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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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武居城 (諏訪市中州神宮寺)  

◆堀切が全く見当たらない山城◆

さて、話を諏訪編に戻そう。(←えっ、そんなにあっさりと戻れるんかい・・・汗)

未掲載で賞味期限切れの取材済みの山城を約300近く抱えて、これから記事にして何年かかるのかと思うと気が遠くなる・・・(笑)

千里の道も一歩から・・・(大江千里は好きでしたが、この千里はちょいと訳が違うよネ・・・)

今回ご案内するのは、全く堀切の「ほの字」さえ作られなかったらしい武居城(たけいじょう)。

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ここも御多分に漏れず城址の整備事業は地元の有志に頼る部分が多く、将来への継続性は不透明のようである。

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城跡までの道はダート(未舗装)だが、乗用車でも入る。路駐になるので大型車は厳しいかと思われる。


【立地】 ※諏訪市史より引用転載

中州神宮寺にあり、諏訪大社上社より東方茅野側へ四~五00メートル、西側(上社側)を女沢川、東側は西沢川の両河川の浸食によって形成された尾根の中腹の小峰(城ヶ峯)と、先端部の段丘上(武居平)からなる。
段丘北側は比高六~七十メーテル(鉄郎はいない)メートルの垂直的断崖が三~四00メートル続き、段丘上は長方形の平となっていて、城主の居館や家臣の屋敷地(保科畑の呼名が残る)があったと考えられている。

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「ショイビキ道」と呼ばれる竪堀状の材木の運搬道をしばらく登ると城域へ。

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長野県による支援事業として補助金を活用し整備された城跡には立派な説明板が立つ。

【築城と変遷】 ※諏訪市史より引用転載

築城については、「信濃国昔姿」に「神宮寺村武井城、後醍醐帝御代元徳二年(1330)諏方五郎時重(系譜は不明)鎌倉の執権北条相模守高土岐の聟と成り、信濃国を一円に得て當所武居に居城を構え在城す、(中略)時重は正慶二年(1333)北条一家滅亡之節鎌倉にて高時入道を介錯し其身も自害す、其後城主知れず」とって、鎌倉幕府の終末時に執権北条高時の厚遇を得て築城されたとしているが、築城の要因は他にもあったものと思われる。

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説明板の立つ主郭側面の段郭。

即ち幕府政治の動揺衰退の契機となった蒙古の襲来は、全国的に武士団の活動を活発化し、博多湾における蒙古軍との戦闘は従来の武装j強化の他に防御施設の築造の必要性を痛感させたものと思われる。
瀑布はその後も1300年頃まで鎮西探題を設置したり、異国警護番役を勤めさせたりして蒙古の来襲に備えていた。

武居城見取図①
北斜面に張り出す尾根を整然と段郭として整地している縄張である。

諏訪武士と幕府との関係は頼朝以来深いものがあるが、諏訪蓮仏入道盛重と執権泰時依頼殊に密となり、蒙古襲来時の諏訪神への期待は「諏方大明神画詞」の記載で判るし、北九州地方の諏訪神社分布の多いことにも関連して考えられている。
このような状況の中で諏訪氏は出陣より帰って、1300年前後に神社に近い好地形を利用して築城したものと思われる。諏訪地域の山城で築城年代の知られるものでは最古であり、上社に隣接し、片山の急崖・城ヶ峯・西沢・女沢など地形的要害に築かれた城であるが、時重の系譜は不明で、正慶二年鎌倉東勝寺で北条氏一門と共に滅亡すると一旦廃城となったと思われる。その理由も不明である。

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後方から見た主郭。

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「武居城跡森林公園」として整備された主郭。

その後、史料中にこの城が出てくるのは一世紀後半後の文明十六年(1484)、神長「守矢満実書留」で、前年正月神殿で惣領家を倒し支配権を握ろうとした上社大祝諏訪頼満は高遠に追われたが、この年五月三日伊那の軍勢三百騎ほどで杖突峠を下り、磯並・前山に魚鱗の陣を張った。同六日に片山古城を開いて立て籠もった。つまり中先代の乱後廃城となっていた武居城を修築して本陣としたものと思われる。

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耕作地化⇒公園整備により周囲が土塁で覆われていたかも不明な主郭。

これに対して惣領家勢は、安曇・筑摩の小笠原の援軍を得て干沢城・大熊城を両側として鶴翼の陣で相対した。戦闘の状況や結果について神長守矢満実、「非例下位殿為追伐御発向候間、当社定有御感應」と記しながら、結末については何も書き残していない。
そして「諏方御符札之古書」の文明十八年御射山明年御頭足の左頭条に「下位殿當郡大熊荒城取立候」とあり継満が荒城を築いており、翌十九年御射山明年御頭足の上増の条に「藤沢庄諏方信濃守継宗御勤仕」とあって高遠の継宗が御射山御頭を勤仕することになっている。(中略)

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主郭の切岸。

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北側から見た主郭の切岸と郭2。

廃城については天文十一年(1542)七月の武田信玄の諏訪攻略と、九月の高遠信濃守諏訪頼継の叛乱と相次ぐ二度の戦乱が考えられる。(後略) ※以上 引用終わり

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土橋というよりは、「一騎駆け」のような背後の尾根。

【城跡】

広大な主郭を頂部として北東の尾根伝いに五段の帯郭を重ねた連郭式の山城である。城内に通じる登山道は長大な竪堀のように思えるが、いわゆる「背負引道(しょいびきみち・・・薪などを背負いながら引き下ろす道のこと)」と呼ばれる後世の作業道であり、往時の遺構ではない。雨水の浸食による部分もあるようだ。

そして、この城には不思議な事に「堀切」と呼べる遺構が一つもない。
見取図には堀切っぽい図を示してあるが、一騎掛けの土橋状の痩せ尾根で、左右の沢は天然のものである。

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一見すれば薬研堀に見える。

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これだけの天然の沢があればわざわざ加工せずとも済んだのであろう。

諏訪地方の山城の多くは、フロント側を段郭を重ねて重厚にしている割には搦め手の防御は極めて脆弱である。(武田に改修された城は堀切を増設しているが)
武居城は背後の尾根伝いの山容の厳しさから堀切を必要としなかったようである。

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一騎掛けの痩せ尾根。逆に堀切を穿つよりは敵の殲滅には都合がいいかもしれない。

主郭から五段の段郭は往時の遺構らしいが、その先の北尾根と北東尾根の登山道沿いの段郭は後世の造成地だろうと推定されているが定かではない。

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背後を尾根伝いに登れば、高遠に通じる杖突峠に繋がるらしい。

城域の麓に広がる高台は武居平と呼ばれ、平時の居館があり近年の発掘調査では生活空間が想定される出土品が出たという。
城館一体型の遺構に対する否定的な意見が最近は多くなっているように思うが、平時は麓の居館、戦時は背後の詰め城に立て籠るという理に適った図式のどこがおかしいのか?甚だ疑問である。

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郭2と郭3。

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郭4。耕作地化による削平も考えられるので、全てが往時の遺構と見るのは無理がある。

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郭5から見た武居平の高台。

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結構広大な土地であり、板垣平に匹敵する。

鎌倉時代から続く築城年代の分かる山城は珍しいし、戦国時代に再利用されるケースもレアである。
通常堀切の存在が確認出来ない山城は否認されるケースが多いらしいが、この山城は別格のようだ。
公園化されて残念な部分もあるが、諏訪地方を代表する山城なので、近くにお越しの際は探訪をお勧めする。

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ジムニーで更に上の林道まで走ったのが赤い点線(笑)

≪武居城≫ (たけいじょう 片山古城 武井城)

標高:942m 比高:165m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:諏訪市中州神宮寺
攻城日:2017年4月29日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分
見どころ:段郭、一騎掛けの土橋など
駐車場:無し。


Ⓢは登り口。駐車場は無いので邪魔にならない場所に路駐。
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Posted on 2019/12/10 Tue. 21:11 [edit]

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