らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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海津城(長野市)  

★明治維新まで240年続いた真田家の城★

こんばんは。
最近ある雑誌で伊達藩のお家騒動を描いた「樅の木は残った」(山本周五郎著)の特集記事を読みました。で、肝心の物語は忘れましたが、その鮮烈な題名は優れたキャッチコピーとして記憶に残り懐かしさを覚えました。

で、今回も引き続き真田氏関連といきましょうか・・・
松代城址 004
↑信州の浮城(水城)と呼ばれた海津城

続き読んでネ
◆海津城(松代城)の歴史◆

正確な築城年月は不明だが、1560年に武田信玄が上杉謙信の信濃侵攻を阻止するために、山本勘助に命じて作らせたといわれる。
もともとは村上氏の被官でこの地方を治めていた清野氏(きよの)の館を改築したものらしい。

松代城址 011
再建された本丸の北不明門。石垣の上に載せずに建てられた中世様式の珍しい搦手の門

その後信玄は高坂昌信を城代として守らせ、謙信との川中島合戦における舞台となる。

武田が滅亡すると織田方の森長可(もりながよし)が入城するが、本能寺の変が起きると美濃へ引き上げ、北信濃に攻め込んだ上杉景勝が春日昌元(高坂弾正の嫡子)を城代として置き、北条への備えとした。

天正壬午の乱で当初北条方についた真田昌幸は、旧武田である海津城代の春日昌元と内通し北条侵攻の際の寝返りを確約させるが、上杉景勝に発覚してしまい春日昌元は謀殺される。

松代城址 006
二の丸から天守台の石垣を望む

上杉領として城代の置かれた海津城も、1598年の上杉の会津転封に伴い豊臣氏の直轄地となり、豊臣秀吉が亡くなると1600年には徳川方に近づいた森忠政が13万7000石の城主となる。
※この時より海津城から待城(まつしろ)へ呼び名を変更した

関ヶ原の戦いで、森忠政は徳川家康に西軍となった真田昌幸の牽制を命じ、真田と隣接する地蔵峠に出兵。

松代城址 047
復元された桝形門と太鼓門

1603年、森忠政が美作へ加増転封されると家康の六男である松平忠輝が入封。
この時代に待城⇒松城へ改名

※この方は父である家康に嫌われ続けたものの、伊達政宗の長女「五郎八姫(いろはひめ)」を正室として越後高田藩72万石の太守となり家康の名代として大阪で豊臣秀頼にも面会している。キリシタンの信者とも云われ、義父の伊達政宗の影響も有り海外交易を目指すも大坂夏の陣での不手際を叱責され改易。流罪先の信州諏訪藩で92才の生涯を終える。

松代城址 019
↑東不明橋より真田幸隆が攻略し城代となっていた尼巌城(あまかざりじょう)を望む

その後、松平忠昌、酒井忠勝と代わり、1622年に上田藩9万5000石から13万石(沼田領含む)に加増された真田信之が転封となり明治維新まで真田家の城として存続する。

松代城址 036
野面積みの見事な天守台の石垣

真田信之は、豊臣政権下の沼田城時代には五層の天守閣を建てたが、大坂夏の陣で移封された松代城では家康に遠慮してか二層の隅櫓を建てた程度だったようです。

父の昌幸や弟の幸村の活躍に比較すると地味な信之ですが、徳川家康の信任を受け真田の家名存続に遁走し、領民の幸せを願い治世に注力する姿は戦後を見据えた名君だと思います。

松代城址 056
城跡の堀に蓮の花が多いのは、何か理由でもあるのでしょうか??

攻城日:2008年7月19日
みどころ:土塁、石垣、堀、復元された門、橋  ※近くの真田宝物館や屋敷、妻女山もお勧め
時間:ざっくり見て30分くらいでしょうか
駐車場:観光地なので大丈夫
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Posted on 2009/11/15 Sun. 20:05 [edit]

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