らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0425

干沢城(茅野市)  

◆諏訪地方の騒乱に巻き込まれた上社大祝家の壮大な山城◆

諏訪地方の諸城を掲載するとページビューが落ちる(笑)

シャキッとした山城を期待する方々の妄想の為せる技であろうか・・・(汗)

まあ、確かにボテッとした中世の山城ばかりで緊張感が無いと云われればそうかもしれないのだが・・(爆)

で、今回ご紹介するのは諏訪地方でも規模がピカイチの干沢城である。

干沢城 (2)
例によって登山道無き北尾根の阿弥陀堂から強引に直登する。あれま、右側に後光が差してる??・・(汗)


干沢城 (7)
数段の段郭を乗り越えていく。夏場の攻城戦は厳しいと思われる。


干沢城は、茅野市宮川安国寺に位置し、付近には諏訪大社上社前宮があり、周囲には大町という町が広がっていたという。
この大町にある遺跡が、干沢城下町・荒玉周辺遺跡である。干沢城は、高遠へ至る杖突峠が付近にあり、高遠への要衝に位置し、また、甲府方面を望む事が出来るいちにある。そして諏訪上社大祝が居住する前宮神殿の付近にあり、上社大祝家の山城であったと考えられる。

干沢城縄張図②
宮坂武男氏の図解山城探訪の縄張図を参照し作成しています。


干沢城 (9)
靴底に刺さりそうな切株を超えると④の郭に辿り着く。


「守矢満実書留」によれば、応仁元年(1467)に干沢介二郎が在りし城とあるが、築城年代は不明である。

干沢城 (10)
険しい攻城戦を覚悟していたが、あっさりと三の郭に到着。

その後の干沢城の記述は同じ「守矢満実書留」にあり、文明十五年(1483)一月八日に、諏訪上社大祝家諏訪継満が、惣領諏訪政満や嫡子である宮若丸・舎弟小次郎を、上社前宮神殿で謀殺するという事件が起きたが、一月十五日、大祝諏訪継満は惣領方に攻められて干沢城に上っている。二月五日には干沢中城で御左口神付を行っているが、二月十九日、惣領方に攻められて干沢城は落城している。

干沢城 (12)
巾が広いだけで緊張感の無い㋐の堀。西の沢に竪掘として落ちるのだが、中途半端な処理のままだ。

翌文明十六年五月六日、大祝諏訪頼継が片山古城(諏訪市中洲神宮寺)を取り立てた時、今度は惣領方が干沢城に馳せ籠っている。

干沢城は、南北550mの、諏訪地方では規模の大きな山城で、本郭から四の郭までが空堀によって区画されている。また無数の帯郭があった事が想定されている。

干沢城 (17)
例の如く鉄塔の突き刺さる最も広大な二の郭。二段の段差がつけられている。

二の郭は最近発掘調査が行われ、発掘された遺物は15世紀後半までのものでほぼ終わり、16世紀の遺物は一点に過ぎないという。
諏訪頼継による惣領家乗っ取りが失敗し高遠へ落ちると、惣領家は上原城周辺に施設を集約化したために干沢城は廃城になったとも考えられる。

干沢城 (22)
上巾11mの堀切㋑。やはりシャキッとしない(笑)


ただ、杖突峠を抑える拠点としての重要性はあったので、高遠を制圧するまでは武田軍による改修と利用もあったのではないかと思う。

干沢城 (24)
堀切㋑と本郭の間には投石を行う守備兵の為の出丸(?)がある。

干沢城 (26)
堆く積まれた戦闘用の石礫(いしつぶて)。原始的だと思われるが、戦国時代には当たり前且つ強力な戦闘方法。


少数での籠城には向かないが、ある程度の兵力があればそこそこ持ちこたえられるであろう。
唯一のウィークポイントである城の南側も、長林砦に伏兵を置けば挟撃が可能だ。


干沢城 (34)
主郭。41×20の長方形。

干沢城 (41)
主郭の南東の尾根に張り出す形の腰郭。

干沢城 (43)
帯廓から見上げる主郭。


この城の要害たる所以は、コバンザメのような長林砦の存在であろう。
現在配水池となっているタンクの南側に位置する。


干沢城 (51)
二段の段郭を超えるといったんピークの郭がある。


この尾根は堀切㋔で背後を絶ち長林砦に向かっている。

干沢城 (53)
上巾20mの堀切㋔。

干沢城 (61)
長林砦の主郭。二段の郭で構成されている。

干沢城 (59)
背後の堀切㋖。往時はかなりの深さがあったのであろう。


現在、杖突峠に向かうのは城の東側を通る国道152号線だが、古道は城の西側山麓を通っていたという。

15世紀頃までに干沢城の東側には安国寺・東大町・西大町・小町屋などの集落が形成されていたが文明12年(1480)に悪党と呼ばれる集団の狼藉や放火、そして大雨による増水で集落は壊滅的な打撃を受け、その後諏訪の騒乱に巻き込まれ消失したという。

いわゆる「都市伝説」である(汗)

干沢城 (68)
攻城兵が集中する堀切㋐の西側斜面には横堀㋒を設置し狭間とすることでクロスの攻撃をしたのであろう。


諏訪一族が築いた城としては秀作である。
だが、武田軍にしてみれば「使えない城」であった。

高遠城を制圧してしてしまえば、あとは上原城付近に集約することで合理化を進めた訳である。


干沢城 (66)
竪堀と段郭、横堀を組み合わせた城域の西側。


≪干沢城≫ (ひざわじょう 樋沢城・安国寺城・霞城)

標高:849m 比高78m 
築城年代:不明
築城・居住者:干沢氏、上社大祝氏、武田氏
場所:茅野市安川安国寺
攻城日:2012年4月7日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間15分
見どころ:堀切、土塁、郭、長林砦など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」(縄張図)「信州の古城~城と古戦場を歩く~」

干沢城 (74)
諏訪上社前宮から見た干沢城。








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Posted on 2012/04/25 Wed. 22:38 [edit]

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