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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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小山城 (山梨県笛吹市八代町)  

◆小山穴山氏の築城にして、天正壬午の乱で鳥居元忠が配備され徳川が改修したと伝わる城◆

twitterのフォロワーさん以外の読者の方々には、一ヶ月もブログを放置すると死亡フラグが立ちそうなので、気力を振り絞ってテキトーに更新したいと思います・・(⇐、おいおい、それはそれで失礼だと思うが・・・笑)

今回ご案内するのは、5年前の信濃先方衆甲斐遠征で未だ掲載していない小山城。甲斐の城館もなかなか魅力的で大好きです。

IMG_1031.jpg
城址碑ファンには堪らないであろう重厚感のある石碑。

【立地】

笛吹川の支流、天川の浸食によって形成された段丘上に記事かれた城である。北側に鎌倉往還(御坂路)、南側に若彦路が城の南北を通り、交通の要衝にある。これらを抑える目的で築城されたと推定される。

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説明板のある東側の虎口。まずはその巨大な土塁に圧倒される。

小山城③
道路によって改変されたもののよく形態を留めている東側の堀。

【城主・城歴】

築城者や築城年代ははっきりしないが、「甲斐国志」(かいこくし)は穴山伊豆守の居城として記録している。穴山氏は巨摩郡穴山を本拠とする武田一族で、穴山義武が祖とされる。

穴山伊豆守は宝徳三年(説明板には二年)に、小石和に居館のある甲斐守護の武田信重(伊豆守の従兄弟)を襲って敗死させるも、成敗されたという。その後小山穴山氏は信重の子の信介の弟基経が継承している。

小山城(笛吹市) (6)
南側の隅の土塁の上には徳川軍の改修により櫓台があったと推定されている。

永正の頃(1504)、穴山伊予守信水が住し、大永三年(1523)三月、鳥坂峠を越えて攻め込んできた南部下野守と花鳥山で戦うが敗れ、小山城に籠城するも利あらず、二之宮の常楽院で自刃したという。(甲斐国志) 
その後小山穴水氏の動向が確認出来ないので、小山城の穴山氏は滅亡したと思われる。小山城を接収した南部氏は天文17年(1548)に武田晴信により罪を得て城を捨て廃城になったと現地説明板にあるが、定かではない。

小山城見取図(笛吹市)①
現在残る姿は方形居館そのものだが、東を除く土塁の三隅は大きく堀に張り出し櫓台があったと思われる。

小山城が再び記録に登場するのは、天正十年(1582)に勃発した天正壬午の乱である。本能寺の変後、武田の旧領は北条、徳川、上杉の三つ巴nの草刈り場の様相を呈した。

当時の甲斐は、北条軍が都留郡全域と北巨摩の八ヶ岳南麓の七里岩台地上に侵攻しこれを制圧。徳川家康はこれに対して、新府城や能見城などを拠点に北条軍に対抗したが、この時都留郡の北条軍の動向を監視したのが小山城であったと伝わる。

小山城(笛吹市) (12)
西側より見た南櫓台と堀。叩き土塁と張り出した形状、堀は拡幅された様子が確認出来る。

徳川家康は、小山城に重臣鳥居元忠を派遣し、騎馬130騎、雑兵600人を配備したとしう。(騎馬武者1名に徒歩兵4名だとしてざっと1200名か?)
城将の鳥居元忠は、八月十二日、御坂城を出陣し、甲府攻略を明座して鎌倉往還を下りてきた北条氏忠ら一万余人を、この小山城から出て迎え撃ち撃破している。
その後、北条と徳川が和睦するに及び、天正壬午の乱が終結すると、小山城はその役目を終え廃城になったものと思われる。

小山城(笛吹市) (14)
堀の幅の違いから徳川改修時には南側の虎口が大手と推定されているが、耕作地への改変により往時の姿は見えない。

小山城(笛吹市) (15)
徳川改修時代の大手と呼ばれる南側の虎口から館内部。

小山城(笛吹市) (18)
南面の堀切は徳川により幅を広げて掘り下げたものであろうか。

【城跡】

現存する城跡は単郭の方形館である。発生からして小山穴山氏の城館として築城されたもので、それが天正壬午の乱の時に、土塁や堀の強化が行われたばかりか、駐留する兵の数から付近にも外郭を増設した形跡がある。
北東部の堀形や岬状に突き出た一角や西側の部分、南のあたりはその時に強化された所であろう。
また、土塁の北東隅を除く三隅は櫓台として改修されて実際に櫓が建てられたものと思われる。

小山城(笛吹市) (22)
南側の堀切は土塁によりかさ上げされている。

小山城(笛吹市) (24)
東屋の置かれる西側の櫓台址。血気盛んな鳥居元忠軍の雄叫びが聞こえそうである。

土塁内の広さは東西67m、南北55mで広いとは言えないが、堀幅は上巾16mから22mを数え、土塁の外側斜高は10mから13mもあり、実に雄大豪壮である。
この規模は勝沼氏館の復元されたものを遥かに上回るもので、天正壬午の乱における徳川勢の修築によるものと考えられる。

小山城(笛吹市) (25)
これだけの遺構をよくぞ現在まで伝えていただき、感謝感謝でございますw

小山城(笛吹市) (29)
西側の堀と土塁。千名の兵士の収容には西側の台地も宿営地として活用したと思われるがどうであろうか。

小山城(笛吹市) (35)
方形居館を戦闘の城に大規模改修するとこうなる!!という見本です。

小山城(笛吹市) (41)
とはいえ、切岸の美しさにはハッとさせられますw

小山城(笛吹市) (44)
小山城の北側の堀と切岸。

小山城(笛吹市) (46)
徳川の土の城の特徴である叩き土塁。さりとて断定はできませんネ(笑)

小山城(笛吹市) (51)
北隅の櫓台にある東屋。朽ち果てるなら無用の長物かと・・・。

小山城(笛吹市) (61)
小山城の中心部。とても千人は収容出来ない・・・(汗)


【天正壬午の乱と甲斐国】

甲斐(山梨県)の山城は残念ながら認知度が低く、躑躅ヶ崎館、新府城、要害城、岩殿城ぐらいであろうか。武田信玄の本拠地であるために、戦乱とはあまり関係もなく実戦を経験した城も少ないというのが理由のようである。

ところが、天正十年の本能寺の変の後で勃発した武田遺領をめぐる天正壬午の乱では、甲斐国は北条と徳川の覇権争いの表舞台となり峡北・峡中で死闘が繰り広げられる。しかも僅か1年間という凝縮された期間だけというのがミソである。

この「天正壬午の乱」に関連した山城・城館は、有無を言わせない実戦に関わる緊張感を持つ。
数年前、寝ても冷めても峡北・峡中に通い詰めた小生の語録に間違いはないと思う・・(人生間違いの連続?・・笑)

天正壬午の乱
そのうち平山先生が宣伝料を払ってくれると信じたいが・・・(笑) サッとの知識を得るなら右側の書籍。突き詰めるなら左側。


≪小山城≫ 

標高:344m 比高:24m
築城年代:不明
築城・居住者:小山穴山氏 鳥居元忠
場所:山梨県笛吹市八代町高家
最新攻城日:2015年2月21日
お勧め度:★★★★☆
本城までの所要時間:-
見どころ:堀切、切岸など
駐車場:無し。路駐。
参考資料:「甲信越の名城を歩く・山梨編」(吉川弘文館) 「甲斐の山城と館㊤ 北部・中部編」(宮坂武男著 戎光祥出版)



御坂峠①
小山城から見た御坂峠。

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Posted on 2020/02/16 Sun. 22:36 [edit]

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