戸と呼ばれ伝わる遺構ぶぶんには石積みも散見されるが、柵程度の簡単な構造物があったに過ぎないと思われる。

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城域先端の切岸。

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主郭の北側の尾根は段郭を重ねるオーソドックスな防御手法である。

主郭は8×16mの長方形で背後にはL字形の土塁が確認出来る。2郭との間には堀切があるが、幅も深さも物足りない。
郭3、郭4へと連続するのだが、本気でこの城で防御しようとは思えない適当な普請に終始している。
「張りぼて」の城としての役割だったようだ。

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主郭と背後の土塁。

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主郭と2郭の間の堀切。

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郭2(9×5)

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削平のはっきりしない郭3。

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曖昧な郭3と郭4の処理。

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郭4の背後の土塁を南側から撮影。

宮坂武男氏は、大熊荒城について、以下のように記述している。

「以上のように、この城はいかにも急ごしらえのもので、加工度も少なく、まことに簡単な造りであるが如期したようないきさつの中で生まれたものと思われ、継満以降使われた形跡がなく、その後の改修を受けていないので、文明年中の築城を知る上で貴重な遺構といえよう。付近にシンジョウ、キツネツカ、マワリメ、カラサワ、シンデンクネ、ゴンゲンサワ、ユノウエなどの字名が残る。」

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郭4~背後の鉄塔まで調べてみたが、堀切なども見当たらず、この城の築城の動員数は極めて少なかったと思われる。

その後、高遠(諏訪)継満の跡を継いだ頼継は、天文十一年(1542)六月、積年の望みである諏訪惣領家を乗っ取るために甲斐の武田信玄と手を結び杖突峠を越えて諏訪へ侵攻。甲州勢は長峰筒口原に押しかけた。
惣領家の諏訪頼重は、上原の居館に火を放ち桑原城に後退するも甲州勢に囲まれて開城・降伏。その後甲州に送られて自刃。

諏訪郡は宮川を境に東を武田、西を高遠(諏訪)頼継が治める戦後処理となったが、諏訪一円の支配を臨む頼継はこれに反発。九月に上原城を落とし諏訪下社を奪取するが、知らせを受けた信玄は軍勢を派遣し宮川橋辺で頼継を打ち破り、杖突峠を越えて逃げる高遠勢を追撃し高遠の居館に迫る。伊那口からも板垣信方の率いる別動隊が援軍の藤沢頼親を破り高遠を包囲。持ちこたえられなくなった頼継は和議を申し入れ、諏訪一円は完全に武田氏の配下となり彼の望みは完全に断たれた。

この時に荒城も廃城となったのであろう。


≪大熊荒城≫ (おおくまあらじょう 新城)

標高:1,000m 比高230m 
築城時期:文明十八年(1486)
築城・居住者:諏訪継満
場所:諏訪市湖南大熊
攻城日:2017年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:30分  駐車場:無し。唐沢川の道路脇に路駐。
見どころ:堀切、石積みの門跡など
付近の城跡:真志野城、武居城、大熊城、大熊荒城、小坂城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」(平成7年)


Ⓢは駐車位置。(砂防ダムの道路脇)

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麓から見た大熊荒城。


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Posted on 2019/09/28 Sat. 23:41 [edit]

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