らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0919

和合城(上田市)  

◆虚空蔵山の西端を抑える堅固な山城◆


思えば7月10日霜台城以来、約2ヶ月ぶりの本格的な攻城の軍を起こす。

しかしこの「暑っ!」は何とかならないものか。9月も下旬だというのに・・・・。

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和合城は2007年11月に虚空蔵山縦走の際にテキトーにあしらっていたので、ブログに掲載しようと思ってもまともな写真が無い!(笑)

「ええい、馬引けい! 即刻出陣じゃぁー!!」 (まあ、計画性の無いのはいつもの事だ・・・)

和合城に攻め上がるには、上田市下塩尻にある飯綱神社東脇コースと坂城町鼠(ねずみ)のベイシア脇の墓地コースの2つがある。

※下塩尻コースは小生の物見城攻略を参考にされると良いが、道はほぼ消滅しており危険度が高い。

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鈍った老体に鞭打ち、30分ほどで城域へ。

入口での伏兵のカモシカ殿との睨みあいを切り抜けて攻め上がる。(ク―さんじゃなくて良かった・・・・マジ冷汗)

この城の魅力は、何といっても高さ6m以上、上巾20mはある大堀切だ。

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しかも堀切の縁を土塁でかさ上げし、攻め手に対して城の構造を見づらくしている。

大堀切を乗り越えて最初に現れる四の郭は、40×20の長方形で緩やか傾斜を伴う。

勝手な想像なのだが、その構造は「鉄砲狭間」として作られたのではなかろか?

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赤線は堀切。伏兵を配置可能。更に高台にある三の郭からは狙いを付けるのは容易だ。

三の郭手前の堀切に兵を潜ませ、高台から一斉射撃。四の郭の左右にも射撃兵を置く事で郭に侵入して来た敵は逃げ場が無く殲滅される。

考えすぎだろうか・・・(笑)

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確かに三の郭から侵入口に殺到するであろう敵には、狙いをつけやすい。(検証は大事です)


オーソドックスな連郭式の山城だが、二の郭と本郭は5m以上の切岸を施し更に土塁で囲む事で防禦を強化している。

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三の郭に立つ説明板。背後には5mの切岸で二の郭。


小県郡誌によると、和合城は塩尻城と呼ばれ小泉五郎左衛門拠る処と記載がある。

坂城から上田へ抜けるには、当時は和合城の東側の尾根の山道を越えるしか無かったと云う。

ここに城を築く必然性は最もであり、塩田城の異変を監視し小県郡を抑えるには要所である。

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二の郭は夏草が生い茂り侵入者を完全に拒んでいる。


村上連珠砦群(小生は虚空蔵山連珠砦群と呼ぶが)は、和合城を起点として峰伝いに東端の砥石城を結ぶ防衛戦線だったと思われる。

松代街道経由で伝令を走らせるより、山腹に築いた個々の砦を利用したほうが速かったのであろう。


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西端の崖にある本郭。烽火台とも云われるが1.5mの土塁と石積みで周囲を覆った遺構は実戦を想定している。


それほど広くない本郭だが、ここからの展望は圧巻である。

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村上氏が越後へ逃亡した後、武田軍がこの城に兵を入れたという説もあるが、室賀峠経由で狐落城を落としイッキに川中島へ進出した武田信玄がこの城を重要視したとは思えない。

寧ろ、天正壬午の争乱で上杉方が真田昌幸の監視砦として利用したのは虚空蔵山城では無くこの和合城かもしれない。


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8mの高さを誇る本郭の切岸。石積みの跡が残る。


説明板の記載通りに烽火台とするWeb記事を多く目にするが、東端の砥石城に劣らない実戦を意識した備えを持つ山城である。

村上義清の重臣だった福沢氏が城代だったとする古文書もあるので、その眼で是非確かめて欲しいらんまる推奨の城跡である。

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和合城遠景。(鉄塔が刺さっているのが残念だ)

≪和合城≫ (別名:塩尻城)

標高:654.7m 比高224m
築城年代:不明
築城・居住者:小泉氏、村上氏
場所:上田市下塩尻(坂城町鼠)
攻城日:2011年9月18日 
お勧め度:★★★★☆
所要時間:30分
見どころ:大堀切、土塁、切岸、本郭からの展望。
その他:カモシカ殿との遭遇注意。登山道はガレが多く登りも下りも注意が必要。







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Posted on 2011/09/19 Mon. 00:22 [edit]

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コメント

No title

らんまるさま、こんばんは
和合城、いいですね。
各HPでも絶賛されるその眺望、遠望、いつか制覇したいと思っています。

ところで地元のらんまる様に質問なのですが、上田原の合戦の際に、村上義清は室賀峠から上田原に進出したというのが定説?になっていますね。

素人が考えると和合城の麓を進んで、さくっと上田に出るのが良いように思いますが、なぜなんでしょうね?

それとも今とは千曲川の水量が違っていたのでしょうか?

まさ #- | URL | 2011/09/19 20:58 * edit *

Re: まさはれさんへ

まさはれさん、なかなか良いご質問ですね。

江戸時代に北国街道が整備されるまでは、上田と坂城を結ぶ街道は室賀峠のみでした。
千曲川も暴れ川だったようで、和合城の立地する崖と対岸の崖は「岩鼻(いわばな)」と呼ばれ、とても軍勢の通る道など作れなかったようです。
坂城から更埴(現在の千曲市)への通路も、東側は姫城が築かれた山裾の急峻な断崖されており、千曲川を船で対岸に渡り力石集落から上山田方面へ向かう方法しかなかったようです。
北国街道が整備されても、この場所は「横吹坂」として街道における最大の難所であり、加賀百万石の前田家の参勤交代の大名行列でも、殿様は駕籠から降りて山道を越え、無事に通り過ぎた事を本国に飛脚で知らせたという史実があります。

坂城町は信濃における陸の孤島であったのですが、逆に言えば外敵から侵入する事の難しい要害の地でもあった訳です。

武田軍の猛攻により室賀峠を抑える狐落城が落ち、荒砥城が内通したとすれば村上義清は八方塞がりとなり「袋のネズミ」状態です。いくら葛尾城が堅城であったとしても押し寄せる武田の大軍を相手に籠城など無理ですし、後詰めの無い籠城が無意味である事を村上義清は熟知していたので、一旦越後へ退却したのでしょう。

ちなみに現在国道18号線となった北国街道ですが、更埴~坂城~上田の区間が今のような道が整備されたのは明治時代で、しかも坂城村の自費だったということです。(難所だった横吹坂は現在その跡形すらありません)

長々と解説してしまいましたが、この地域の方々はそんな歴史もあり陸の孤島という気構えもあるので、武田方の重臣だった真田氏の本拠地である上田市との合併話もテーブルにさえつかず断わったようですね(笑)

らんまる #- | URL | 2011/09/20 21:52 * edit *
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