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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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戸石城 リテイク④(本城と福沢出丸)  

◆ブームになろうがなるまいが、城址を整備し続ける地元の皆さんに心より感謝の気持ちを!◆

そんな事を書けばお叱りを受けそうだが、長野県の山城で一番有名な山城は間違いなく戸石城であろう。

信玄の落とせなかった城、そして彼の生涯二度目の「軍配違い」(敗戦)というニュースを往時の日本全国に配信したのである。

今回ご案内するのは、シリーズ第四話「戸石城の中枢」。郭と郭を区画する切岸の美しさはこの城の特徴でもある。

戸石城2013 (40)
北側から見た主郭背後の大堀切。(上巾14m)。箱掘は戦国末期の改修による増設のように思える。

桝形城から尾根筋を下ると上巾14mの巨大な箱掘で遮断される。本城の主郭背後の堀切なのだが、両サイドを竪堀で掘り下げるという加工はせず、尾根の遮断のみである。
現在、本城と呼ばれるこの区域の本格的な改修は真田昌幸時代ではないか?と勝手に推測している。

戸石城2013 (50)
西側斜面への加工も短い。

【おさらい 戸石崩れ】

天文19年9月の世に言う「戸石崩れ」は、七千で取り囲む武田軍に対して僅か五百の村上軍籠城兵が応戦。
難攻不落の戸石城を武田軍が攻めあぐねているうちに、北信濃で高梨氏と争っていた村上義清が信玄の戸石城攻めを知り、急遽高梨氏と和睦。

戸石城攻めから撤収する武田軍を村上義清率いる本隊二千が急襲し、武田軍は敗走。約一千の兵が討取られ横田備中守高松は殿軍を務めて討死。信玄自身も身代わりを立てて窮地を脱出するという負け戦であったという。

話は逸れるが、小生が武田信玄に興味を惹かれる元となった小説は、新田次郎の「武田信玄」だった・・・。

戸石城2013 (59)
主郭とその背後の土塁。

新田次郎の小説「武田信玄」における「戸石崩れ」の章で、戸石城への総攻撃を命じられた横田備中は晴信(信玄)に対して、「叛く佐久を殺せば、佐久は限りなく叛くでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」と諫言し、壮絶な戦死を遂げている。今でも脳裏に強烈に焼き付いているフレーズで、生涯忘れる事はないと思う。

戸石城2013 (60)
2郭から主郭への入口。ここは後世の造作であって、郭2から直にに主郭へ入るとは考えられない。堀切側からというのがセオリーかと。

戸石城本城
整然とした本城の区割りは武田時代~真田時代に造作されたのであろうか。

戸石城2013 (56)
郭2と郭1(本郭)の開口部。ここを本来の虎口と捉えるのは無理がある。郭2の西側を迂回し堀切から本郭に入ったのであろう。


【福沢出丸】

2013年の暮れに「砥石城の福沢出丸・金剛寺峠」という記事で、戸石城の福沢出丸について書いた。

金剛寺集落の説明板には所在が断定できない旨が書いてあったが、「甲信越の名城を歩く 長野編」(2018年 吉川弘文館発刊)
の尾見智志氏(現信濃国分寺資料館館長)の縄張図と記事には、上記見取図の本郭背後の堀切の西側の尾根先が福沢出丸だとしている。

福沢出丸 (3)
金剛寺集落側の説明看板。この尾根は、見取図の福沢出丸より更に北側の尾根筋である。

村上統治時代の戸石城の城下は伊勢山ではなく、戸石城の西麓の金剛寺集落と伝えられている。家臣団の屋敷も金剛寺集落に建てられたという。有事の際には、金剛寺集落から福沢丸のある尾根を登る道が城への最短ルートであると、尾見氏は解説している。小生も現地を見た限りでは異論はない。

前項でも述べたが、恐らく村上時代の戸石城は、米山・砥石・桝形で構成された山城で、現在「本城」と呼ばれる場所は加工されず、尾根先の福沢出丸と呼ばれる場所に物見が置かれていたと推定される。

IMG_2569.jpeg
堀切から福沢出丸へは道形が確認出来るので、それを辿るとよい。

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出丸というよりは、尾根先の小さな物見だが、本城が存在しないとすればこれでも立派な出丸としての機能であろうか。

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福沢出丸の全容。小さな砦だが、村上氏の家臣の名を冠しているので往時はそれなりに重要視されたのであろう。

【真田統治時代の美しき本城】

根拠もなく断定してはいけないが、現在「本城」と呼ばれるゾーンの全面改修は真田統治時代ではないかと推定される。

天文十九年、戸石城攻略を諦めた撤退中に、まさかの村上軍の逆襲で手痛い敗北を被った武田信玄であったが、翌年、真田幸隆がかねてよりの周到な調略により戸石城の奪取に成功する。

その後、信玄は佐久の内山城の郡代を戸石城に移動させて兵を置き村上軍の奪還に備え、飯富兵部虎昌に塩田城攻めを命じ、自身は葛尾城攻略に向かうも、村上義清が謙信を頼って一旦本拠地を捨てて越後に落ち延びると、戸石城はその戦略的価値を失ったようである。

戸石城2013 (57)
本郭から見た郭2、郭3。

戸石城2013 (64)
耕作地化の影響があるにしても、キチンと整備された城跡は、地元の方の熱意の賜物です。

戸石城2013 (67)
切岸で区画される山城が美しいと思うのは、小生の価値観の違いだろうか?

戸石城2013 (68)
郭3。

戸石城2013 (70)
山の尾根の上に、切岸で整地された大きめの区画された郭があるとは思えないほどの広さには驚く。

謙信に泣きつき、その後ろ盾で一度は塩田城に返り咲いた村上義清であったが、電光石火の武田軍の侵攻で再び越後へ逃走。
信玄は、塩田城に飯富虎昌を入城させて北信濃攻めの兵站拠点とするが、その後東山道と室賀峠を抑える街道の要衝の地に岡城を新たに築城し、拠点を移した。

戸石城2013 (74)
横堀を入れる事無く切岸のみの区画で構成される郭群は、ある意味分譲団地の売り出し中みたいだが美しい(笑)

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郭5。

戸石城2013 (75)
郭2と郭3の間の切岸。

戸石城2013 (78)
郭3と郭4の間の切岸。息をのむ造形美とはこのことであろう・・(笑)

戸石城2013 (79)
馬場から主要部への侵入は結構しんどい作りを意識している。

その後、武田氏統治時代の戸石城の動向は知る事は出来なくなるが、天正十年(1582)真田昌幸が家臣の湯本三郎右衛門所属の地侍に宛てた安堵状から、戸石城は「伊勢山」と呼ばれており、天正十一年に真田昌幸が上田城を築くまでの間、拠点としていたことが知られているという。

また、第一次上田合戦では真田昌幸の長男の信幸が遊軍として上田城攻めの徳川軍を翻弄し、第二次上田合戦ではその信幸が徳川軍として戸石城に入城し父と弟の籠城する上田城をけん制していた事が「浅野家文書」などで確認されている。

戸石城2013 (85)
郭4から見た郭8(馬出し)方面。

戸石城2013 (89)
郭8(馬出)と郭7の間の切岸。石積みでは表現できない土の城の美意識を感じる瞬間でもある・・(笑)

大規模な郭の配置と馬出を伴う縄張は武田による縄張を踏襲したようにも思える。真田幸隆の本領を塞いでいた戸石城は、村上義清の脅威が過ぎ去り、北信濃制圧における戦略的価値が無くなると同時に、信玄から払い下げられたのであろうか・・・。

幸隆も昌幸も、武田における家臣時代は上野国攻略の先鋒として働き、地元には戻る時間など無かったことを考えれば、戸石城の本格的な整備は武田家滅亡後に発生した「天正壬午の乱」以降であり、間髪入れずに突貫工事されたのだと思う。

戸石城2013 (91)
馬場と呼ばれる郭8。主郭背後以外は堀切を全く使わない縄張は貴重である。

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地元の方の長年に渡る整備が無ければ、見る事の出来ない極めて貴重な以降である。

さて、如何でしたでしょうか今回の「本城編」。

本邦初公開の「福沢出丸」も含め、さすがは美しき戸石城の本城。

昨今の山城ブームなどとは無縁の時代から黙々と継続された地元の方々による城跡の整備。

「いたみ入ります」 感謝の思いを胸にしっかり勉強することが恩返しに他ならない。

戸石城2013 (90)
丁寧に加工された切岸は、石垣をも上回る強靭な防御という事を改めて知る。

次回は「再発見 戸石城シリーズ」最終回の砥石城とその周辺を予定。気長にお待ちいただければ幸いかと・・・(笑)


≪戸石城 本城と福沢出丸≫ 

標高:800m 比高:160m(陽泰寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:村上氏、真田氏
場所:上田市上野
最新攻城日:2019年12月22日 (雪の残る写真は2013年2月の撮影)
お勧め度:★★★★★(満点) ここを知らずして信濃の山城は語れない
本城までの所要時間:20分
見どころ:堀切、切岸、石積みなど
駐車場:有り(陽泰寺の駐車場借用)
参考資料:「甲信越の名城を歩く」(吉川弘文館)など


Ⓢは陽泰寺の駐車場。Ⓖは大手口の登山道入り口。㋹は本城の主郭。
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Posted on 2020/01/16 Thu. 23:01 [edit]

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