らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0922
葛尾城(坂城町) 
★信濃に覇を唱えた村上義清の居城★
ご無沙汰してしまいました。
某著名漫画作家の滑落事故に心を痛めております。
同じ山を愛するものとして心よりご冥福をお祈りいたします。
らんまるも山へ単独で取材に入るので、常に危険と隣り合わせですから他人事ではありません。
今回からは武田信玄とガチンコ勝負をした村上義清の関連の城をご案内します。

ご無沙汰してしまいました。
某著名漫画作家の滑落事故に心を痛めております。
同じ山を愛するものとして心よりご冥福をお祈りいたします。
らんまるも山へ単独で取材に入るので、常に危険と隣り合わせですから他人事ではありません。
今回からは武田信玄とガチンコ勝負をした村上義清の関連の城をご案内します。

◆武田信玄を2度撃退した槍の名手◆
~祖先は朝廷方として京都で奮戦~
信濃村上家は清和天皇の嫡流で河内源氏を祖とする名家。
源平合戦では朝廷方に深く関わりをもち、木曽義仲が平家を追討して上洛した時は京都の守護職として活躍し、義仲が後白河上皇に敵対すると源頼朝に従い義経軍の一員として平家討伐に活躍。
頼朝亡き後は執権北条氏との確執の中で疎外されるも、南北朝の争乱では南朝方として後醍醐天皇の息子である護良親王配下となります。

室町時代の信濃は守護職と国人が反目し度々合戦が繰り返されます。
戦国時代に入り村上義清が20才で葛尾城当主となると、北信濃で長尾氏を後ろ盾とする高梨・島津を抑え、関東管領上杉家に頼る小県郡の海野・滋野、佐久の大井氏を攻めます。

葛尾城の縄張り図
甲斐から侵略してきた武田信虎(信玄の父)によって佐久が奪われると、小県郡を征服するために敵対していた武田・諏訪と連合し海野平で海野一族を破りこの地方を手にいれます(海野平合戦)
※この時に武田氏を信濃に招き入れてしまったことが、彼の悲劇の始まりとなります

本郭に立つ石碑
【上田原合戦、砥石崩れ】
信虎を追放し武田家の当主となった信玄が1548年に小県郡へ侵攻するが、村上義清はこれを迎え撃ち、上田原で合戦におよび撃退する。武田方は重臣の板垣信方、甘利虎泰などを失い信玄自身も傷を負う。また、村上方も屋代源吾、雨宮刑部などの有力諸将が討ち死にする。
1550年、北信濃の高梨氏との抗争で遠征中の留守に信玄が再び小県郡へ侵攻。これを知った義清は高梨氏と停戦し反転する。
信玄は一度甲斐へ引き上げる事を決めて戻りついでに葛尾城の支城の砥石城を攻める。ところが落とすどころか逆襲されてしまい横田備中守以下1600名が討死。(世に云う信玄の砥石崩れ)

葛尾城から上田原方面。天白山城は村上義清が本陣を置いた場所。
【村上支配体制の崩壊】
砥石崩れの翌年、真田幸隆の謀略により砥石城を奪われます。
武田方の内応工作により配下の大須賀氏、室賀氏、屋代氏、石川氏の諸将が寝返り1553年、村上義清は戦わずして葛尾城を捨て、上杉謙信の元へ落ち延びます。
戦に勇猛なだけで生き残れる時代は既に終わっていたのですネ。

城の入り口に残る石積み。

二の郭に立つ説明看板の脇には、本郭を防御するための高い土塁が築かれています
村上義清の没落により、武田信玄は北信濃に侵攻し善光寺平で上杉謙信と領土を接する形となり、川中島の合戦が幾度となく繰り広げられます。
再度故郷の地への返り咲きを願う村上義清は、上杉家の客将として川中島の戦にも出陣し奮戦しますが、夢を果たせぬまま1573年に越後根知城で死去。享年73才。

葛尾城から望む千曲市。彼の脳裏には領主として治めていたこの風景が残っていたのだと思う
【余談~その後の村上氏】
彼の嫡男である国清は謙信より山浦の姓を与えられ、「山浦国清」として上杉家第二位の家老となり、謙信、景勝を支える。一時は海津城代となるが徳川家への内通を疑われてお役御免となる。
その後、会津への国替で上杉家臣として同行するが、関ヶ原の戦で上杉家を離脱し、故郷の坂城で村上家の再起を図るが失敗してその後消息不明となる。

葛尾城の南尾根には姫城と呼ばれる出城がありますが、村上時代より後に作られたようです
攻城日:2009年9月21日 (通算3回目)
お勧め度:★★★★ (眺めは特に最高)
所要時間:坂城神社より45分。近道コースは傾斜角度40度を登る体力が必要
※裏技なら、軽自動車で和平キャンプ場から林道経由で15分で直接城跡に行けます(駐車場あり)
その他:五里ヶ峰(1094m)へは城跡から約1時間。頂上の景色は更に素晴らしい
~祖先は朝廷方として京都で奮戦~
信濃村上家は清和天皇の嫡流で河内源氏を祖とする名家。
源平合戦では朝廷方に深く関わりをもち、木曽義仲が平家を追討して上洛した時は京都の守護職として活躍し、義仲が後白河上皇に敵対すると源頼朝に従い義経軍の一員として平家討伐に活躍。
頼朝亡き後は執権北条氏との確執の中で疎外されるも、南北朝の争乱では南朝方として後醍醐天皇の息子である護良親王配下となります。

室町時代の信濃は守護職と国人が反目し度々合戦が繰り返されます。
戦国時代に入り村上義清が20才で葛尾城当主となると、北信濃で長尾氏を後ろ盾とする高梨・島津を抑え、関東管領上杉家に頼る小県郡の海野・滋野、佐久の大井氏を攻めます。

葛尾城の縄張り図
甲斐から侵略してきた武田信虎(信玄の父)によって佐久が奪われると、小県郡を征服するために敵対していた武田・諏訪と連合し海野平で海野一族を破りこの地方を手にいれます(海野平合戦)
※この時に武田氏を信濃に招き入れてしまったことが、彼の悲劇の始まりとなります

本郭に立つ石碑
【上田原合戦、砥石崩れ】
信虎を追放し武田家の当主となった信玄が1548年に小県郡へ侵攻するが、村上義清はこれを迎え撃ち、上田原で合戦におよび撃退する。武田方は重臣の板垣信方、甘利虎泰などを失い信玄自身も傷を負う。また、村上方も屋代源吾、雨宮刑部などの有力諸将が討ち死にする。
1550年、北信濃の高梨氏との抗争で遠征中の留守に信玄が再び小県郡へ侵攻。これを知った義清は高梨氏と停戦し反転する。
信玄は一度甲斐へ引き上げる事を決めて戻りついでに葛尾城の支城の砥石城を攻める。ところが落とすどころか逆襲されてしまい横田備中守以下1600名が討死。(世に云う信玄の砥石崩れ)

葛尾城から上田原方面。天白山城は村上義清が本陣を置いた場所。
【村上支配体制の崩壊】
砥石崩れの翌年、真田幸隆の謀略により砥石城を奪われます。
武田方の内応工作により配下の大須賀氏、室賀氏、屋代氏、石川氏の諸将が寝返り1553年、村上義清は戦わずして葛尾城を捨て、上杉謙信の元へ落ち延びます。
戦に勇猛なだけで生き残れる時代は既に終わっていたのですネ。

城の入り口に残る石積み。

二の郭に立つ説明看板の脇には、本郭を防御するための高い土塁が築かれています
村上義清の没落により、武田信玄は北信濃に侵攻し善光寺平で上杉謙信と領土を接する形となり、川中島の合戦が幾度となく繰り広げられます。
再度故郷の地への返り咲きを願う村上義清は、上杉家の客将として川中島の戦にも出陣し奮戦しますが、夢を果たせぬまま1573年に越後根知城で死去。享年73才。

葛尾城から望む千曲市。彼の脳裏には領主として治めていたこの風景が残っていたのだと思う
【余談~その後の村上氏】
彼の嫡男である国清は謙信より山浦の姓を与えられ、「山浦国清」として上杉家第二位の家老となり、謙信、景勝を支える。一時は海津城代となるが徳川家への内通を疑われてお役御免となる。
その後、会津への国替で上杉家臣として同行するが、関ヶ原の戦で上杉家を離脱し、故郷の坂城で村上家の再起を図るが失敗してその後消息不明となる。

葛尾城の南尾根には姫城と呼ばれる出城がありますが、村上時代より後に作られたようです
攻城日:2009年9月21日 (通算3回目)
お勧め度:★★★★ (眺めは特に最高)
所要時間:坂城神社より45分。近道コースは傾斜角度40度を登る体力が必要
※裏技なら、軽自動車で和平キャンプ場から林道経由で15分で直接城跡に行けます(駐車場あり)
その他:五里ヶ峰(1094m)へは城跡から約1時間。頂上の景色は更に素晴らしい
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Posted on 2009/09/22 Tue. 12:43 [edit]
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