らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
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仙仁城 (須坂市仁礼仙仁) 
「一年の計は元旦にあり」などというが、正月故の自分ルールを策定してしまう傾向があるのも確かである・・・(汗)
が、昨年12月から始めた週二日の断酒と夕食の断食は継続中である。自分でもその確固たる信念には感心しきり・・・(笑)
今回ご案内するのは、須坂地区では未踏査・未公表だった仙仁城(せんにじょう)である。

登り口は国道406号線沿いにある仙仁温泉岩の湯の南側のバスの回転場の脇にある延命地蔵から遊歩道に入る。

遊歩道を10分ほど歩くと「鉄塔No.60」への分岐の標柱があるので、そこから保安道を20分ほどひたすら登る。
【立地】
菅平高原を裾野に持つ根子岳(2207m)を源流とする仙仁川と宇原川が合流する場所の南の山頂(907m)に位置する。北側の仁礼の方から見ると丁度谷中に聳えていて、亀倉の地区まで見通すことが出来る。北方1.4kmには城山城があり、少し離れて米子城、更には明覚山の雨引城も視野に入る。生き方は、仙仁温泉南にある遊歩道経由で途中からNo.60の鉄塔の保安道を辿る。途中倒木等で道が荒れて迷いそうになるので注意。

心細さと戦いながらようやくNo.60の鉄塔に到着。ここまで25分ぐらい。麓から見ると近そうなんだけどバイパスは長い・・・。

鉄塔から遺構のある頂上までは「心臓破りの切岸」を這い上る。もー、息絶え絶え・・・この尾根の斜面に堀切は要らない・・(汗)

ちゃんと石段と鳥居がある。とにかく祠が見えて嬉しかった・・・(笑)
【城主・城歴】
はっきりした事は分からないが、南北朝争乱後にこの辺りを所領としていた仙仁衆に関りのある砦ではないかと推測されている。
仙仁温泉岩の湯の駐車場から旅館入口の間の橋の下にある遊歩道脇に立つ須坂市の説明板によると、
「仙仁氏は、南北朝争乱の後、信濃国高井郡仙仁山に発祥した清和源氏の流れをくむ半農半武士の一族です。戦国時代の川中島合戦の際には、北信濃の群小武士団の一つとして武田方につきました。仙仁氏の率いる仙仁衆は「新衆」として、軍役上の職制の表面には浮上することなく、架橋、陣地道路、砦の建設、敵手には、城累、河川、堤の破壊挑発行為、謀略、隠密、伝令など陰の存在として活躍しました。常に真田氏と密着して行動し、縦横に活躍した真田氏の奇略の影に、仙仁の谷で養われた先祖伝来の生活を活かした仙仁氏の存在があったといえます。
天正十年、武田氏滅亡後、井上氏の勧告を受けて、長年の敵であった上杉景勝に仕官を許され、以後上杉家に臣従しました。」

仙仁温泉岩の湯の駐車場から旅館入口の間の橋の下にある遊歩道脇に立つ説明板。(ていぴす氏の発見で、写真もお借りしました。あたしゃ見学するのも忘れました・・・汗)

単郭の物見あるいは烽火台だが、独立峰にあるのでしっかり堀切を備えているのには驚く。

主郭に建つ祠の祭神は中央が風大神、左が三宝大荒神、右が福大神の三社。地元の方に大事にされているようだ。

15×21の三角形の削平された主郭。
【城跡】
山頂は15×12mほどの三角形の平地で鉄塔の保安道から北西尾根を登り詰めた所に鳥居があり小祠が鎮座している。北西尾根は急斜面で堀切は無い。山頂の主郭の狭さの割には、北東尾根に二条、南尾根に一条のしっかりした堀切があるには驚く。主郭の西側には簡単な段郭が置かれ簡単な縄張であるが、物見や狼煙台とすれば充分すぎる防御構造である。
西の保科の霜台城との連携、南の真田領との連携手段として中継の狼煙台が置かれたはずで、今後の発見が待たれる。

南尾根の搦め手方面は鞍部までの傾斜も結構キツイので上巾7mの堀切一条で遮断している。(堀切㋐)

堀切㋐の断面。

堀切㋐の南側は削平された平地が確認出来る。

南尾根の鞍部から見上げた堀切㋐と主郭方面。
北東尾根は比較的傾斜が緩いせいか、念入りに堀切二条(㋑と㋒)を穿ち警戒している。
「こんな山の斜面に登る奴なんていないでしょ!」と思うかもしれないが、生活道路は全て山道だったと往時の方々にとっては直登など造作もない事だったと思われる。

北東尾根の堀切㋑の断面(上巾5m)

北杜尾尾根の堀切㋑(上巾5m)

本郭の切岸斜面から撮影した堀切㋑。

北東尾根の二条目の堀切㋒(上巾6m)

堀切㋒の断面図。
残念ながら城跡からの眺望は周囲の雑木林に邪魔されて芳しくない。60番鉄塔の脇から見える風景をお勧めしたい。

鉄塔脇からの風景。北方面には亀倉町、その背後に米子城、そしてさらに奥に明覚山(雨引城)が良く見える。
この砦が仙仁口において、上州方面への交通の要衝として、また小県郡の真田領との往来に関しての監視を担った重要な砦であった事は想像に難くない。真田の配下として忍びの役割を果たしたと伝わる仙仁衆、その実態の解明が待たれる。
(平山先生、出番ですよ!!・・・笑)

北東尾根から見た頂上方面。
≪仙仁城≫ (せにじょう 城山)
標高:907m 比高:217m (仙仁温泉より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:須坂市仁礼仙仁山
攻城日:2020年12月2日 単独訪問
お勧め度:★★☆☆☆
難易度:A(SS・S・A・B・C・Dの6段階のランク分け)
城跡までの所要時間:30分
駐車場:無し
見どころ:堀切など
注意事項:経験の浅い方は単独では不可。
参考文献:須坂市の現地説明板及び「信濃の山城と館⑧」P292参照。
付近の城址:城山城、源太入城など
Special Thanks:ていぴす様(登り場所のご教示と説明板の写真及び設置場所の情報提供)

城の場所と城跡までのルート。

麓の仙仁集落から見た仙仁城

集落入り口の西側から見た仙仁城の遠景。かなり険しい独立峰に築かれた砦だという事がお分かりいただけるでしょうか。
Posted on 2021/01/20 Wed. 18:03 [edit]
« 源太入城 (須坂市栃倉) | 母袋城 (長野市松代町西条) »
らんまるさん、こんにちわ。
そうですか~、週二日の断酒と夕食の断食を継続してみえるのですね。
すごい信念ですね~!、いつも腹ペコ久太郎にはちょっと想像できないです。(っていうか自分無理だと思う)
そのかいあって体調がよろしければいい習慣だと思います。やはり自分の身体は自分で気を付けて管理する、というのが鉄則なんですね。すごいです(拍手)!
仙仁城、その名の通り仙人が住んでそうな隔絶ゾーンですね、頂上まで登った人全員に今なら特別に「仙人玉」をプレゼント!というキャンペーンでもやっていたら登りますけど・・。(ちょっと何言ってんだか)
単郭仕様なのに、しっかり堀切入れて有事に備える、しかも周囲は心臓破りの斜面ですか?絶好の物件ですね。
監視目的或いは烽火台施設だろうが、ここまでしっかり普請するという丁寧さに逆に重要性も感じられますね。
おそらくですが周辺の城館からも可視範囲にあって目視しやすい山になっているのではないでしょうか?(勝手な想像ですが)
こーゆう城砦、私大好きですね。半日おれます(一日は無理(笑))。
Re: 久太郎様へ
こんばんは。
そうそう土竜(モグラ)さんとはお友達になる機会はありませんね・・・(笑)あたしゃ、ガキの事に螻蛄(おけら)とよく遊んでましたが最近はとんとみかけなくなりました。昭和は遠くなりにけりでしょうか・・・(汗)
仙人の修行の場ですか。確かに近くの尾根には「仙人岩」とか「仏岩」とかの奇岩があり、修験者の肉体と精神の道場として利用されていたようです。
小生も「元気玉」を貰えるならもう一度登ってもいいかと・・・「みんな、オラに力を分けてくれ!」(チョッと何んってんだかわかんない・・・笑)
さすがは隠密同心の「仙仁衆」。「死して屍拾うもの無し」(←このセリフのドラマは昭和人ならでは)
山城探訪の趣味の方が、鉄塔フェチってよく聞く話です。小生の知り合いにもいます。城跡に鉄塔はつきもので、保安道のあるおかげで険しい城跡に行けるなんてのはしょっちゅうですよね。
「うんうん、これは凄い遺構だ・・・」なんて誰も来ない山奥の城址で感動しているおバカな方が日本全国にはたくさんいるかと思うと、何故か安堵します・・・(笑)
コメントありがとうございましたあ!!
むだい
菅平に行く度、気になっていましたが、おかげでやっと状況が分かりました。
けっこう、すっきりした山なんですね。
下から見上げてもかっこいい山ですね。
でも直登はねえ。女神岳を思い出し、うなされます。
しかし、あそこに単独とは・・俺ならクーさんに遭いそう。
Re: あおれんじゃあ様へ
近くの城山城を記事にした時に、さっさと片づけるはずが今頃になりました。
付近にあり以前に南北朝争乱で築城されたという米子城は、地形変動で全く近寄れない山城で、何度かトライしましたがザイルとロッククライミング経験者でないと近寄る事すら出来ません・・・(汗)
単独訪問は自由気ままな利点があるものの、途中で心筋梗塞であの世に行っても発見が遅れる・・・(笑)
本人は城跡巡りでご満悦であの世に旅立っても、残された家族は「ふざけるなこのジジイ!!(怒)」(笑)
その線引きは難しいでよね。
小生が死んだら、城址に散骨して欲しいのですが、それはそれで不気味なので止めて欲しい・・・(笑)
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