らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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日岐大城(生坂村)  

◆攻城戦に4時間を費やした仁科城塞群最強の城◆

この城を攻城するにあたり、事前に周到な戦略会議を開く。(って一人で会議するんかい?)

標高は990mなのだが、比高差500mはさすがにヤバいと直感する・・・(汗)

生坂村のHPで登山道を確認するが、せっかくなので京ヶ倉~大城~はぎの尾峠を縦走する計画に変更する。

「馬の背」と呼ばれる尾根の写真を見たのだが、「こりゃ、生きて帰れるかわかりません・・・」

登山靴も軽量なタイプを購入し、事前の装備に時間をかけていざ出陣。

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京ヶ倉登山口。トレッキングで人気の高い場所なので大勢の登山客で賑わう。

8:45に攻城開始。

実は、この駐車場の右にある山が「小屋城」だったと後で知り、4時間の縦走後に死にそうになりながら登る(笑)

黙々と攻め入る事45分で、稜線への中間地点である「おおこば見晴らし台」に着く。

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雲一つ無い秋晴れだったので、遠く北アルプスまで手に取るように見える。

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もう少しで稜線へ出るのかなぁー

キツイ岩場を迂回する登山道を10分登ると、手書きの看板に励まされる。

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でもね、ここから見える京ヶ倉へのルートは「マジ ヤバいっす!」

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「万平下り口」の稜線に辿り着いたのが10:45。攻城開始から既に一時間経過。

稜線の松林を抜けて、「馬の背の道」と呼ばれる岩の上の道へ。

左右は絶壁。云われようも無い恐怖感に支配される。恐いものは恐いのだ・・・(汗)

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ここが絶景と絶叫の阿鼻叫喚地獄への入口。

360度パノラマとは、こういう場所の事なのだろう。

あまりの恐怖で開き直ってしまい、写真を撮りまくる・・・(笑)

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麻績城、青柳城のある筑北村方面。

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安曇野方面。

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登山口の万平方面

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会田方面。手前の峰には支城の猿ヶ城砦、高松薬師城があるという。

まあ、こんな恐怖の攻城戦は角間温泉の鬼ヶ城以来だが、それよりも凄まじい。

で、京ヶ倉までの岩場にロープ一本で登れ!ってか・・・(苦笑)

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登山口にあっ「登山ノート」の意味がようやく判明する。

転落死の危険と隣り合わせなのだ・・・・・。

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ロッククライミングをしに来た訳ではないが、避けては通れないようだ。

10:10、ようやく監視砦の「京ヶ倉」に到着。生きてて良かったゾ!!標高990m。

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戦国時代には見張り番所そして烽火台として機能したという。

見張り役を命じられたら? 頼まれても嫌だなあー(笑)

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京ヶ倉から見る大城。

頂上では、岩登り専門らしいご夫婦クライマーの方と談笑。

「トレッキング気分で登ったが、こりゃーまるで登山だよ。お年寄りには無理だねぇ。村役場のパンフレットもちゃんと注意事項として書かないとまずいよね」

全く同感である・・・(爆)

絶景にも飽きたので、大城へ向かう。10分程度で到着。

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≪日岐大城≫

室町時代から戦国期にかけて安曇地方を支配した仁科一族の丸山氏が生坂一帯を領し、生坂山脈の要害を利用して築いたとされる。

仁科四十八城中、その規模と堅固さは随一とされ、天正年間、深志に復帰した小笠原貞慶に抵抗した丸山氏は、小笠原軍の猛攻を受けるも退けたという。(最後には降伏し開城したという)

こんな城ほっとけよ!(爆) ゲリラ戦になったら長期化必至だって!(笑)

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二の郭。

本郭は16×13。段差を利用した北側に16×16の三角形の二の郭。

二の郭の東下に6×6の腰郭。その下にも段郭があるが、井戸跡は確認出来ず。

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腰郭。

あまり手を加えた跡がみられない。天然の要害を利用した詰め城だったのであろう。

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少し下った場所には三の郭。加工の跡など無さそうだ。

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宮坂先生も真っ青の自作縄張り図。「ええーい、控えおろう!頭が高い!」(爆)

武田氏に降った日岐丸山氏は、対岸の日岐城を丸山盛武が守り、兄の織部盛直が万平(まんだいら)の城館で小屋城を本城として、大城を詰城としていたらしい。

武田が滅亡し小笠原貞慶が深志に復帰すると、小笠原氏から日岐丸山氏にも従属するよう圧力がかかる。

丸山兄弟は徹底抗戦を唱え、逆に塔ノ原まで押し出して奇襲に及んだという。

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城跡から北へ15分縦走すると「物見岩」へ。「城と古戦場」の管理人マサハレ氏によると何処にでもある岩らしい(笑)

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まあ、そうは言っても眼下に「丸山殿屋敷」を抑える監視砦だったのだろう。

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哀愁を帯びたレトロ看板。わかり易くて素敵です。

縦走も「はぎの尾峠」でいよいよ終点。時計は既に11:00。

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ってか、看板乱立状態でしょ!

昭和40年頃までは下生坂から上生坂への生活道路だったらしい。中学生の通学路とも(驚)

「おら、こんな村嫌だ・・・」 自分だったら弱音を吐いて家出していただろう(爆)

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30分かけて下山。すでに歩くのもしんどい。

承知はしていたのだが、実はここから登山口の上生坂に戻るまでが「生坂村 死の彷徨」だったのだ。

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国道19号線を歩く事40分で、ようやく役場入口の信号機。

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更に15分で小学校。既に足は限界だ。しかしここから登り坂が続く。誰か乗せてくれー(悲)

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息絶え絶えで自分の辿った軌跡を見る。(万平より)

1時間15分かけて駐車場に戻れた。車の有り難味が良く分った(笑)

予想外の疲労困憊で、その後のスケジュールは白紙となったのは云うまでも無い(爆)

ふもとの「やまなみ荘」で風呂に沈み、飯を平らげて、信州上田へ帰還したのであった・・・・・。

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入浴料300円は安い!

≪日岐大城≫ (ひきおおじょう)

標高:980.0m 比高490m
築城年代:不明
築城・居住者:日岐丸山氏
場所:東筑摩郡生坂村下生坂8453
攻城日:2011年10月29日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:下生坂からはぎの峠経由で50分。上生坂から京ヶ倉登山口経由で1時間45分。
見どころ:死と隣り合わせの絶景に尽きる(笑)
その他:転落注意。縦走するなら雨の日や雪の日は絶対避ける事。二人以上で行くなら、一台は下生坂の下山口に駐車し、もう一台で京ヶ倉登山口に行く事。一人なら戻りに備えてチャリを下山口に置いておくべし。

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Posted on 2011/10/30 Sun. 12:08 [edit]

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コメント

No title

らんまるさま、攻城お疲れ様です。

すごいルートを選ばれましたね。ただでさえ、とんでもない立地の城なのに…。

日岐氏というのも、それなりの土豪だったのでしょうかね?
あのような山奥では、戦国時代の生産力もあまり期待できないように思いますが。

うちのサイトでは「築城年代は不明だが、大永年間(1521~28)には仁科氏六代目仁科明盛の二男・仁科盛慶が城主であり、その後、丸山肥後がこの地を仁科氏から賜り修復した。丸山兵庫、丸山丹波などが城主を勤めるが、小笠原氏の属したことから武田信玄によって滅亡させられ、武田家臣・降幡備前が城代に命じられたという(『信府統記』)。武田氏滅亡後、天正十一年(1583)には織部佐盛直が城主になっており、上杉景勝に属していたとされる。」なんて略記を載せていますが、真実は、周辺の村人の”逃げ込み”の砦だったと思います。

「信濃の名族仁科氏の48城中、最も堅固だった山城。」という評価も見ますが、単に”後世の人間が登るのに一番苦労した城”ということではないのかと感じてます。

それにしても、いざとなったらあんな場所に避難しなければならない可能性もあった中世の人々は、やはり過酷な生活を送っていたのだと痛感しますね。

(そういえば、はぎの尾峠は、昭和40年まで小中学校の通学路だったようですね。すごすぎる…)

大垂水 #- | URL | 2011/10/30 20:14 * edit *

Re: まさはれさんへ

ビョーキのサイトにご賛同頂き恐悦至極でございますw。

どうせ攻めるなら人とは違う攻め方をしたいだけの天の邪鬼にござりまする・・・(爆)

武田信玄公(晴信)は、さすがです。力攻めを避けて調略で従わせました。
それに比べるとやはり小笠原貞慶は無謀でしたね(笑)、小生に良く似ている??(拍手)

貴殿の仰せの通り、実際に戦闘に及んだのかは疑問の残る処です。山の上から石を投げれば攻め手は即死の状態ですよね。遠巻に囲んで必死の開城工作でしょう(笑)

生坂集落を制圧した小笠原軍は、はぎの峠を越えて麻績城に進軍し上杉景勝と熾烈な戦いをしたというのですが、部下もさぞかし難儀をしたのでしょう。

散々放火されまくった麻績城や青柳城は、毎年キャンプファイヤーで盛り上がったのかもしれません(苦笑)

「いくさの無い平和な世の中が唯一の願い・・・」

戦国時代の民の怨嗟の声が心に沁みる攻城戦でした。

らんまる #- | URL | 2011/10/30 20:54 * edit *

お疲れ様でした

噂に違わぬ、すごい城ですね。
私の登りたくない城ランキングの上位にある城です。
登る前の作戦会議必須の城ですね(^ ^;

アテンザ23Z #/9hBKkrU | URL | 2011/11/01 11:57 * edit *

Re: アテンザ23Zさんへ

アテンザ23Zさん、西国攻城戦をいつも楽しみに拝見しております。

毎度の事ながら、一人で戦評定をして一人で先陣かつ本陣という隠密同心(?)でございます(笑)

どうせ攻めるなら「盛りあがろうゼ!!」という軽いノリですが、最近はチトしんどい・・・(爆)

いつかご一緒したいものです。

らんまる #- | URL | 2011/11/01 19:51 * edit *

私の家から、盛慶が祖先である旨の、文書が出てきました。このお話をお伺いし、感無量です。更にわかりましたらいろいろ教えてください。

丸山守夫 #- | URL | 2012/10/08 08:59 * edit *

Re:丸山守夫様へ

コメント頂きありがとうございました。

そうでしたか、名族仁科氏の末裔の方なんですね。
日岐丸山氏は、小笠原貞慶が父の長時を裏切って武田に降った豪族を悉く成敗した中で、唯一幸運にも生き残った一族でございます。それも過酷な戦国時代を生き延びる判断が優れていたからだと思います。

小生よりも小生の知り合いに丸山氏を詳しく調べた方がいますので、そちらを参考にされると良いと思います。
http://osirozuki.blog.fc2.com/blog-entry-81.html

またお気軽にコメント頂ければ幸いです。ご訪問頂き、ありがとうございます。

らんまる #- | URL | 2012/10/08 17:32 * edit *

やはりここにも!

登られましたか!
実は私、2度登りました。
2008年に登りましたが、ふもとでデジカメを落してしまい、
そのまま撮っていたのですが、どうもピントが合わない。
降りてきて確認したものの、やはりほとんどまともな写真が、なかった…
そこで翌年リベンジで再登城しました。
まさか2度も登るとは!
でも、あの景色を見れば、すべてが忘れられますよね。

ちなみに2度とも単独行、最初は村営バスで戻りました。
2回目は、地元の人が車の場所まで送ってくれました。

あんな城も、いいものですね!

赤いRVR@松本 #- | URL | 2013/05/05 17:42 * edit *

Re:赤いRVR@松本様へ

城巡りというよりは完全に登山でしたね(笑)
まぐれでピーカンの天気だったのでツキもあったかしら・・・。

車2台で行ってデポジットするか、バスで移動しないと厳しいというのは事前に知っていたのですが完全に距離感を誤り縦走後は悲惨な行軍となりました(汗)
今となってはいい思い出です。

らんまる #- | URL | 2013/05/05 18:51 * edit *
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