らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0408

大熊城(諏訪市)  

◆中央ハイウェイにお尻を破壊された千野氏の居城◆

四月に入って一週間経つというのに大門峠は雪が降っている。

とはいえ、お天道様頼みでもタイムリミットが迫っているので茅野と諏訪周辺五ヶ所の城攻めを敢行するが、出発の準備に手間取り三ヶ所を攻め落としたところでタイムアウト…(笑)

帰りの大門峠頂上(白樺湖付近、標高1300m)では吹雪で気温は-3℃(汗)

ってか、四月の気温じゃないでしょ!!(怒)

で、今回紹介するのは大熊城(諏訪市)

大熊城 (2)
狭い道を右往左往してようやく発見した大熊城。

残念なことに、この城は中央自動車道の工事に伴い尾根筋に当たる二つの曲輪と二つ堀切を削られてしまった。
工事直前の昭和四十八年に緊急遺跡発掘調査が行われ、その報告書も残るらしいのでいつか見てみたいと思う。

大熊城 (3)
本郭入り口には桝形が残っている。(焚火跡とも云う・・笑)


この城の名前が登場するのは「神長守矢満定書留」の文明十二年(1480)の条である。

この年の三月十九日、下社大祝の金刺興春が諏訪上社大祝頼継(諏訪頼継)に加担して挙兵し高島に兵を置き、諏訪総領家を攻撃する。これに対し主を失った諏訪総領家ではあったが、家臣団の有賀兄弟、小坂兄弟、千野兄弟(大熊城主)が下社勢に逆襲し金刺輿春を討ち取り勝利する。(湯の脇合戦)
この時、討死した金刺興春の首は二夜にわたりこの大熊城に晒されたと記述がある。

大熊城 (5)
主郭。耕作地で改変されているが往時は周囲を土塁が巡っていたと思われる。


その後、大熊城が再び登場するのは天文十一年(1542)の武田軍による諏訪侵攻で諏訪頼重が滅亡した時である。

大熊城 (6)
本郭の南西は高さ4mの高土塁が巡る。櫓の代わりに築かれた物見台と想定される。

大熊城 (9)
高土塁の最高地点から見る本郭跡。

大熊城 (10)
高土塁に祀られる石祠。千野丹波守房清公の為に子孫の方が設置したらしい。


「(天文十一年七月)次日三日には、桑原のたかはし口へ早朝にさしかけ候 此方の人数出合おしかへし候間 上原に備え候 その日はたかい(互い)にそなへ まて(待て)にて候 大熊口へ高遠人数同甲州数一手相くわわりはたらき候 千野入道兄弟 我等はとしよりに候間 在所の用心とてのこられ候かいて あしかる(足軽)廿計にて出合からさわ(唐沢)より をしかえし(押し返し)湯のうへにて 四五騎うちととめ候 入道のおとと(弟)南明庵 うち死…」

この古文書の意味がおわかりでしょうか(笑)

この戦いで大熊城は武田方の攻撃により落城したと思われる。

大熊城縄張図②
現存する城域の縄張図(宮坂武男氏の縄張図を参考に作図)

諏訪頼重が甲府に送られ自害させられ諏訪惣領家が滅亡すると、諏訪郡は宮川を境として武田晴信と高遠頼継が分割統治することに決まったが、これを不満に思った頼継はその二ヶ月後の九月十日に上原と下社を攻撃し諏訪上下社の占領を企てた。

大熊城 (13)
本郭の高土塁の上から四の郭方面を見下ろす。高速道路上に五の郭、六の郭と続いていたという。

この報告を甲府で受けた晴信は、頼重の遺児虎王を拗して十九日に出馬し堺川に着陣。「諏訪頼重の遺言である」として、惣領家の叔父である諏訪満隣を始め家臣だった矢島・矢崎・神長守矢などを味方につけ、その中に熊野城主だった千野入道も入った。

大熊城 (15)
現在は上巾10m深さ3mだが、発掘調査では深さ7mの箱堀構造だったという異様異質な大堀切。


二十五日の午後二時頃より宮川橋付近で合戦が始まり、高遠勢は安国寺前から片倉(伊那市)まで押し込まれ武田軍の勝利となる。午後六時頃には戦も終わったという。(宮川端の合戦)

以後千野氏は武田方の諏訪衆として働き、武田滅亡後は諏訪家再興の中心となり諏訪満隣をたてて諏訪家を復活させる活躍をみせた。

大熊城 (8)
北西に向けて二の郭、三の郭と繋がる。


大熊城がいつ頃廃城になったのかは不明だ。

さしたる要害性もなく、付近には巨大な干沢城もあり武田統治時代には役目を終えていたと考えるのが自然であろう。

異様な箱堀についても、武田の横堀への改修と見るべきかは疑問が残るし、後ろに続く山の峰の処理を見る限り手は入っていないと思える。

大熊城 (16)
北側へ落ち込む箱掘。400年の歳月は堀切を半分以上も埋めてしまうのだ。

大熊城 (22)
東側の段郭横からも一本巨大な堀切が通り、沢で箱堀と合流している。

大熊城 (25)
土塁の背後は「中央高速道」という名の堀切になっている…(笑)


大熊城の西側には真志野城、有賀城と繋がり、東の諏訪大社周辺には干沢城、武居城がある。

上社大祝家の山城ネットワークの中核だった大熊城も、武田時代には無用となったのであろう。

だからといって、高速道路のために大事なお尻をカットしてしまうのも、如何なものか・・・・(笑)


大熊城 (35)
諏訪上社方面。中央は八ヶ岳。

大熊城 (33)
諏訪惣領家の城を臨む。

≪大熊城≫ (おおくまじょう 千野城)

標高:812m 比高50m 
築城年代:不明
築城・居住者:千野氏
場所:諏訪市湖南大熊
攻城日:2012年4月7日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:5分(道が狭いので注意。城域の西側の神社に駐車スペースあり)
見どころ:大堀切、土塁など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」「信州の古城ー城跡と古戦場を歩くー」

大熊城 (38)
大熊城全景(写真中央の低い丘の部分)

















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Posted on 2012/04/08 Sun. 10:34 [edit]

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