らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0501

高城(麻績村)  

◆戦国末期まで改修されて筑摩郡で最も重要視された城◆

平地の城館記事など書いている場合では無く、秘境の城攻めにこそこのブログの価値があるのでは・・・・

お叱りの声は多い(汗) ごもっともなご意見ではある(笑)

然らば、前回撤収した麻績村の高城を攻めて名誉挽回と思いつく。

しかし比高220mは思いのほかキツかったのである(爆)

高城 011
高城入口。1/7訪問時には積雪が酷く諦めて撤収した。今回も雷鳴轟く小雨の中の進軍となった(汗)


高村番所の記事をご覧になった方はご承知であろうが、この場所は大岡口と麻績の境に位置し、中信濃から川中島四郡に通じる通路としては戦略的にも重要な拠点であった。


高城入り口の標柱を登り墓地の西側を迂回するのだが、その先で道が不明になる。林道に出て東へ向かうが道が消滅する。

林道を戻ると崩れかけた路肩の先に登山道を発見し何とかへばり着いた(汗)

高城 048
墓地を抜けて作業道に着いたら左へ進み、崖の上に道があるのが分かると思う。


訪れる人も絶えた城跡への道は、「ひれづき」と呼ばれる平地と湧水の場所で完全に消滅する。


高城 046
湧水が流れ出ている。この城の水の手だったと思われる。


宮坂先生も、残念ながら故人となってしまわれた「blogやまのてっぺん」の管理人さんのおっしゃる通り、あとはテキトーに登るしかないのだ。

しかも斜面には棘科の植物が群生し、タラの木の恐ろしい牙が容赦なく服を切り刻む。

仕方が無いので東斜面に迂回し頂上を目指す。

途中、イノシシ捕獲用の罠に挟まれて死亡したカモシカの白骨死体に遭遇するのだが、通り過ぎてから気が付き「ギョッとした」のである(笑)

高城 012
攻城開始から40分かけて到達する。本郭に佇む標柱。


高城概略図
宮坂武男氏の縄張図を参考に概略図を作成。麻績城に良く似ている事に気がつく。


図に示された数字が理解出来る方は、戦国時代検定(そんなものあるんかい?)一級である。

小生も最初は宮坂先生が数字に固執した意味が理解出来なかった。

「火縄銃の有効射程距離」・・・・このことである。

54mは銃撃である程度殺傷出来る射程で、27mは鎧を完全に貫通する「即死」の射程だという。

高城 038 (2)
背後に窪みを付けて等高線状に展開している。一撃必殺の防御ラインだ。


高城 042
中間地点のBも左右に展開が可能である。ここから地点Aに向けて攻城兵に一斉射撃を加える。


高城 044
地点BからAまでの斜面。ここで敵を半減する事が意図されているようだ。

この改修は恐らく天正年間で、武田氏の滅亡後に上杉と小笠原氏の間で壮絶な陣取り合戦が行われた時のものであろう。
大岡口に位置するこの城がいかに重要視されていたのかを垣間見る事が出来る証拠だという。


高城 027
17×20の本郭。周囲は土塁に囲まれていた跡が確認出来る。


高城 032
主郭手前の堀切。向こう側に生坂村の京ヶ倉と大城が見える。標高1149mの高城は990mの京ヶ倉を見下ろせる。


高城 022
主郭背後の堀切。二重になっているのが分かる。


この山は独立峰なので、背後の防御は不要。唯一城の南側のみが緩やかな斜面になっているので、守る側は南斜面に防御を施せば良いわけで、段郭を配置しているのも頷ける縄張である。

高城 024
主郭の北側は二重堀切の先に腰郭が一つあるが、その先は深い傾斜となり攻めようが無い。

高城 033
30×22の二の郭。小屋掛けが出来る広さがある。


高城 034
二の郭東側の高土塁。防御というよりは独立峰ゆえの風除けであろう。


例の如く写真をツラツラと並べてしまった(笑)


武田氏統治時代は、筑摩の深志城から大岡を越えて川中島へ進出するための中継地点として重要視された。
この先にある大岡城(砦山城)には城番として家臣が交替で詰めた記録もある。

また、武田滅亡後の上杉VS小笠原の攻防では、筑北地方は壮絶な戦いの舞台となっている。

小笠原貞慶にしてみれば、大岡を越えて猿ヶ馬場峠を抑え川中島に進出するための起点であったし、上杉景勝にしてみれば、この地を確保することで筑摩方面への前進基地としたかった思惑がある。

残念ながら城跡からの景色はままならないが、雑木林の間からは青柳城を中心とした筑北地域の諸城は全て網羅出来るし、生坂村の城や大岡の笹久砦も抑える事が出来る。

文献にはほとんど登場しない高城であるが、戦国末期まで実戦を想定されて改修され続けた最終形は、中世城郭に興味のある輩には是非とも訪れて頂きたいマニアの城には違いない。


高城 052
大岡口より見た高城。


≪高城≫ (たかじょう 日向城、境木山城)

標高:1148.5m 比高220m
築城年代:不明
築城・居住者:高野氏
場所:麻績村大字日向字高
攻城日:2012年4月30日 
お勧め度:★★★★☆☆
城跡までの所要時間:高村番所跡より40分
見どころ:堀切、土塁、火縄銃用の三段構え。
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑史料編 宮坂武男著」



















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Posted on 2012/05/01 Tue. 22:12 [edit]

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コメント

ついに行ったかい

昨年秋、例の道祖神を見た帰りに仰ぎ見たあの山の城ですな。
見るからに人を寄せつけないような山の姿。
しかし、こんな高い山にねえ。
戦国時代って、一種、異様な時代ですね。
まあ、今もそれに呼び寄せられる御仁もおられるようですが。

あおれんじゃあ #- | URL | 2012/05/01 23:36 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

真冬の積雪時にラッセルして登っていたら恐らく道中のカモシカ殿の隣で共に白骨死体になっていたと思われます(汗)
その城跡に立たなければ見えない風景もありますよね。
狙った城(山?)は必ず落とす‥‥ってか逆に呼び寄せられて登らされているのかもしれませんねえ(笑)
攻城後、久々に大岡~信更町~篠ノ井をドライブ。遠き戦国の時代に思いを馳せて。

らんまる #- | URL | 2012/05/02 07:28 * edit *

らんまるさま、お疲れ様です。

この城、最高ですね。
信州の山城の典型的な「有様」です。
山麓に「城址入口」の案内があるのに、道が消失してしまうのって、背任ですよね・・・


ところで、鉄砲の射程距離を考察に含めた中世山城の縄張りって、初めて拝見しました。
(わたしにとっては)新しい視点であり、大変興味深いです。


さて、貴記事を拝見してblogやまのてっぺん様のことを想い起こしました。

信州の山城に先鞭をつけられた登山家だっただけに、御仁を喪った我々の損失は計り知れないものがあると、今でも残念でなりません。

大垂水 #- | URL | 2012/05/02 22:01 * edit *

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

# |  | 2012/05/03 00:35 * edit *

Re:マサハレ様へ

マサハレ様、コメントを修正させていただきました。

宮坂先生の件は小生の思い違いであり勝手解釈な記載となっておりました。
確かに信州の城を愛してやまない神がそのような事を言うわけがありません。
信者としても恥ずかしい限りで、氏の名誉を傷つける軽率なコメント部分は削除しました。
ご指摘ありがとうございました。


blogやまのてっぺん様については貴殿のHPで知りました。登山家で山城に深い造詣をお持ちの方はなかなか出逢う事はありませんネ。
明日の命さえわからない人生にあって、信州の山城における記録と記憶に残りたいという思いだけで果たしてどこまで書けるのだろうという焦燥感を持ち続けています(汗)

らんまる #- | URL | 2012/05/03 06:10 * edit *

比高

比高がたかい城ですね
なんといいますか、山城の醍醐味は
冒険心、探究心、をみたすところに
あるんじゃないかなあと。
ですので、
・比高がたかいしろ
・登山道が分らない城
はわくわくしてしっまって結局直登、
帰りは道を発見してしまって、別の場所に
車が遠い・・・(笑

丸馬出 #- | URL | 2012/05/03 09:04 * edit *

Re:丸馬出様

ならば楽したい、ショートカットで登れないものか色々と考えますが、直登せざるを得ない状況は閉口ものです(笑)
これからのシーズンは生い茂る葉っぱと鬼のように突き刺さる棘との戦いです(汗)
比高が高ければ高いほど満足感は充実しますが、帰り道を考えると「面倒くせーなあ」のため息ばかりです(爆)

らんまる #- | URL | 2012/05/03 13:49 * edit *

上杉さん

武蔵様ご推薦の
平山優様の
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望
を拝見したところ、このお城は
上杉さんが造ったお城のようですね。
小笠原さんとの熾烈な戦いが浮かんできそうです。

ところで、最近知ったことですが
小笠原さんの子孫は、赤穂浪士討ち入りのときに
老中だったんですね。
いや~出世されていたんですね。

丸馬出 #- | URL | 2012/06/10 08:51 * edit *

Re:丸馬出様

もともとこの場所には南北朝時代に守護所があったとされるので、小柴見城、大黒山城、その詰め城として朝日山城が機能していて、小柴見城には砦程度のものがあった事は想像に難くないところでしょう。

弘治元年(1555)に葛山城に入った謙信に対して、晴信は武田方に付いた旭山に籠る栗田鶴寿に兵員と物資を送っているので、山麓の小柴見城はこの時に物資補給の前線基地として改修されたとする見方もあります。
まあ、城の半分は遺構が消滅しちゃったし、色々と想像するのも楽しいものです。

ついでに貞慶さんと景勝さんですが、更科郡誌に「同じき九月(天正十二年のこと)貞慶三千人余を率いて、川中島に打ち出て、竜王の城を襲うて上杉大将清野入道清就軒が為に破られて、塩尻に引き返す」とあり、竜王城の合戦の事が伝承されています。
貞慶さん、八月に一度青木島まで侵攻し敗れて返す刀で木曾義昌を攻めて翌月に再度更科郡に攻め入るとは、神出鬼没の奮闘ぶりでございます。
「定納員数目録」には清野さんは猿ヶ馬場峠の留守居役として名があるので、貞慶さんと一戦交えたのは事実かと思われます。
更科と麻績を巡る攻防戦はまだまだ未解明な箇所が多いので想像すると楽しそうですネ(笑)

らんまる #- | URL | 2012/06/10 10:47 * edit *
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