らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0823

松尾新城(真田本城)  

★真田氏の山城ネットワークの本拠地★

こんばんは。

真田氏発祥の地と云われる上田市真田町は、真田幸隆の時代に松尾古城、天白城、尾引城、洗馬城、根小屋城、内小屋城、矢沢城、そして真田本城からなる山城ネットワークによる防御システムが完成していました。

今回ご紹介する真田本城ですが、この名前は真田町の方々が近年に命名したものなので、真田山城とか松尾新城という名称が本来の呼び名だったようです。

真田本城  (19)
とはいっても、規模の大きさでは他の城を凌ぐので、本城の名前がお似合いですネ
◆滋野一族の再興に執念を燃やした真田幸隆◆

真田幸隆といえば俗に云う真田三代の初代で、武田信玄の二十四将の一人で信濃先方衆。
武田家臣の中では外様だったが、信玄公の信頼はゆるぎなく「謀略の将」として他の譜代家臣より畏敬の念を持って一目置かれた。

真田本城  (9)
本郭を防御する土塁。この時代の山城の特徴でもあります。

【I Will Be Back】

清和源氏の流れを組む小県郡(ちいさがたぐん)の荘園領主として、この地方は滋野一族(海野氏、望月氏、祢津氏、真田氏)が支配していましたが、応仁の乱以降は甲斐の武田信虎、諏訪の諏訪頼重、坂城の新興勢力として台頭してきた村上義清の侵略目標となりました。

三方を敵に囲まれるうちは何とか持ちこたえたのですが、3氏が連合軍として同盟し侵攻したのではひとたまりもありません。

滋野一族の総大将だった海野棟網は関東管領の上杉氏に救援要請しますが、怒涛のごとく押し寄せる武田・村上・諏訪の連合軍に敗れ、海野一族は逃亡し真田幸隆も上州の長野業正(ながのなりまさ)の元へ逃れます。(1541年)

真田本城  (16)
西に突き出した三郭跡。馬蹄形(ばていけい)と呼ばれる山城なので細長いのが特徴です

武田信虎時代は度重なる軍役で甲斐の国は疲弊し、家臣や国人によるクーデターが起こり武田晴信が当主となります。

逃亡していた海野棟網はこのチャンスを生かすべく再度関東管領の上杉憲政に失地回復を依頼し、上杉氏は箕輪城主の長野業正を総大将にして諏訪氏と戦い優勢のまま和睦します。

長野業正は和睦の際に、海野氏への領地返還には触れなかったため海野氏のお家再興はならず日本史上からは消えます。
逆に長野側として戦った真田幸隆は、長野氏に見切りを付け家名再興の為に敵だった武田晴信に仕官します。

真田本城  (5)
本郭手前の段郭(今じゃ畑)から砥石城を望む。

武田謀略の将として、家名再興と先祖代々の領地回復の為に獅子奮迅の働きをする真田幸隆はここから表舞台に登場します。

砥石崩れで武田信玄が手痛い敗戦をしても、翌年に謀略と僅か200の兵で要塞と呼ばれた砥石城を
3日間で落とした真田幸隆。

再び戻ることの出来た故郷で何を思ったのでしょうか・・・。

真田本城  (3)

2回目の功城日:2008年5月17日
お勧め度:★★★★ 見晴らし最高
遺構:高土塁、段郭、水の手
体力:いりません
駐車場:マイクロバスも留められます
時間;15分ぐらいで廻れますよ
その他:近くには真田お屋敷跡、真田歴史館、真田幸隆のお墓のある長谷寺などがあります








スポンサーサイト

Posted on 2009/08/23 Sun. 09:24 [edit]

CM: 0
TB: 0

« 洗馬城(上田市)  |  女神岳城(上田市) »

コメント
コメントの投稿
Secret

トラックバック
トラックバックURL
→http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/11-ae17a3cf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top