らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0625

小田切館(長野市 安茂里)  

◆葛山城の落合氏を援軍し散った小田切駿河守幸長の城館◆

今年の夏場の攻城戦は平地の城館散策ツアーとしたのでご容赦願いたい。

えっ?ダメなの?

だってさあー、草茫々だし写真撮っても何が何だか訳わかんないし脱水状態で生き仏(ってかミイラか歌丸師匠?)になりそうじゃん(笑)

まあ、気が向けば藪でもアブでも攻めますのでお許しあれ・・・(汗)

で、今回からシリーズ三作で公開する「小田切城館物語」。

初回はWEB初公開と思われる「小田切館」(小市城とも)。

小田切館 (17)
長野市安茂里の松ヶ丘小学校の西側が居館跡らしい。


「続・山城紀行」の清水長久氏も場所は特定出来たが遺構は見当たらなかったという小田切氏居館跡に何かを発見出来るだろうか?

「年の功より藪の功ってか・・」(爆)

行き止まりまで車を乗り入れ、歩いて道路脇の怪しい場所に突入する。

小田切館 (9)
あの雑木林の中が怪しいゾ。


ロープレのTVゲームでは無いが、経験値のレベルが高いとヒットするという法則は間違いではないらしい(笑)

「藪に突入することこそ、武士の本懐である・・・」このことである。

薄気味悪い雑木林の中には郭の隅を迫り上げた土塁があったのだ・・・(汗)

小田切館 (5)
鬱蒼と茂る雑木林の西隅には何故かフェンスがある。その土台は間違いなく土塁であった・・・。


わざわざ盛土する郭であれば、その隣の仕掛けは堀切であろう。

予感とは的中するものである。確かに北側を深さ5m、上巾6mの堀切が仕切っている。

小田切館 (7)


耕作地への転用と小学校の建設でかなり改変されているが、この場所に立つと屋敷を置くには良い条件である。

後日紹介するが、小田切氏がもともと城館として築いた川中島今里にある内後屋敷と於下屋敷が掌握出来る高台にあるのだ。

小田切館 (29)

東側には「権現沢」と呼ばれる天然の沢を堀切とし、城館の西側は浅い沢筋を人工的に加工して堀切に仕上げたのであろう。

小田切館 (6)
縄張図における郭2。砂防ダムによる改変で半分以上削られているが往時は土塁が周囲を巡っていたのだろう。


小田切館 (10)
畑と変貌した郭3と雑木林と化した本郭は段差で仕切られていたと思われる。

郭3は平坦地と傾斜した斜面の組合せで、道路を挟んだ東側の小学校建物を含んでいた可能性がある。

権現沢は現在グランドになっている場所の脇を通っていたのかもしれない。

小田切館 (14)
西側の堀切跡。(現在は砂防工事の為に改変されている)北側に郭2が見える。



さてさて、この城館を築いた小田切氏の経歴についておさらいしてみましょう。

らんまるの拙い説明では無理があるので、長野市風林火山特設サイト「川中島の戦い」における岡澤由往先生の解説を引用します。


【小田切氏】

 小田切氏は滋野(しげの)の氏族で、佐久郡小田切郷(佐久市臼田 切原)に分地し、地名を姓にした。後に更級(さらしな)・水内の犀川辺りに移り住み、吉窪城を築き、小市(小市城/こいちじょう。長野市安茂里)・今里内後(いまさとうちご/長野市川中島町上屋敷)・今井於下(いまいおしも/長野市川中島町下屋敷)に館を構えて、この地方を領した。

※続きは次の内後館で紹介します


小田切館 (11)
郭3と郭4にある堀切(西側より撮影)。

小田切氏は、風雲急を告げる武田氏の侵攻に対抗すべく吉窪城の城館として小市城を整備し要塞化したのだと思います。

小田切駿河守幸長は武田晴信の調略を断り、弘治三年(1557)二月に上杉方として葛山城に籠る落合氏を救援して籠城戦に加わり、牧之島城から出撃した馬場美濃守信春率いる八千の軍勢による強襲と火攻めで葛山城は落城し、小田切幸長も討死していまいます。

まさしく信州の武骨な武人を象徴する「義の武将」であったと思われます。

小田切館 (18)
郭4の先端から見る小田切氏の居館方面。


小田切氏の吉窪城・小松原城を見ずして小田切を語るな!と叱られそうですが、城館を見ればその未踏破の城の縄張りの堅固さは自ずとわかるというもの・・・そんなところでしょうか・・(笑)


≪小田切館≫ (おたぎりやかた 小市城)

標高:420m  比高:30m
築城年代:不明
築城・居住者:小田切氏
場所:長野市安茂里小市
攻城日:2012年6月24日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:5分
見どころ:堀切、郭、土塁
その他:吉窪城・小松原城・内後屋敷・於下屋敷はセットかなあ。
参考文献:長野縣町村誌、長野市風林火山特設サイトなど







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Posted on 2012/06/25 Mon. 22:40 [edit]

CM: 4
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« 内後館(長野市 川中島今里)  |  堂城山砦 »

コメント

残っていますね。

らんまる様 先日はありがとうございました。

 小田切館は、WEB初レポートですね。

 堀も残存していて、埋められた沢を図説していただくと、縄張りが浮かび上がりますね。

 これからも知られざる城館の紹介を楽しみにさせていただきます。 

武蔵の五遁 #- | URL | 2012/06/26 07:54 * edit *

Re:武蔵の五遁様へ

いえいえ、こちらこそ不慣れなアテンドにお付き合い頂き、お疲れ様でございました。 

川中島合戦の第二回目では、武田方の支援を受けた栗田氏が籠る旭山城の付城として、上杉方の支援を受けた落合氏率いる葛山衆の葛山城が登場します。
葛山城の出現で約四ヶ月戦線が膠着した武田晴信は、今川義元に仲裁を頼み旭山城を破却することを条件に景虎と和解するのですが、二年かけて落合氏を調略し景虎の動けない二月にイッキに葛山城を攻め落とし落合宗家を滅亡させ、援軍の小田切幸長も奮戦空しく討ち取られました。

武田の勧誘工作を刎ねつけて散った小田切氏とはどんな武将だったのか・・・。
そんな思いで訪れてみた次第です。

北信濃の諸将の苦悩と葛藤・・・まだまだ奥が深いと思われてなりません。

らんまる #- | URL | 2012/06/26 20:24 * edit *

わくわく

巨匠の共演ですね、
記事を楽しみにお待ちしております。

(ところで、らんまる様の記事とヤフー地図の
 航空写真に触発されて私なりの妄想が膨らんでしまいましたので
 以下に記させていただきます。お許しを。)
松ヶ丘小学校の東側に大きな沢がありますので
館の東側は小学校左の沢で、
南側はグランドの南にある道(堀切の跡)かと。
この道をまっすぐ伸ばすと④の郭を横断して
砂防ダムの南あたりまでくるのですが、
この辺の沢の崖に堀切の端のようなものがみうけられます。
その場合、小学校とグランドが本郭になりそうですので
権現沢で本郭とその他の郭を分けるような形かなあと。
また、現在の道はとうじと変わらなそうですので
①の郭で直角に曲がって、沈殿池の辺りで本郭に
入っていたのかなあ。なんていう妄想です。
ひやくしすぎてますかねえ(笑

丸馬出 #- | URL | 2012/06/27 22:22 * edit *

Re:丸馬出様へ

いつもコメントありがとうございます。

ここで問題になるのが当時の権現沢が何処に落ちていたのか・・という事でしょうか。
小市周辺も地滑りや崩落が続いていたと見ると、難しい判断になり追い打ちをかけるように小学校の建設でかなりの改変で城域の東側は推測の域を出る事はありません。
転居したとはいえ、内後や於下の屋敷にもある程度人員を残すと、小田切七騎と呼ばれた家臣団をしても三ヶ所の屋敷を維持するには相当な無理があり、小市城も敷地面積は限られていたと見るように思えます。(あくまで推論ですが)
現地を見る限り、内後・於下の逃げ込み城として小松原城を想定し、小田切館は吉窪城へ籠城する。そんな用意周到策であったと思えてなりません。

らんまる #- | URL | 2012/06/27 23:11 * edit *
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