らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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岩邑城③  

◆難攻不落の要塞◆

ポルターガイスト現象はひとまず収束したらしい・・・(笑)

岩村城は美濃遠山氏の祖である景朝の築城であるという。景朝の父の加藤景廉(かとうかげかど)は鎌倉幕府の御家人で、源頼朝の側近として伊豆の挙兵から苦楽を共にし幾多の戦いにおいて功を挙げ、美濃遠山荘の荘園を与えられたと云う。

景朝が岩村に居館を構え遠山氏を名乗り、その勢力は美濃において土岐氏と並ぶ勢いだったらしい。
しかし、その後の遠山氏の経歴は建武四年(1337)の金ヶ崎城の戦いから消えてしまい、宗家は断絶となった。

戦国時代の遠山氏は鎌倉時代の遠山宗家ではなく、土着した勢力を持った別の豪族ではないかと云われている。

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御殿跡の復元図。これから掲載する写真の参考にして頂けるとありがたい。


現在の縄張は、織田軍に接収された後に岩村5万石を与えられた河尻秀隆によって改修され、次の城主である団忠正が本能寺の変で横死すると、川中島より逃げてきた森長可がこの城を接収し、忠政が松代へ移封されるまで近代城郭への改修が続けられたという。

お判りだろうか?

岩村城の落城に関わった者は全て非業の死を遂げている。

織田信長、秀忠、河尻秀隆、団忠正、森長可…。(特に森長可は川中島四郡の松代城主時代も圧政を行い芋川の乱では数千に及ぶ大量虐殺、そして信州から逃げる際に人質を楯として連れて行き役目が終わると全員殺戮した。彼は地獄へ行くべきだったのだ)

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この先を左に折れると一の門。二階建ての櫓門があった。

中世時代の山城の遺構は、本丸の南に一部見る事が出来るが、ほとんどが改変されてしまっている。

織田信長にとって忌まわしいこの城は破却され新しく作り直される運命だったようだ。

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大手門。往時には畳橋と呼ばれた木製の橋が石垣と石垣に渡っていた。有事には切って落とすのだという。


たかだか5万石程度の小藩で、しかもこんな山の上に大量の石垣を築くとは相当な土木工事。
森氏統治時代に家臣の各務元正が18年かけて完成させたという。

動員させられた住民もさぞかし難儀した事でしょうね。

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大手門には三層の望楼があった。城下町からもその威容は見れたという。

渦巻き型の迷路に迷い込んだような錯覚に陥る。

石垣が無くても土塁でも充分な要害城だ(笑)

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大手門から八幡曲輪への通路。左右は武者返しのついたまさしく石垣の壁だ。


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三の丸から二の丸の多聞櫓のあった菱形の石垣を見上げる。今ならグッドデザイン賞が貰えるかも。

この城の圧巻は何と言っても「六段壁」と呼ばれる東曲輪入口の高石垣だろう。

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城の南側の搦め手に位置する東曲輪を強化した意図が分かる。

岩村城の観光ポスターには必ず登場する。お尻防禦の最終兵器が「顔」になってしまったという訳だ(爆)

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東曲輪と本丸の石垣。さすが霧ヶ城というだけあって、ガスってます。

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石垣フェチのらんまるも溜息の本丸入口城門櫓の石垣。

そして本丸へ。

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面白い立て札を見つけた。

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天正三年(1575)11月、織田信長は嫡男信忠に岩村城攻めを命じる。2万の軍勢を率いて攻めるが、武田軍の城将秋山虎繁(信友)は5ヶ月間持ちこたえる。
武田勝頼は、木曽義昌に岩村城支援を命じるが、彼は財政困難を理由に命令に従わない。

後詰めの期待出来ない籠城も限界に達した秋山虎繁は、織田軍の和議条件として提示された「城兵の命の保証・撤退完了まで攻撃しない条件での城明け渡し」の要求を受け入れ開城する。

開城後すぐに信長の命令により和議は破棄され、秋山夫妻は捕えられ長良川湖畔で逆さ磔で処刑される。城兵は帰路途中の者も含めて皆殺しにされた。

まったくひどいものである。

その後の天正十年(1582)2月3日、木曽義昌の謀反に端を発して織田信長による武田征伐が始まる。

武田勝頼が自刃した3月11日、本隊を率いた信長は岩村城でゆるりとしていて、武田滅亡の知らせを受けたらしい。

6月2日に本能寺の変があったのだから、確かに80日前であろう。

それはさておき、せっかくなので中世山城時代の遺構の一部をご紹介しましょう。

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とは言っても4年前の当時は、この説明板見てもチンプンカンプン・・・・(笑)

惜しい事をした・・・・(爆)

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南曲輪と呼ばれた中世山城遺構の一部が本丸の脇の南端にひっそりと残る。


まあ、それはそれとして次回へ続かせますか・・・・・(汗)
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Posted on 2012/02/05 Sun. 19:18 [edit]

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