らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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倉見城(立科町)  

◆北信濃の名家井上氏の一族が佐久に築いた居館跡◆

現在、北佐久郡立科町と呼ばれる地域の城跡といえば芦田城だけだと思い込んでいたが、他に「倉見城」「外倉城」が存在するという。


これではイカン!(汗)と思い倉見城を攻城する(笑)


といっても浅科にある矢島城と似たような造りで、城館に毛の生えたようなもの(失礼)


倉見城 (8)
すっかり耕作地に変身しているが、段郭の跡が見てとれる。


しっかり解説板があるのだが、要領を得ない文章で????。米持氏(よねもち)?甕氏?(もたい)


倉見城 (5)


天文年間に米持主殿介が居城としたとされる。


北信濃の高井郡井上城を拠点として勢力を誇った井上三郎満実の子である五郎家光は、高井郡米持に移り米持を名乗る。(現在の須坂市米持町)

その後、依田氏と共に小笠原・大井の連合軍の滋野氏系芦田氏攻撃に参加し勝利する。この地に移住した米持氏は芦田二郎光遠を名乗り倉見城を築いたという。

倉見城 (10)
耕作地に変貌しているが郭の段差は当時のものであろう。

倉見城 (12)
四の曲輪跡。屋敷があったのであろうか・・・。

その後、光遠は芦田庄司となり甕氏(もたいし)を称し、「甕米持庄司」を名乗ったらしい。(ややこしい)

天文十六年(1547)、佐久へ怒涛の如く進軍してきた武田氏により倉見城も佐久の諸城と共に陥落し、その後は武田支配下の城となり、天正十五年(1587)頃に廃城になったといわれている。

甕氏の足取りは掴めていない・・・。

倉見城 (15)
藪に埋もれた本郭跡。

倉見城 (16)
二の曲輪跡に佇む祠。

本郭背後に二条の堀切を穿っただけの城館では、あっという間の落城だったと思われる。

倉見城 (17)
城域の東側に回ると、舌状台地に築かれた事が分かる。

本郭北側の堀切道路脇には「日の出地蔵」が祭られている。

落城の際に城内にあった霊仏も破壊され、文久年間(1861~1863)に発見されたのだという。

倉見城 (14)

小田切氏のように佐久から北信濃へ移住した土豪もあるが、北信濃から佐久に活路を見いだそうとした土豪もいたとは初耳だった。

発掘調査では、古銭や南京製中皿が多数出土したとあり、居館であったとの説もある。

倉見城 (20)
北側大手から見る倉見城全景。

≪倉見城≫ (茂田井城)

標高730m 比高20m
築城年代:不明
築城・居住者:米持氏
場所:北佐久郡立科町茂田井
攻城日:20011年7月10日 
お勧め度:★★☆☆☆
所要時間:10分
見どころ:四段の郭、背後の堀切道路、地蔵など。
その他:民間の耕作地なので注意。付近に芦田城、芦田館跡など。
参考:定本「佐久の城」



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Posted on 2011/07/14 Thu. 21:18 [edit]

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