らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0707

稲荷山城(千曲市 稲荷山)  

◆小笠原貞慶に備えた軍事拠点◆

筑北と麻績を抜ける通称「善光寺西街道」を猿ヶ馬場峠を越えると稲荷山宿に辿り着く。

天正十年(1582)六月に本能寺の変で信長が斃れると、翌七月には北条・上杉・徳川による「天正壬午の乱」が勃発し信濃は再び戦乱に突入する。

いち早く長沼城・海津城に兵を入れ川中島四郡を抑えた上杉景勝だが、深志に旧領を回復した小笠原貞慶の進軍は怒涛の勢いで四賀の会田氏を攻め滅ぼし筑北に侵入し上杉に対抗しその所領を狙った。

稲荷山城 (2)
城域の南に位置する極楽寺。初代城将の須崎三河守の棟札が発見された。


城の縄張りと規模は、五町四方、三方押しの城といわれ「信府統記」にも「稲荷山駅の西、松原山に稲荷神社あり、宿の東に古城址あり、東西二百四、五十間、南北三百間の構なり」とある。


稲荷山城見取図


現在、城跡は市街地及び住宅地に変貌を遂げて見る影も無いが、周囲を流れる河川は昔の堀跡といわれているので、鉦山(どらやま)と呼ばれる櫓址の高台と城の裏門だった松木家本陣の冠木門の位置から推定して見取図を妄想で描いてみた・・(汗)


「三方押し」の城とは三方へ出撃出来る兵隊の駐屯地(宿城)の事であり、籠城用の防御施設などは無く周囲を水堀で囲んだ程度のものであったと推察される。

上杉景勝が天正十年(1582)八月、須崎三河守に築城を命じて翌年二月に完成したという。
(文献に初めて出てくるのが天正十二年なので、完成は天正十一年末とも云われる)


inariyama2  (1)
現在も残る松木家本陣の冠木門。稲荷山城の裏城門だったと伝わる。


inariyama2  (3)
傷みが酷く倒壊寸前だ。価値ある文化財として千曲市の早急な保護を願ってやまない。



天正十年八月といえば、川中島四郡の支配を確実にするために長沼城の城将である島津忠直には千曲川の東西を統轄させ、海津城には新たに村上景国を城将(副将は屋代秀正)として配置した。
この時に荒砥城も城番制となり小県からの侵入に備えている。

猿ヶ馬場峠を越えて迫り来る貞慶に備えてその出口である佐野城や竜王城を固め、赤沢城(塩崎新城)を改修し更に稲荷山に軍事拠点としての平城を築城したのは当然の事であろう。

また、城下には宿駅を置き伝馬制をしき定期市を立てたという。


inariyama2  (6)
通称「ドロ山」(鉦山)と呼ばれた場所にある稲荷山城の碑。往時は小高い丘に櫓台があったというが現在は平削されてしまった。


天正十二年七月、小笠原貞慶は猿ヶ馬場峠を越え稲荷山城を急襲し落城させて青木島まで進出するが、小田切左馬助の迎撃により撤退したという。

その後、稲荷山城は文禄三年の「定納員数目録」には稲荷山留守役衆として保科佐左衛門、小田切備前守、須崎彦兵衛らの名が見えるので、慶長三年の上杉会津移封まで引き続き城番が置かれた。


稲荷山城 (4)
現在の稲荷山は蔵の町として売り出し中である。


稲荷山城はその後、元和元年(1615)の江戸幕府の一国一城令により廃城となる。
(稲荷山は上田藩の所領となっている)

江戸時代の稲荷山は千曲川の水運を利用しての商業、そして善光寺西街道の宿場町として栄えた。
現在の町に見られる多くの土蔵建物は、善光寺大地震(1847)後に耐火を目的として建てられたものである。


稲荷山城 (10)
千曲川に架かる粟佐橋から見た稲荷山城方面。


城跡としての遺構は松木家本陣跡に残る冠木門だけである。

この門の場所が分からずWEB検索していたら坂道散歩というブログに辿り着き、場所を特定することが出来ました。
昔の街道をひたすら歩いて制覇していくという紀行文で、思わず見入ってしまった秀作でございます。

何も無い稲荷山城ですが、周辺を歩くと無口な景勝さんもここら辺りを歩いたのかなあーなんて想像してしまう古い街並みが素敵です(笑)

≪稲荷山城≫ (いなりやまじょう)

標高:363m  比高:0m
築城年代:天正十一年
築城・居住者:上杉氏
場所:千曲市稲荷山
攻城日:2012年7月1日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:冠木門、土蔵の町並み
その他:周辺には塩崎新城、塩崎城、小坂城がある。
参考文献:「長野郷土史研究会機関誌 長野 第97号」




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Posted on 2012/07/07 Sat. 06:59 [edit]

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コメント

稲荷山、渋いねえ

うちの親戚が稲荷山にあってさあ、ガキのころから何度か行きましたわ。
でも、城跡だって知ったのはかなり後のことでした。
堀跡らしいくぼみもあったような記憶があります。
でも松木さんち、記憶が飛んでるなあ。

しかし、この町も松代同様、時代から取り残された町。
鉄道を回避したのが致命的でした。
でも、それだからこの街並みが残ったんですね。
改めて、ここを歩くと素晴らしさを感じます。

あおれんじゃあ #- | URL | 2012/07/07 19:09 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

師匠、コメントありがとうございます。

桑原宿が松代藩御用達の正式な宿場でしたが、上田藩の稲荷山宿が盛況過ぎて権利を委譲するような話もあったようですね。
稲荷山の人々は武田の家臣だった真田家が嫌いだったようで、真田統治時代の上田藩は不人気だったみたいです(汗)
寡黙な景勝さん人気は今も衰える事が無いようです(笑)
松代も稲荷山も町を歩くとタイムスリップしたような感覚・・・昭和世代が味わう事の出来る最後の砦のようです(爆)

らんまる #- | URL | 2012/07/07 20:05 * edit *

ご紹介、ありがとうございます。

確かに、あおれんじゃーさんの言われるように「渋い」ですね。
小生もかなり前に一度稲荷山温泉に泊まったことがあり、そぞろ歩きをして、とお~い昔の日本を感じましたし、上田から長野にいく際に何度か通る道筋で、稲荷山城を見つけてみたいと思っていました。近々上田にいきますので、ちっと足を延ばしてみようと思います。

真田統治時代の上田藩は不人気というのも、あるんですね。さらに景勝が人気とは、また、意外です。信州で武田が不人気というのは、結構聞いていまして、土地土地の方々の思いは、何百年経っても引きつかれるているもののようで、歴史の営みの深さが感じられます。

馬念 #- | URL | 2012/07/07 23:39 * edit *

Re:馬念様へ

コメントありがとうございます。

最近は毎週のように通いつめているので第二の故郷になりそうな勢いですわ(笑)
門と碑ぐらいでホントにも何もないんですけど、善光寺西街道を通った旅人の息吹が感じられる街並みです。
是非ご堪能頂ければと思います。

上田市も幸村人気にあやかろうというのは仕方無いのですが、「幸村の居城上田城」って笑えますよね。
ちゃんと歴史を勉強しないと稲荷山の住民の皆さんにも笑われてしまいます・・・(汗)

らんまる #- | URL | 2012/07/08 09:29 * edit *

論文みつけました

論文を見つけましたので
ご参考にしていただければ幸いです
赤沢城
http://rar.nagano.nii.ac.jp/metadata/513
大熊城(諏訪)
http://rar.nagano.nii.ac.jp/metadata/579

丸馬出 #- | URL | 2012/07/08 11:07 * edit *

Re:丸馬出様へ

いつもコメントや情報提供を頂き、ありがとうございます。

気の向くまま、自分の感じるままの城攻めや史跡巡りが小生のスタイルでございます。
所詮素人なので、玄人の領域はその道のプロにお任せしたいと思います。

最近は古道や往時の街道を歩いてみたいと思ってまして、城跡ばかり巡っていても風景が見えないんですよね。
広く浅く見る事で、往時の世界観が変わると思っています。
まあ、自他共に認める変人でございます(笑)


らんまる #- | URL | 2012/07/08 21:13 * edit *
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