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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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大草城 (上伊那郡中川村大草沖町)  

◆南朝に誠心誠意を尽くした香坂高宗の居城◆

amazonプライムビデオで、「どろろ」の2019年アニメのリメイク版の全話を見終えた。結構画像がグロいのでR18指定である。

原作はあの神様仏様の手塚治虫である。1967年から約1年少年サンデーに連載され、1969年にモノクロでテレビアニメ化された事は子供ながらに覚えていたが、物語の内容はすっかり忘れてしまい、記憶にあるのは、あのエキセントリックな歌詞の主題歌だけである・・・(笑)

物語の舞台は戦国時代の初期なので、山城マニアには時代背景に共感しながら鬼神との戦いを実感出来るかと・・・。

今回ご案内するのは、南北朝時代における南朝方の信濃の英雄「香坂高宗」の居城と伝わる大草城。

大草城(中川村) (2)

【立地】

大草城は、天龍川の左岸にあり、深沢川を利用した丘陵に位置している。本丸を中心に、北方と西方に出丸があり、堀が本丸の北、東、西にあった。
また、本丸の南は、深沢川によって深さ40m~50mに切られており、天然の要害と言える。しかし、現在は一部本丸部分にその面影を残しているが、大草城址公園として整備され、村民の憩いの場になっている。

大草城見取図①

【城主・城歴】

ここ大草城址は、南北朝時代の後醍醐天皇第八皇子宗良親王にゆかりのある所である。宗良親王は、南朝方の勢力拡大のために各地を転戦していた。興国四年(1343)、信濃の宮方を頼って、大河原(大鹿村)の香坂高宗のもとに身を寄せた。
香坂高宗は、当時大河原・鹿塩・四徳・大草に勢力を張っていた。そして大草城に住みひたすらに親王に仕えた。

親王が大河原城を拠点に活動出来たのは、天龍川東地域に香坂氏をはじめ藤沢氏・頃河内氏・中沢氏・知久氏の宮方を支える豪族がおり、更に諏訪氏へと繋がりがあったからである。

大草城(中川村) (3)
本城には東隅に石組みの上に東屋が造成されているが、公園化による造作物で往時の遺構では無い。

大草城(中川村) (5)
東屋から見下ろした本城。往時は周囲が土塁で覆われていたと思うが、取り払われてしまっている。

以後三十年余、この地を中心に各地を転戦したので、「信濃宮」「大草あの宮」「信州大王」と呼ばれた。また親王は歌人としても名高く、「李歌集」に「わが世をありやと問はば信濃なるいなとこたえよ峰の松風」「君のため世のためなにか惜しからんすててかひある命なりせは」などという歌を残している。

大草城(中川村) (6)
西に突き出す形の郭2(西城)。防御性も高く、展望もよいので城主の居館が可能性が高い。

大草城(中川村) (8)
本城と西城の間には堀切(西ノ堀)があり、埋められてしまったという。

戦国期には、伊那の諸族と同様に武田氏に属していたらしい。
天正十年(1582)、織田信長が本能寺で不慮の死を遂げた時、伊那谷は徳川氏と北条氏との勢力の争いの場となった。
いち早く行動に移したのが徳川方の下条頼安(兵庫介)で、伊那の諸氏に家康に対して忠誠を尽くすという起請文を出させている。
その中に大草休斉(香坂氏)の名もある。

大草城(中川村) (7)
郭2(西城)から見た本城と切岸。

【城跡】

公園化による改変でかなり壊されてしまい堀なども埋められてしまったが、雰囲気はそれなりに何とか感じられるのが救いであろうか。見取図にも描いているが、本城、西城、外城の大きく3つの郭から成る堅固な城で、西城と外城の間は堀で遮断されていたと思われる。
発掘調査報告書によれば、西城からは、天目茶碗、中国青磁、茶臼等が発見された。また外城地区からは掘立柱建物址9棟、鍛冶場が検出され、鉄鏃、刀の飾り金具、槍先破片、ろくろ、鎌などが出土したという。武具の修理の場と推定されるものの、中国青磁や陶磁器も発見されているという。

大草城(中川村) (13)
本城の南下の斜面には郭4で古城と呼ばれる郭がある。

大草城(中川村) (15)
本城の南東の公園と駐車場は後世の造成なので、城の遺構では無い。

大草城(中川村) (21)
現在は駐車場となっている郭3(外城)。武具や武器の製造・修理の職人たちの小屋が林立してたのであろうか。

光明天皇を擁護する足利尊氏の北朝(京都)と、吉野に遷宮し皇位に執着する後醍醐天皇が南朝として抗争を繰り広げた56年間を南北朝時代と呼ぶ。

後醍醐天皇の第八皇子として南朝方の東国平定の任務を負った宗良親王(むねながしんのう・むねよししんのう)が、南信濃の国衆である大草城と大河原城の城主であった香坂高宗に招かれ、大河原城に征東府を置き、三十有余年を過ごしたという大鹿村の城址の数々は、我ら信濃先方衆が心血注いで訪問しブログに掲載したので、是非ご覧いただきたい・・・。

大草城(中川村) (20)
郭3(外城)より見た郭2(西城)の険しい切岸と深い谷。

≪大草城≫ (おおくさじょう)

標高:604m 比高:65m(深沢川より)
築城年代:不明
築城・居住者:香坂氏
場所:上伊那郡中川村大草
攻城日:2015年9月22日
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:D(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分けではeasy)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:郭、堀形、切岸など
注意事項:特になし
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」 「定本 伊那谷の城」
付近の城址:あら城、大草休斉館、葛島城、前沢城など



大草城(中川村) (11)
宗良親王の為に鬼神になることすら厭わない香坂高宗の忠誠心にはひたすら敬服。
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Posted on 2020/03/10 Tue. 22:20 [edit]

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コメント

南北朝。香坂氏。
遠い遠い昔のことで現代とつながっている微かな感じすら持てずにいたのですが、
去年『どろろ(昭和作品) 』をテレビで見て、あら結構戦国時代もそう遠い昔じゃないんじゃない?!と思ってしまいました。
バンダイ様の眉を見るに至っては、あら平安時代も・・・と。
白黒にあの雰囲気ですし。

それにしても、武士や騎士が上司?のために命を張る時の気持ちってどんなものだったんでしょう??
いろいろ想像すると泣けます。

ところで、アチラのトピックですが・・・青柳氏と仁科氏は血縁があったような話をどこかで見たのですが(多分ネットです)、それでも不寝見で警戒は必要だったんですね。

戦国時代ってほんっと厳しい!!
現代人の御先祖様たちはよくぞ生き残って子孫を残してくださいましたっ、って気持ちになります。

いつも記事ありがとうございます。とっても勉強になります!!


じろう #6G1pQkbg | URL | 2020/03/12 00:10 * edit *

Re: じろう様へ

いつもコメントありがとうございます。

その昔、木曽義仲にハマって県内の史跡を転戦したときに、「ああ、源平合戦や鎌倉時代などは遠い伝説に近い感覚だなー」と思ったものでしたが、南北朝あたりは室町時代の初期の混沌とした時代で、大鹿村の南朝に関わる山城群を訪問した時はかなり実感が持てました。

黒澤明監督の「七人の侍」を見た時に、身分制度の無い戦国時代の村の有様に痛く共感したのを覚えています(笑)

先日、仁科領、青柳領、会田領との境目ツアーに出掛けましたが、暗黙の了解とはいえ、番兵を置き、余所者の出入りをある程度監視していたんでしょうね。
天正壬午の乱以降の景勝VS貞慶の仁義なき戦いは、この境目はかなり緊張状態にあったものと思われ、番兵やその部下が砦近くに屋敷を構えたというのも頷けました。

「中信濃のスクランブル交差点」・・・この地方を的確に表現する大好きな言葉です。

らんまる #- | URL | 2020/03/13 07:26 * edit *

城址公園?

城址公園なので期待していたのですが、堀も埋められ酷い整備振りですね。これじゃ、ただの公園。
いったいどんなセンスで公園化したのか疑問です。

崖端のような地形で場所的にはいいのですが。
戦国時代は未使用なんですかね。

あおれんじゃ #- | URL | 2020/03/23 19:29 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

行政ってのは、作るのは得意。公園とはこうあるべきだ、みたいな感じで城の遺構とか平気で変えちゃう。壊した後で怒られても謝罪すれば済むし、前任者のせいにしちゃえば問題ない(笑)

香坂高宗さんが偉大過ぎて、子孫もそれなりに頑張ったのですが大草に改姓して最終的に帰農したようです。
大鹿村への入口を守るには最適ですが、武田の統治下では戦略的には重宝されなかったんでしょうかねえ。

らんまる #- | URL | 2020/03/24 07:30 * edit *
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