らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0930

狐落城・三水城(坂城町)  

★葛尾城最後の防衛線だった詰め城★

こんにちは。
昨日は佐久方面で2ヶ所の城攻めを敢行してきました。そのお話はまたのお楽しみという事で(笑)

今回も村上シリーズでしたよねぇ・・。
この城の読み仮名は「こらくじょう・さみずじょう」

村上一族の築いた山城はどういうわけか険しい場所にあります。
「何とかは高いところが・・・?」(笑)

koraku01.jpg
十六観月殿は「いざよいかんづきでん」と読みます。風情のある名前は日本人ならでは・・
◆村上連合政権の終焉◆

須田、額岩寺、高梨、和田、清野、春日、井上、矢代・・・村上義清の24将と云われる家臣は、いずれも東信濃~北信濃の豪族であり、武田家との利害関係から一時的に配下となった武将。
なので、家名存続と所領安堵の条件さえ折り合えば「今日の友は明日の敵」

勝ち目があれば協力するが、落ち目となればサッサと見捨てる。
時代に翻弄される小豪族が家名存続の為に「なりふり構わず」変わり身の術を駆使するのはこの時代の常套手段。
あの真田昌幸だって例外ではなかったのは歴史が証明していますよネ。

075.jpg
松尾芭蕉も「更科紀行」に記した十六夜観月殿。村上氏の祖先である源盛清の配流先とも云われる

武田氏について記載された高白斉記に登場する狐落城ですが、縄張りからすると稜線の頂上に築かれた三水城とセットだったと思われます。背後の稜線を断ち切るように幾重にも築かれた堀切は葛尾城と共通するものがあります。

053.jpg
二の郭跡。お願いだから説明看板新しくしましょうヨ、坂城町観光協会の皆さまへ・・


CIMG3633.jpg
対岸の葛尾城の眼下を流れる千曲川よりの遠景

北国街道が整備される以前の上田から長野方面へ向かう道は、千曲川に遮断されていたため、室賀峠が主要道路でした。
この峠の尾根の延長線上にある三水城と狐落城は筑摩方面と佐久方面から侵入する敵への抑えでもあったわけです。

竹把城跡・三水城跡 040
三水城の本郭の土塁と石積み


【信玄の戦略~委託使用人登録制度と所領安堵】

1553年、武田信玄は村上属将の寝返り工作により大須賀氏、室賀氏などの諸将を味方につけて本格的な侵攻作戦を敢行する。
室賀氏の出城だった「竹把城」は三水城と峰続きだったので、武田軍はここを拠点に城攻めを開始したと思われます・
信玄は三水城と狐落城で城の守将だった児島兵庫介兄弟を討ち取り狐落城は落城、北信方面の拠点だった荒砥城(現在の上山田温泉町)も武田方の猛攻に耐えられず猛将の山田国政が討死して陥落。(山田国政は砥石崩れの時の砥石城の城代)

葛尾本城の詰め城だった2拠点を失い意気消沈した村上義清は、葛尾城を焼き捨て、越後の上杉謙信の元へ逃亡します。

竹把城跡・三水城跡 028
三水城の本郭跡より長野市方面。360度パノラマの素晴らしい展望です。

村上連合政権の没落は、砥石城の攻防戦に勝利した配下の武将への恩賞を充分に与えなかった事が原因だと新田次郎は説いています(小説「武田信玄」より)

「信賞必罰」(業績評価ポイント制度の導入?)

私の勤務する会社の創業期以来の経営方針を村上義清に伝えることが出来たら、もっと面白い信濃の争奪戦になっていたのかもしれませんが・・・(爆)

竹把城跡・三水城跡 032

攻城日:狐落城(2008年4月7日)、三水城(2009年6月7日)
見どころ:五重の堀切、石積み、土塁、頂上からの展望
お勧め度:★★★★
所要時間:坂城町の村上大国神社経由なら約1時間ちょっと
装備:トレッキングに準じます








スポンサーサイト

Posted on 2009/09/30 Wed. 22:55 [edit]

CM: 0
TB: 0

« 福島正則終焉の地  |  葛尾城(坂城町) »

コメント
コメントの投稿
Secret

トラックバック
トラックバックURL
→http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/21-9558c9ff
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top