らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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埴原城(松本市)  

◆信玄の脅威に自落した中信濃最大の要塞◆

木々の葉も落ちて、これからの季節が山城ツアーには最適なのですが、雨続きには閉口していまします。

最近、地元の新聞にも「山城の魅力」なる特集ページが組まれたりしてます。
訪れる人もまばらな里山にある史跡に立ち、戦国の動乱を駆け抜けた武士たちの心境に想いを馳せるのも観光地の城跡では感じることの出来ない魅力なのかもしれませんネ。

埴原城 071
松本市里山辺にある埴原城(はいばらじょう)。最近自治体や地元の方が整備してくれました。感謝感謝!
【概要】

いつ誰がこの城を築城したのかは定かでは無い様です。一説によるとこの地方の豪族だった埴原氏(村井氏)が信濃の守護大名小笠原氏に降り林城(小笠原氏の本城)の支城として本格的に縄張りを施したようです。

埴原城 049
大手口に残る居館跡。手前には弓矢の練習をした的畑(まとはたけ)の遺構も残っています

小笠原氏の支城としてはこの城の他に周辺に山家城(やまべじょう)、桐原城、犬甘城、深志城(のちの松本城)があり、中信濃の山城ネットワークが出来上がっていました。
埴原城はその中でも規模が最大であり、防衛拠点としてはかなり実戦的な構造を持っています。

埴原城 051
二の郭と三の郭の間の堀切

【烏合の衆の盟主‘小笠原長時‘の悲劇】
1548年、信濃へ侵入した武田信玄が村上義清と上田原の合戦で敗退すると、小笠原長時はその混乱に乗じて武田領の諏訪地方へ侵入。地元の豪族と反撃の狼煙を上げ塩尻峠で武田軍に戦いを挑むが惨敗。
その後体制を立てなおした武田信玄は小笠原領へ進軍を開始する。再度地元の豪族らと連合し対決を試みるが、人望の無い小笠原氏に対して造反が相次ぎ、1550年には長時自身も戦わずして自領を放棄し村上義清を頼って逃亡。

埴原城 059
小笠原時代の特徴である石積み。本郭周辺に見られます。

「怖いものは怖い」

信玄の戦は徹底して訓練された兵士と緻密に計算された兵法に基づく戦法であり、猪突猛進のパターン化された信濃の豪族の戦法を心理的に追い込むには充分な戦果を挙げていました。

埴原城 063
本郭の山の手側にある「水の手」。籠城戦には水の確保が欠かせません。

「捕虜となった男は黒川金山の鉱夫に、女は売られて遊女に・・・」

生首三千を並べられ、徹底抗戦した佐久の志賀城は落城後に凄惨な仕置きを受けました。
この事実は瞬く間に信濃全土に広がり、豪族とその領民に恐怖を植え付けました。

埴原城 062
本郭の裏手にある尾根を断ち切るために作られた塹壕。この城にしか見られない貴重な遺構。

戦わずして自ら城に火をつけて放棄する、または逃亡する処置を「自落(じらく」と呼びます。

小笠原長時の山城ネットワークも村上義清の山城ネットワークも自落した城が多いのは、心理的な恐怖に勝てなかったのが主な原因かもしれません。

これだけの規模の要塞なら、武田信玄相手に半年は持ちこたえたはずの城でも恐怖に支配された人間が守れるはずもありません。

山に囲まれたが故に、天下という思想を持てなかった信濃の武将の悲劇がそこにはあるのかもしれません。

埴原城 069
蓮華寺の裏山が城跡になります。

訪問日:2009年11月29日
お勧め度:★★★☆
体力:ちょっとしたトレッキング気分で(所要時間は30分~1時間程度)
見どころ:段郭、堀切、石積み、主郭と裏郭と呼ばれる変則的な連郭。尾根を断ち切る為の複雑な空堀と土塁
場所:松本市中山





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Posted on 2009/12/06 Sun. 20:01 [edit]

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