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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0923

有賀城 (諏訪市豊田)  

◆戦国末期まで改修が続けられた諏訪を代表する隠れた名城◆

諏訪の城と言うと、真っ先に思い浮かぶのが「浮城」で名高い日野根高吉が築いた近世城郭の高島城でしょうか。

次に諏訪惣領家の本城、そして武田統治時代に郡代の置かれた上原城、そして信玄に攻められた諏訪頼重が上原城を捨てて籠城し降参した桑原城まで言えれば立派な城マニアの仲間入りですね。

今回ご案内するのは、諏訪のマニアックな山城として一度はその目で見て欲しい管理人お薦めの「有賀城」(あるがじょう)。

有賀城(諏訪市) (4)
城跡は江音寺の裏山にある。江音寺の東側の沢の登り口には表札付きの冠木門があるので迷う事はない。

諏訪地域の城は、築城の主体者によって、
①諏訪惣領家VS上社大祝家VS下社大祝家という諏訪家の争乱時代に各拠点に築かれた城
②上記の三大拠点の間に点在するように諏訪氏一族の小坂氏、花岡氏、大和氏に有賀氏らによって築かれた城
③武田信玄の侵略により攻略・改修された城、または統治拠点とされた城
の三者に大きく分けられると城郭研究家の河西克造氏は述べている。なるほど的を得て分かり易いと小生も納得する。

有賀城はどうかというと、築城時は②でその後③で大きく改修を受け戦国末期まで使われたと推定されている。

有賀城(諏訪市) (8)
厳冬期の2月、比高95mとはいえ雪で覆われた山城巡りはスパイクピン付き長靴が基本。が、防寒性は劣るのでしもやけ注意(汗)

有賀城については「諏訪市史 上巻 原始 古代 中世」(平成7年 諏訪市発行)に詳しいので引用し写真と共に解説したい。
※読むのが面倒な方は、縄張図と写真とコメントだけ見て省略してもいいですが、小生も一生懸命入力したので気が向いたら後で読んでください・・・(笑)

【立地】

所在は諏訪市豊田有賀字天狗山。豊田有賀の集落から辰野町に通ずる有賀峠の登り口、西側を中沢川の浸食で急崖とされた尾根の先端の高峰を利用している。通称では城山・寺山(山麓直下に江音寺がある)と呼ばれ、古くから諏訪と上伊那を結ぶ重要通路を扼する位置にある。

有賀城見取図①
「あっ、武田さんちの改修ですよね」と思わず声に出しそうなセオリー通りの最終形かと。

【築城と変遷】

築城については「豊田村誌」に「承久(1219~1222)の頃に、有賀四郎居之、応永年中(1394~1428)有賀美濃入道性存居之」とある。
有賀氏は諏訪氏の一族で、「神氏系図」では大祝信濃権守敦忠の弟有光が、有賀次郎として鎌倉時代の初めに有賀郷に土着したことがわかるので、承久の頃有賀四郎が有賀にいたことは確かな事と思われる。しかし土着早々に築城することは困難であったろうし、諏訪における築城の最初は鎌倉時代末から南北朝の争乱期と考えられるので、承久の頃にはまだ城が無かったものと思われる。

有賀城(諏訪市) (13)
「タショクボ」と呼ばれる沢を登ると主郭背後の大堀切㋓の堀底に辿り着く。上巾22mは圧巻である。

有賀城(諏訪市) (19)
主郭背後の三連の堀切の真ん中の㋑。堀切㋐と堀切㋑の間の頂部の削平地には不動の石碑が祀られている。

次の応永年中有賀美濃守入道性存の時であるが、「大塔物語」に応永七年十月乳七日の大塔合戦に諏訪勢300騎の総大将として性存の活躍が記されており、直接的築城の史料は無いが、この時に既に城は存在しており、諏訪の主要山城の一つとして十四世紀初期に形成されたと考えられ、以後代々有賀氏の拠所となった。江音寺の南麓山裾の字丹波屋敷は、応仁の頃(1467~1469)の有賀丹波好照の居館と伝えられる。(慶長の頃、千野丹波房清がいたともいうが、房清は天正十八年小田原合戦で死亡している)

有賀城(諏訪市) (139)
有賀城の登り口にある江音寺隣の「丹波屋敷」は「千野丹波守屋敷」と説明板にあるが、有賀丹波の誤りのようである・・・(汗)

天文十一年(1542)の武田信玄侵入の際は戦場とならなかったし、九月の諏訪頼継・祢宜満清等の反乱の際は、有賀氏は武田方に有賀紀伊守、諏訪方に有賀遠江守と二分して戦い有賀城は存続した。しかし有賀氏はそれより六年後の十七年七月の西方衆の反乱で武田方に破れ諏訪から追放された。

有賀城(諏訪市) (20)
堀切㋑と㋓の間の東側斜面に片掘㋒を入れて四連続の堀切としている。

有賀城(諏訪市) (22)
堀切㋑

有賀城(諏訪市) (26)
堀切㋐。主郭背後の大堀切㋓を除いた㋐㋑㋒㋓は武田時代の追加普請のようである。

有賀峠は諏訪、伊那間の重要路なので、有賀城には武田方の武将原美濃守虎胤が入城する。その後、長坂虎房を代官として諏訪に派遣し乱後の処理が終わったところで、天文十八年三月、この叛乱で唯一武田方に参加した千野靭負尉に、尾口郷の代替地として有賀郷が与えられる。有賀城も当然原美濃守から千野氏の支配下に移ったものと思われる
そこで千野氏は本拠地を大熊から有賀に移し、大熊から有賀の一帯に勢力を張ったのであろう。

有賀城(諏訪市) (40)
主郭背後の大堀切㋓から主郭に通じる虎口。

有賀城(諏訪市) (42)
主郭背後に巨大な土塁を備えた本郭。南半分を土塁で囲んでいる。諏訪地方では見られないので今のところ有賀城だけである。

廃城については天正十年(1582)の織田軍の諏訪侵入時が考えられる。高遠城の激戦は有名であるし、伊那から諏訪への重要拠点であるから見過ごすことなく破却されたであろう。
そのことは僅か三ヶ月後の六月二日の本能寺の変で信長が死亡すると、数日の中に諏訪へも伝わり、諏訪氏の一族衆による政権回復の動きが生じる。

有賀城(諏訪市) (46)
大土塁には石積みが二段見られるが、秋葉大権現の石碑の勧進に伴う後世の作業であり改変であろう。

有賀城(諏訪市) (47)
正面には上原城から郡代を移転した高島城(茶臼山)と岡村政庁が見える。湖畔周辺のロケーションはもとより、遠く蓼科山や八ヶ岳まで見渡せる。

すなわち、大祝職にあった諏訪頼忠を擁して、高島城(茶臼山)もいた弓削重蔵を追い出し旧領回復の旗揚げをしたのが六月十日、その諏訪勢の中心となったのが千野左兵衛伊豆守昌房で、金子城より挙兵したという。

千野氏の本拠は有賀城で、織田軍に破却されていなければ挙兵は当然金子ではなく有賀であったはずである。諏訪頼忠・千野昌房塔は高島城で諏訪の支配権を回復すると、その後天正十二年に金子城へ移り、更に同十八年には徳川家康の関東転封によって、頼忠も諏訪の地を離れ武蔵国奈良梨へ移るのである。

有賀城(諏訪市) (63)
主郭から見下ろした西側斜面の堀切の交差関係。ため息ものです・・・(笑)

有賀城(諏訪市) (45)
主郭から北斜面の防御軸であるL字堀切㋕を見下ろす。この堀も武田軍による追加普請と考えられる。

【城跡】

あくまで推定の域を越えないが、有賀氏時代の有賀城は、物見程度の広さの主郭の前後を堀切で絶ち、尾根に数段の腰郭を造作した程度であろうか。

現地を踏査した現在の状況については、大勢力による大規模な工事量の土木改修が施され、この拠点がこの地域を統治するにあたり、敵対勢力に対抗するための軍事要塞として確立された事が感じられるのである・・(・・チョッと何言ってんだかわかんない・・・笑)

有賀城(諏訪市) (56)
主郭から見下ろした西側の巨大堀切㋔。攻城兵からは絶望的な高さであり、守備兵からは投石でも仕留められる切岸の角度。

有賀城(諏訪市) (69)
主郭から堀切㋔越しに見下ろした郭2。主郭が機能不全を起こしても郭2が指揮の中心となるような設計である。

有賀城が大きく改修を受けたのは、西方衆の反乱後に原美濃守虎胤が入城した時あるいは天正十年の織田軍による信濃侵攻に備えたものと考えられるが、大規模な改修は有賀峠経由での諏訪への侵入阻止を目的とした後者と思われる。

伊那と諏訪を結ぶ有賀峠の出口を抑える要衝として、峠側に面する西尾根を厳しくチェックできるように四段の方形の郭を置き、万が一の敵の攻撃に備え、横堀に竪堀を連結させ塹壕として使用できるような工夫が随所にみられる。

有賀城(諏訪市) (70)
堀切㋔と横堀㋘は直結されていない。大堀切からの敵の侵入を遮断する意図が感じられる。

有賀城(諏訪市) (74)
主郭南側の横堀㋗は大堀切㋔と直結している。つまり堀切㋔に誘導することで郭2を主体とする籠城兵による狙撃が可能になるのだ。

有賀城(諏訪市) (77)
なかなか苦労する横堀の写真も雪を利用するといい感じに映りますよね。

グンマーの山城巡りをすると、城郭研究家の山崎一氏の唱える「一城別郭」という定義を必然的に思い出すのだが、有賀城も主郭と郭2~郭5は、そんな定義があてはまるのかもしれない・・とついつい思ってしまう。

万が一主郭が敵に占拠されても、副郭(郭2)による戦闘継続が可能であろうと・・・(汗)

有賀城(諏訪市) (78)
郭2の土塁の上から撮影した主郭の切岸。

有賀城(諏訪市) (80)
土塁から見下ろした郭2(15×188)

郭2と郭3の南半分を囲むように築かれた土塁は、防御目的だけでなく、移動用の通路として使用されたのではないか?と想定されている。ちなみに郭4と郭5には無いので小生としてはどうなんでしょう?というしかない。

有賀城(諏訪市) (84)
郭2から見上げた郭1。

有賀城(諏訪市) (88)
郭2と郭3の間の切岸。攻城兵がまともに登れる角度ではない。

有賀城(諏訪市) (91)
郭2から北側斜面に深い竪堀となる堀切㋔を見下ろす。

宮坂武男氏は、この郭2~郭5にかけての構築について、「もちろん主郭を守る目的はあるが、それと同時に峠から見て、城の備えを重厚に見せ、尾根の稜線を守るためにつくられているようにみえる」と考察されている。
宮坂氏が中世の山城をビジュアル面から考察されるのは、氏の描いた鳥瞰図をみればなるほどと頷ける。

有賀城(諏訪市) (92)
郭3。

有賀城(諏訪市) (93)
郭3から見下ろした郭4。(写真下の数字は郭4の誤り・・・失礼しました!)

有賀城(諏訪市) (99)
雪のコントラストが無いと、中々こんな写真は撮れないかもしれませんネ。

有賀城(諏訪市) (106)
最終の郭5。足跡を付けずに写真撮影するのは結構大変だったりします・・・(笑)

有賀城(諏訪市) (102)
郭5から下の尾根は数段の段郭を設営して搦め手側からの攻撃に対する防御としている。

さて、説明の下手さ加減を写真を並べて誤魔化す悪い癖は治らない・・・ご容赦ください・・・(汗)

ここからは尾根に並べられた郭の西側の横堀の防御構造を見て見ましょう。

西側の斜面は横堀+竪堀の組合せで、横堀は二重だった可能性がある(または造作途中で終わったか)
部分的に下の帯郭にも堀の形状が認められるので、風雨で埋まったように思えるがどうであろうか。それにしても狭いぞ!と言われると何とも言えないが(笑)

有賀城(諏訪市) (108)
郭4と5の西側の横堀と竪堀㋛。(上の段)

有賀城(諏訪市) (109)
この写真は上の写真の下の段の二重横堀構造の部分(分かりづらいので補助線を描いた)

有賀城(諏訪市) (111)
郭4の西下の横堀。

有賀城(諏訪市) (116)
郭3と郭4との西下横堀と竪堀㋚。

つらつらとまた写真展になりそうなので、まとめとして下の写真。あとは現地をご確認ください・・・(汗)

有賀城(諏訪市) (123)
一番奥に主郭が見える。

巷でよく囁かれる「武田の城」と言うには無理があるが、武田統治時代に武田軍による監修と大規模な土木改修工事が実施され、有賀峠からの敵の来襲に備えた城であることは間違いのないところであろう。下諏訪町の桜城とともに、在地土豪の城を武田が改修した城として、是非訪れて欲しい山城である。


≪有賀城≫ (あるがじょう 天狗山城)

標高:925m 比高195m 
築城時期:不明
築城・居住者:有賀氏、原氏、千野氏
場所:諏訪市豊田有賀
攻城日:2016年2月7日
お勧め度:★★★★★(満点) 
城跡までの所要時間:15分  駐車場:江音寺の墓地駐車場借用
見どころ:竪堀、横堀、連続郭など
付近の城跡:真志野城、武居城、大熊城、大熊荒城、小坂城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」(平成7年)


Ⓢは登り口。

有賀城(諏訪市) (144)
北側の県道16号線から見た有賀城遠景。



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Posted on 2019/09/23 Mon. 10:21 [edit]

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