らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0211

浦野城(上田市)  

◆山の中腹に恐ろしく広い馬場郭を持つ謎の城◆

連続五話の岩村城シリーズ如何でしたでしょうか?

「陰陽師らんまる」になりかねないので、そろそろ方向修正しないといけませんネ(笑)

こう雪が多いと遠征しての城攻めは難しい。なので近所の未踏破の城を落とす事にしましたが・・(苦笑)

で、今回ご紹介するのは浦野城。

浦野城 077

岡城跡から北西約2kmで、飯綱山(932.3m)の南東へ伸びた稜線の中腹に城跡がある。

ある程度名の知られた古城なので、さぞかしWebにも記事があると思いきや意外と少なく、特徴である馬場跡に至っては明瞭な写真が無い。(物見松砦が有名なのかなー?)

浦野城 071

城への登り口は4ヶ所あるというが、浦野墓地の西側200mからが大手らしいので、近所のおじさんに聞いて登る。

「途中で道が分かれるが、とにかく右へ右へ進むと着くよ」 ありがたい助言である。

せっせと10分ほど登ると段郭が左右に展開する。後世の耕作地なのかは判断に迷うところだ。

浦野城 007
馬場手前の段郭。


いやー、驚きましたよ、馬場跡の広さ!! ソフトボール大会くらいは出来そうだ!(笑)

以前は藪だらけだったようですが、最近伐採して整備したようです。感謝感謝。

浦野城 009
南端の大手から見た馬場跡。

浦野城 010
西端から見るとこんな感じ。60×50以上はあるゾ!

戦時には人はモチロン、馬や家畜などが籠れる広さである。

当時は当然周囲の樹木が伐採されていただろうから、麓から見れば高台のグランドといった威容だったであろう。

浦野城 069
馬場の周囲は土留め(?)の石積みで補強されているが、当時のものか判断が難しい。


広大な馬場跡の西側に高さ5mの小高い丘がある。ここが浦野城の主郭と二の郭だ。

浦野城 013
外周を石積みで囲っている。


浦野城 019
二の郭。

二の郭から北側に土塁を隔てて主郭(19×20)がある。

浦野城 016
主郭背後の石積み。この上に扇状の曲輪(?)らしきものがあるが、耕作地なのか判断出来ない。


大抵の場合、主郭の背後を堀切で断ち切るのだが、ここには無かった。


浦野城 025
周囲を数段の腰廓が取り囲む。

この城跡だけ見れば、戦国時代の緊張感などとは無縁で防禦の工夫も無い。

「とりあえず土豪の城館造ってみました!」そんな感じ(笑)


で、馬場の北東の峰の先端に「物見松砦」がある。急な斜面を喘ぎながら登ると堀切に出る。

浦野城 040

この地方の豪族だった浦野氏は王塔物語にその名もみえることから、室町時代の初期頃には既に領有していたと考えられる。
天文二十二年(1553)村上義清方として武田軍と上田原合戦に及ぶが、のちに村上義清が越後へ逃亡すると武田に降る。
以後、弘治年間~永禄年間にわたり武田方として活躍し武田滅亡後は上杉景勝に従い、のち真田氏の属将となる。真田信之の移封に従い松代へ移ったという。

過酷な戦国の生存競争をくぐり抜けた幸運な一族には違い無い。

浦野城 042
物見松砦(34×20)には秋葉社が祀られ、郭の西端には土塁が残る。

もともと砦はあったようで、岡城の築城に伴い物見砦として武田軍が改修したものだと思われる。

浦野城 041
砦の周囲には石積みの跡が確認出来る。

浦野城 049
下降する東尾根の稜線には腰廓を一段置き、その先を堀切で穿つ。

西尾根の登り斜面(砦の背後)は4本の堀切を造作して厳重な防禦を敷いている。

浦野城 058
砦の最終となる4本目の堀切。

浦野城 066
物見松砦から見る青木村方面。

戦国時代まで使われたのは、この物見松砦だけだったのかもしれない。

でもね、そうでもなかったらしい。

宮坂武男先生の縄張り図と調査記録によれば、この城のウィークポイントである北側の稜線には浦野城と物見松砦を囲むように一条の堀切跡があるのだという。

物見松砦から尾根伝いに200m歩くと、そこに確かに立派な堀切があったのだ。

浦野城 062
上巾11m 深さ3m程度だろうか。往時はもっと深かったと思われる。

浦野城 060
西側はその下にある浦野城の背後に回り込むように掘られている。

浦野城 061
分岐から東側は長さ100m以上に渡り砦の背後を断ち切っている。

風雲急を告げる戦国時代、浦野氏が慌てて急造して防禦設備としたのだろうか?

広大な馬場跡といい、北側の堀切といい謎の多い城である。

図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編  (73)
「図解 山城探訪 第三集 上田小県資料編 138浦野城 宮坂武男著」より掲載。

≪浦野城≫ (うらのじょう 出城)

標高:606m 比高130m(本郭)/標高:645m 比高155m (物見松砦) 
築城年代:不明
築城・居住者:浦野氏 武田氏(?)
場所:上田市浦野古城
攻城日:2012年2月5日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分
見どころ:巨大な馬場跡を含む初期の中世山城と戦国時代まで使われた砦跡、堀切、石積みなど
参考文献:「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編 宮坂武男著」

浦野城 003
浦野城全景(浦野地区より)






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Posted on 2012/02/11 Sat. 16:53 [edit]

CM: 6
TB: 0

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コメント

惜しかったわあ

物見松砦まで行ったのですが、そのちょっと下にこんな平坦地があったとは・・
後で縄張図を見てがっかり。
ここまで登って来てねえ。
まあ、それが人生そのもの。

しかし、広い平坦地ですね。
地元民の避難所じゃなかったんでしょうかねえ。

あおれんじゃあ #- | URL | 2012/02/15 20:03 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

師匠!、木を見て森を見ず・・などという攻城戦は小生も日常茶飯事でございます(笑)

先日再訪した狐落城などは、その昔ハイキング気分で攻めてしまい総石垣の城だった事も背後に四重の堀切があった事も見落としていて恥ずかしい限りの記事をアップして後悔しております・・・(汗)

最近はそれでも学習能力が身についてきたので(今さら遅い!?)、隅々までしっかり観ておりますが、それでも見落とすおバカぶりは止められそうにありません・・・・(爆)

らんまる #- | URL | 2012/02/15 20:47 * edit *

いつも楽しく拝見させていただいています。

ふと思ったのです、浦野城の広場は北信濃の制圧時の
武田軍の駐屯地だったのではないでしょうか。
以外と、岡城は狭いので大軍の駐屯地には
向いていない感じがするのですが
どう思われますか?

丸馬出し #- | URL | 2012/02/22 19:02 * edit *

Re:丸馬出し殿

毎回コメント頂きありがとうございます。
ブログに障害が発生しており、コメントすら書き込めず怨霊の仕業かと思われます(笑)

岡城の築城が天文年間末頃ですから、北信濃攻略における兵の駐屯地として塩田城や浦野城もが活用されたのは想像に難くないところで同感ですね。
深志から筑北~大岡~猿ヶ馬場峠を越える軍勢と佐久街道や大門街道を進み室賀峠を越える軍勢が川中島を目指したのでしょう。
物資の補給も現地調達だとしたら、浦里や室賀、塩田地区の住民はさぞかし難儀な事だったと思います・・・(汗)

らんまる #- | URL | 2012/02/23 14:12 * edit *

広い馬場郭

初めまして、いつも楽しみに拝見させて頂いております。

浦野城の裏手に物見松砦があったとは知りませんでした。
また、これほど広い馬場郭だとは思っておりませんでした。

浦野氏は武田氏に降る前は小笠原・村上氏についており(浦野の娘が小笠原長時の母、かつ村上義清の正妻の母(らしい))、武田に降る前も後も幾度もの戦いで相当な戦災にあっていた地域と思います。

また、浦野城は浦野邸宅の裏手にあるので、他地域から来た多数の一般兵の駐屯地にするというのは不用心ではないかと思います。
それを考えると、やはり広い馬場郭は住民の避難地として使われたのではないかと思ってしまいます。

加えて弱点の城の裏手ですが、室賀氏が浦野氏の分家とのことですので、浦野と室賀で共同して防衛していたのではないかと勝手に推測しております。

完全に素人の考えですが、どうでしょうか?

鮭とば #TkSw/e0A | URL | 2012/03/19 07:42 * edit *

Re: 鮭とばさんへ

お初でございます。また、毎度のご愛読かたじけのうござりまする。

ご意見尤もでございます。
小生などはシロウトに毛の生えた程度の駆け出し者なので、古文書や文献といったソフト面の調査よりは体力勝負のハード面からの推察に偏るのでもっと勉強せねばなりません(笑)

信濃の侵略戦については在住の土豪の寝返りについてはかなり警戒心を持っていたのは事実だったようで、降伏しても諏訪頼重や大井貞隆、望月一族、仁科一族などは生害させられました。上田原合戦、砥石撤退戦で敗れた武田晴信にしてみれば、それまで村上方であった小泉氏、室賀氏、浦野氏の従属の申し出を受けるというのは、それ相応の覚悟と犠牲を要求したのだと思われます。
佐久の制圧戦では「叛くものは皆殺しにして足弱(女・子供・老人)は甲斐に送り人身売買する」を徹底した晴信です。いつか「お礼参り」に殺到するであろう武田軍に、小県の豪族諸氏が震えあがったのは想像に難くないと思われます。
天文二十二年(1553)、小泉・室賀・浦野を始めとした小県の諸氏は晴信に所領を安堵され、塩田城の城代の飯部虎昌は本城に移ったとされます。この時の城が新しく普請した岡城だったのかは不明ですが、隣接する浦野城が所領安堵のお礼として貸与または提供されたとしても不思議では無いと勝手に推測しております。

話は堅くなってしまいましたが(汗)、妄想を楽しみましょう(笑)
今後とも屈託の無いご意見をお願い致します。

コメントありがとうございますw

らんまる #- | URL | 2012/03/19 20:55 * edit *
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