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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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大和城 (諏訪市大和・下諏訪町高木)  

◆塩尻峠からの小笠原攻めの軍事拠点として武田が改修したのか?◆

今週2日(土)に開催された「全国山城サミット上田・坂城のプレ大会」にご参加いただいた皆さん、ありがとうございました!

「今回は行けなかったけど、頑張ってくださいね」と心温まるエールをくださった皆さんにも感謝申し上げます。

分科会では正直5~6人聞いてもらえればいいや、との予想でしたが、かなりの方が集まってくれてビックリ!!

心折れそうになりながら続けてきたブログ掲載に関する悲話(ブログを綴る悲しみが・・雪のように降り積もる夜には・・・ってハマショーかい!笑)が少しお話出来たかと・・・(笑)

小生の退屈な話の発表時間を大幅にカットして、皆さんのご質問に答える時間を精一杯とらせていただきました。誰一人途中退席される方もなく、最後まで聞いてくださり、ありがとうございました。来年の本チャンでも是非お会いしましょう!

遠景
来年の本大会では、初日にこの山城群に強者の皆様方をアテンドするお役目かと・・・。

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ご参加いただきました皆さん、ありがとうございました。お疲れ様でした!

分科会では、小生のブログの熱心な読者の方からは、「twitterもいいけど、肝心のブログを早く更新して欲しい!!」との要望がございました・・(汗) 全くその通りで言い訳も出来ませんね(笑)

で、今回ご案内するのは、twitterで9月に事前予告をしていた諏訪の「大和城」。(おわじょう) ※戦艦大和とは関係ありません

なんせ2016年3月の訪問なので、記憶が曖昧・・当時の写真を見ても「ここは何処?」「私は誰?」状態。
(いやいや、既に若年性アルツハイマーかもしれない・・・・・汗)

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登り口から見た諏訪湖。対岸には真志野城、武居城、小坂城、大熊城、大熊荒城、有賀城・・在地土豪の拠点城が並ぶ。

【立地】

上諏訪大和と下諏訪高木との境界線上にある。ここは霧ヶ峰より西に延びた尾根上の大見山からの枝尾根の先端を利用している。標高940m、麓からの比高差150mありかなりの急斜面で、北側高木集落からの斜面がいくらか緩やかで、馬による荷揚げはこちらからであったと思われる。

大和城(諏訪市) (8)
登り始めると左右に段々の削平地が広がる。全山耕作されているので、どこまでが往時の遺構と判断するには難しい。

【築城と変遷】 以下、「諏訪市史」の第六章「中世の城郭群」から引用転載

築城についての史料は今のところ見当たらないが、大和・高木の集落は当初より下社側の支配下にあり。大和・高木氏は下社金刺氏の一族でそれぞれの集落で一分地頭として活躍していた。殊に大和城は上社側の高嶋城と相対峙して軍事的にも重要であった。

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城域の入口にある新調された社。廃城後も山岳信仰の名残りとして続いて地元民の信仰心は厚いようである。

上下社の対立抗争が明確になってくるのは、宝治山園(1249)三月の「大祝信重解状」からで、その後蒙古の来襲(文永十一年 1274・弘治四年1281年)で、挙国一致となり、対立も緩和されたと思われるが、外敵侵入の心配がなくなるとまた競争が始まる。
即ち永仁元年(1293)上社に知久敦幸の寄進で普賢堂が建立されると、下社大祝金刺満貞は鎌倉の建長寺住持一山一寧に参禅して正安二年(1300)慈雲寺を開創する。

大和城(諏訪市) (11)
城域の東は雨明沢で、城の水の手はこの沢であろうか。

やがて鎌倉幕府が滅亡し、中先代の乱を経て南北朝の対立となると、上社は南朝方に下社は北朝方にと対立してゆく。こうした歴史の流れの中で諏訪の山城が築城されてきたが、大和城も大和郷の地頭大和氏によって下社方の城としていち早く築城され、永正十五年(1518)下社方が滅亡するまでずっと大和氏によって維持されてきたものと思われる。

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諏訪湖に突き出るような尾根に築かれているが、斜面は結構急斜面であり切岸としてある程度加工されたものであろう。

大和城見取図①
見取図も最近テキトーに描いているので心が痛い・・・(笑)

文献資料に大和城の事が最初に出て来るのは天文十一年(1542)七月の武田信玄の諏訪侵入の時である。
「守矢頼真書留」に「夜もあけ候へは、大輪(おわ)・たかしまへおち候衆はかつ 大将の御座候くわ原の城へうつられ候」と書かれている。
この時大和城は上社の諏訪惣領家の支配下にあった訳だが、諏訪頼重が桑原城で落城すると、武田方の郡代板垣信方の支配下に入った。

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登城路には石積が見られる。

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主郭直下の段郭。主郭から4~5段目あたりまでは往時の遺構とみても差し支えない様な気がするが。

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虎口をしっかり支える土留めの石積み。視覚効果も意識しているように思うのだが。

「信濃国昔姿」には「此年より武田領と成、郡代には板垣駿河守信形、天文十四年七月より大和の城に在城す、騎馬百二拾騎にて籠る、信形伊奈勢の爲に戦死す、嫡子弥次郎信里を差置る々所、野心を起し密に上杉家へ内通有るを、本郷八郎左衛門甲府へ告る、依て信里被誅」とあるがこの記事には誤りが多い。

信方は上原城下板垣屋敷に居たが、嫡子信里を大和城に駐在させたのかもしれない。信玄は諏訪を征服したのち、天文十三年から十四年にかけてしばしば箕輪から塩尻へ出陣しており、その節に上原城と共にこの大和城も軍事拠点として使用したのであろう。

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主郭は楕円形で北東を土塁が囲み、南側にも一部土塁の址が確認出来る。

天文十七年二月になると、信玄は小県郡に出陣して村上義清と上田原で対戦、板垣信方・甘利虎奏ら多くの将を失って敗退し、三月五日上原城まで退陣している。
ここで、諏訪の郡代は信方からその舎弟室住玄蕃允に引き継がれたが、七月に入って諏方西方衆の反乱が発生する。

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主郭背後の土塁の拡大写真。

この叛乱は武田軍の敗退と郡代信方の戦死を知った諏訪武士が、松本の小笠原長時と通じて武田の支配権を排除し独立を回復しようとしたものであろうが、更に高遠頼継の支配権回復への願いや(➾大熊荒城参照)、板垣信里の信玄への反逆も加わっていたのではないか。
信里の反逆については父信方の後継が出来なかったことや、信方の死に謀殺説があることによるかもしれない。

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主郭より背後の大堀切㋐を見下ろした写真。堀底からは約10m程の高さになる。

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堀切㋐の切岸と堀底。(西側)。この切岸の角度では絶対に登れないと思うが。

反乱が生ずると信玄は早速出陣してこの乱を平定し、翌八月には諏訪郡代に長坂虎房を任じ上原在城を命じる。
諏訪に着任した虎房は翌天文十八年正月八日、代官所を上原から高嶋(岡村)へ移し、高島城の修築にかかる。

大和城はどうなったかとぴうと、板垣信里は小笠原と通じてこの西方衆の反乱に乗じて挙兵し、武田勢に討伐されて大和城は破却したものと思われる。

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堀切㋐を堀底から撮影。

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堀切㋐に隣接する堀切㋖。

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三条目の堀切㋗。㋖も㋗も武田による改修で増設されたものであろう。


【城跡】

元々の大和氏時代の基本設計は、尾根の頂上に物見を置き、登り口を数段の郭で防御する簡単な縄張だったと推測される。
それが諏訪地域の覇権をめぐり、上社、下社、惣領家の三つ巴の戦いに発展すると、それぞれの拠点を強化し軍事紛争に備えたものと思われる。

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堀切㋑。恐らく堀切㋐の加工と同時に普請されたものであろうか。その後、深く鋭く長くというコンセプトで武田による改修かと。

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東の沢に緩やかに下りる堀切㋑

城跡を歩いてみると主郭を断ち切る背後の大堀切㋐と大堀切㋑の間は元々副郭が置かれていたと思われ、大規模な改修が施された時にここから西へ向けて二条の堀切を入れて副郭を廃し後方の防御を高めたものであろう。
さらに北側の尾根からの侵入に備えて堀切㋒と堀切㋓を追加普請したようにも見えるがどうであろうか。

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北側から見下ろした堀切㋑

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堀切㋑に接続する北尾根。

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かなり埋まっているが土塁でかさ上げされた上巾3mの堀切㋒。

城の搦め手方面の北尾根には二条の堀切を入れて厳重に警戒している。北の尾根をさらに比高200m程登った場所は「大城」と呼ばれ、逃げ込み城のような空間があるというが、今回は積雪もあり断念した。

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城域最終の堀切㋓。上巾6m。

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東側の斜面に鋭い竪堀となって落ちる堀切㋓。圧巻の景色である。

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稜線の部分が大城で城域の前後を堀切で遮断しているというが、お楽しみは残しておきましょうか(笑)

板垣信方の倅の信里がこの城に籠り、西方衆の叛乱の際に小笠原に内通して信玄に反旗を翻したというのは、なかなか面白い伝承である。信玄の統治を快く思わない地元民、あるいは郡代であった板垣信方が討死したことに不安をもった旧諏訪家の家臣が流言したとも考えられる。

上田原合戦で打撃を受けた武田軍が、塩尻峠からの小笠原軍の来襲に備えて一時的に上諏訪の防衛拠点としての大和城を改修強化したものと思われる。

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登り口から見た下諏訪方面。俗に云う小笠原軍との「塩尻峠合戦」は勝弦峠が戦場であったという。


≪大和城≫ (おわじょう)

標高:939.5m 比高165m 
築城時期:不明
築城・居住者:大和氏、武田氏
場所:諏訪市大和・下諏訪町高木の境
攻城日:2016年2月7日
お勧め度:★★★★☆
難易度:中級クラス。登山道あり。
城跡までの所要時間:20分  駐車場:無し。道路脇に路駐。
見どころ:堀切、段郭群など
付近の城跡:桜城、高木城、高嶋古城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版) 「諏訪市史 上巻」


Ⓢは登り口(表示あり)。路駐は近隣の住民の邪魔にならない様に留意。

大和城(諏訪市) (97)
登り口から見た大和城。






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Posted on 2019/11/04 Mon. 07:49 [edit]

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