fc2ブログ

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0415

竹把城(上田市 リバイス)  

◆長大な竪堀を組み合わせた室賀氏の要塞◆

初期の攻城戦記はお粗末すぎてまともな記事も写真もない。何よりも知識が乏しかった…(笑)

全てをリバイスしていくのも大変な作業になるので、時々アップします。平にご容赦願いたい(汗)

さて、今回のリバイスは竪掘の組み合わせに類を見ない竹把城(たけたばじょう 別名:伊勢崎城)

竹把城② 023
18×8の本郭。木々の葉っぱに邪魔されずに、この時期は素晴らしい眺めだ。

竹把城② 031
本郭の東側は土塁の盛られた跡が残る。

竹把城② 028
室賀の郷の城郭、遠くは子檀嶺岳(こまゆみだけ)が良く見える。

竹把城② 026
塩田城からもここの狼煙は見えたであろう。

竹把城② 030
坂城の村上義清にとって、室賀氏の所有するこの砦は小県郡を保持するための生命線だったのだ。


さて、パノラマビューをご堪能頂けたでしょうか?

晩秋から初春の季節しか見れない貴重な風景でございます(笑)

目立たない山ですが、北の尾根と東側の斜面以外は急峻なので、頂上以外に曲輪を設置するのは難しかったらしく、南に小さな郭を二つ、東に一つしかない。

竹把城縄張図②
縄張図。郭よりもモグラの通り道のような堀の組合せが素晴らしい。(宮坂武男氏の縄張図参照にて作図)


竹把城② 036
②の郭(8×5)

竹把城② 038
③の郭(6×3)この先は岩場となり急坂を経て麓へ続く。


ここまでなら何処にでもありそうな砦(狼煙台)なのだが、堀切と東斜面に展開する竪掘が凄いのだ。

竹把城② 016
主郭背後の堀切㋐。上巾9m高さ9m。

この堀切は東斜面に向けて竪掘となる。

竹把城② 044
盛土して迫り上げているのが見て取れる。


竹把城② 046
㋐の堀切は④の郭で直角に曲げられて㋔の横堀となり沢へ落ちる。


竹把城② 049
④の郭から本郭方面を見上げる。落差のある深い竪掘だ。

竹把城② 051
直角に曲げられた㋐の堀切だが、段差を作り新たな竪掘㋕として直線方向の東の沢へ落ち込む。

竹把城② 053
堀切㋖は尾根伝いに下がっていく。

竹把城② 057
最大の幅を誇る主郭から二番目の堀切。やはり東へ続いて竪掘となり他の堀切と接続する。


この砦の唯一のウィークポイントは東側の斜面であり、そこをカバーするために堀切・竪掘・横堀を組合せて塹壕のような防御に仕上げている。

素晴らしい。

室賀氏独自の技術であろうか。笹洞城に見られる高度な石積み技術があるので、案外そうかもしれない。

竹把城② 060

竹把城② 066
北尾根の城域入り口の堀切㋓。かなり埋まっているが東へ伸びて堀切㋒と合流する。


リバイスしてみて分かったのだが、まさしく室賀氏の要塞である。

室賀郷の人々が交替で詰めて、自分たちの土地に侵入して来るよそ者を監視したと思われる。


やはりこの砦も、室賀峠を越えて上田原合戦に向かった村上義清の軍勢や、室賀氏が武田氏に降りたのちは川中島四郡へ出征していく武田軍を見守ったのであろう。

春風に吹かれながら、五百年の遠き時代に思いを馳せてみるには、良き城跡である。

竹把城② 074
笹洞城の登り口(ささらの湯)から見る竹把城遠景。



≪竹把城≫ (たけたばじょう 伊勢崎城 三頭城) ※2019年12月 地図を差替えし補記

標高:880.8m 比高:315m
築城年代:不明
築城・居住者:室賀氏
場所:上田市上室賀三ツ頭摺鉢山(みつがしらすりばちやま)
攻城日:2012年4月15日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:室賀峠より尾根の道を伝って約30分歩くと城跡。
見どころ:主郭周囲の石積み、大堀切、竪掘、横堀
その他:室賀峠からのトレッキングコースが整備されていて分かりやすい。
※ここから縦走して三水城⇒狐落城⇒村上神社へ下りるルートも以前は推奨していたが、時間がかかり過ぎるので狐落城と三水城は麓から登るのが早い。(2019.12月加筆)
参考文献:「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編 宮坂武男著」(縄張図)


Ⓢは要入口。以前は脚立があったが現在は無い。Ⓖは室賀峠万葉歌碑公園でこの辺に駐車スペース。尾根伝いに道がついているので迷う事は無いが、途中全く景色が見えないので孤独が苦手な方はグループでの行動をお勧めする。(2019年12月補記)
スポンサーサイト



Posted on 2012/04/15 Sun. 17:47 [edit]

CM: 20
TB: 0

« 戦艦 扶桑②  |  朝倉山城(茅野市) »

コメント

ほとんど堀じゃない

城域の大半が堀じゃないすか。
そんな城、珍しいですね。
尾根を堀でメタメタに切り刻んだような・・
多分、当時は鋭く深い薬研堀だったのでしょうねえ。
よほど心配性の領主だったのかもしれないです。
でも、謀略の前には用をなさず。
むなしいもんですねえ。

あおれんじゃあ #- | URL | 2012/04/15 20:15 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

仰せの通りでございます・・・。

堀切フェチでもこれほどの複合的な堀の連鎖は経験がありませなんだ…(笑)
203高地でもこのような塹壕は刻まなかったと思われます。
まさにこの砦は室賀氏の生命線だった訳で、郭が設置出来ない部分を堀切でカバーしたのだと思います。

しかし恫喝と恐喝という武田晴信の謀略と調略には、幾何学的に張り巡らされた堀切も無意味だったのでしょうね(爆)

らんまる #- | URL | 2012/04/15 21:05 * edit *

印象が変わりました

今までは村上氏の室賀峠
(当時は東信から北信へのメイン街道のようです)
の最終拠点だとばっかり思っていたのですが
縄張り図を見ると
戦闘正面は坂城側なのかなあと。
そう仮定しますと、
武田氏によって改修を受けた可能性がでてきまして
竪堀と横堀の組み合わせ、Y字に合流する竪堀
城のなかで堀の占める面積が多いなど、甲州流の
様子が感じられるなあと妄想してしまいましたw

仮定が正しかったとすると、室賀峠の周辺には未発見の
クランクや枡形をもった古道の遺構が埋もれているかもしれませんねw

丸馬出 #- | URL | 2012/04/16 20:04 * edit *

Re:丸馬出様

いつもコメントありがとうございます。

長野県町村誌や小懸郡誌によると室賀氏というよりは武田方の狼煙台という記述があるので、斜面に掘られた塹壕の数々は武田軍の監修による防御施設という考え方も出来るのでしょうネ。
村上方からの逆襲を想定すると室賀峠は武田軍の軍用路の最終防衛ラインであり、弱点だった西斜面の造作は当然かもしれません。
同時期に武田方に降った屋代氏との防御ラインがどうだったのか・・・興味は尽きませんね。

らんまる #- | URL | 2012/04/16 20:55 * edit *

こんにちは。ご無沙汰しております。
竹把城に行かれましたか。
これも300m超級の山城ですね。

先日、久しぶりに長野の山城に行きました。
やっぱり長野の山城のキツさは特級ですね。
遺構も素晴らしいですが。

atenza23z #- | URL | 2012/04/23 02:34 * edit *

Re:atenza23z様へ

こちらこそ毎回読み逃げして申し訳ありません(汗)
中国地方の城巡り、羨ましい限りでございます。

信州もこれからはイッキに新緑の季節となるので、生い茂る葉っぱと藪と棘や虫どもとの戦いになります。
それも嫌だなー(笑)
あ、そうそう一つお願いがございまして、貴殿のブログへコメントしてもスパム防止用の文字入力で弾かれます。最近老眼でよく見えないのでこっそり教えてくだされ・・・(爆)

らんまる #- | URL | 2012/04/23 07:27 * edit *

設定変えてみました

こんばんは。
栃木ではすでに虫やクモがウヨウヨしています。
山城にはキツイ季節に入ってきますね。
おまけに汗だらけになりますし・・・。

お話のありましたスパム防止用の文字入力の件ですが、
確かにわかりづらいですね。
入力したことなかったので、気付きませんでしたが。
ちょっと設定変えて、文字入力不要にしてみましたので、
よろしくお願いします。
あまりスパムが入るようでしたら、また復活させるかも知れませんが、
その時は、コードお知らせしますね♪

atenza23z #- | URL | 2012/04/25 02:35 * edit *

Re:atenza23z様へ

早速のご対応ありがとうございました。
イッキに緑が燃え上がるシーズンとなってしまい、信州の山城攻城戦はゴールデンウィークがラストチャンスになりそうです(汗)
夏はただの登山になってしまい遺構もロクに拝めませんネ(笑)

らんまる #- | URL | 2012/04/25 07:12 * edit *

設定変えてみました【補足】

信州でもそんなに緑が爆発していますか。
今年の寒冷な気候なら、5月中頃までは十分行けると踏んでいたのですが・・・。

ところで先日お知らせした通り、
スパム防止用の文字入力が不要なように設定を変えたのですが、
どうも過去記事に関しては、一々設定し直さないと設定変更されないようです。
すみませんが、ご了承くださいm(_ _)m

atenza23z #- | URL | 2012/04/27 01:33 * edit *

Re:atenza23z様へ

補足ありがとうございました。
過去記事へのコメントで「ギョギョ」」としましたが・・・(笑)

北信濃なら五月中はOKだと思いますが、中南信地方は緑軍の進軍速度は早そうですね。
もっとも比高差があれば別ですが・・・。
楽して攻める手立てはないものかと・・・・(爆)

らんまる #- | URL | 2012/04/27 07:25 * edit *

「たけばな」⇒「たけたば」

「たけばな」⇒「たけたば」と変化した可能性はありそうです。
村上政清に宗家が移され葛尾城と塩田城と戸石城の連絡用の城が必要だったでしょう。
この位置は竹鼻虎政の城「武場名城」の条件に最適です。
(武場名城は満泉寺に保管されている山城を描いた屏風で確認できます。)

とらまさ #c/wTfpeY | URL | 2013/07/16 22:38 * edit *

Re:とらまさ様へ

コメントありがとうございました。

村上一族の宗家が途中で入れ替わっている事をご存じだとは、かなり詳しく調べられているんですね。
それに、満泉寺に保管されている屏風に山城が描かれているというのは小生も初耳でございます。
そんな屏風があるとは知りませんでした。坂木宿のふるさと歴史館にもそんな事は書いてなかったなあー。

「たけたばしょう」は室賀氏の詰め城だと思っておりましたが、貴殿が云う所の竹鼻氏の武場名城だとすれば新たな城歴ということになります。上田と坂城の教育委員会に調査してもらうのも方法の一つかもしれませんね。
その後進展がありましたら是非お知らせください。

らんまる #- | URL | 2013/07/17 17:37 * edit *

らんまる様

提案ありがとうございます。早速、上田市の教育委員会に依頼して見ます。

竹鼻家初代の虎政が活躍したのは村上政清に宗家が移された1468年~1492年の間です。
2代目の清虎は葛尾城の城代になっているので、武場名城は他の武将に譲った可能性が有ります。

とらまさ #c/wTfpeY | URL | 2013/07/17 22:01 * edit *

Re:とらまさ様へ

それが良いと思います。
村上一族の謎が少しでも解明される事を願っております。

らんまる #- | URL | 2013/07/18 06:05 * edit *

「たけばな」⇒「たけたば」と変化した可能性について上田市の教育委員会に確認した結果。
明治時代に長野県に提出された記録には、「【伊勢崎城山】竹把城山とも云ふ」と記されているということで古くから竹把城と呼ばれていたようです。
また、武田氏の葛尾城攻略以前100年間の史料はまったく無いので調査は難しいようです。
残念です。武田氏は徹底的に処分したようですね。

とらまさ #c/wTfpeY | URL | 2013/07/22 21:31 * edit *

Re:とらまさ様へ

ご丁寧に結果のご報告を頂きありがとうございます。
そうでしたか、やはり「長野縣町村誌」の編纂の枠を出ないのですね。残念です。
村上義清の直筆の文書も3通程度しか残っていないらしいですね。
武田さん、やはり敗者の記録は消しましたか。戦国の倣いは過酷ということですね。

色々とありがとうございました。

らんまる #- | URL | 2013/07/22 22:33 * edit *

岳鼻砦かも

色々 城が描かれた資料を探してみると、「善光寺道名所図会」の4巻に村上家の城が描かれていました。この竹把城は岳鼻砦と書かれています。そして、小泉城は岳鼻城になっていました。
嘉永2年に書かれたものなので信頼できるものかわかりませんが!
参考にしてください。

とらまさ #- | URL | 2016/04/15 23:04 * edit *

Re: とらまさ様へ

コメントありがとうございます。
貴重な情報ありがとうございます。機会があれば確認して参考にしたいと思います。

らんまる #- | URL | 2016/04/17 10:16 * edit *

善光寺道名所圖會. 卷之1-5は下記のアドレスのHPで閲覧できます。
古典籍総合データベース(早稲田大学図書館)
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_03657/
岳鼻城や岳鼻砦は小泉氏の城という説もありますが、歴史は何が正しいか本当にわかりませんね。聖徳太子の存在が消えたように!

とらまさ #- | URL | 2016/04/23 10:50 * edit *

Re: とらまさ様へ

情報ありがとうございました。

「岳鼻」というのは恐らく「たてのはな」と読むのでしょう。豪族城館に関する地名は「たて」(館)とか「たてのはし」とか「たてのはな」、「ほりのうち」(堀ノ内)と呼ばれていました。現在「●●城」なんて呼ばれている城も正式な名称ではなく「ようがい」とか「こや」ぐらいの呼び名で、名前などついていなかった城がほとんどだと思われます。

事実を遡ってひも解いてゆくのが歴史の楽しさでしょうか。関ヶ原の戦いも実は無かったし、第二次上田合戦における徳川本隊はは上田城攻めが目的だったとか・・・。研究が進めばどんどん書き換えられると思いますよ。

らんまる #- | URL | 2016/04/23 14:08 * edit *
コメントの投稿
Secret

トラックバック
トラックバックURL
→https://ranmaru99.blog.fc2.com/tb.php/276-89a7ce19
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

もののふ入場者数

もののふ在城者数

諸国在住の皆さまのありがたき進言

攻城戦記年表

更新通知登録ボタン

▲Page top