らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0708

屋代城(前篇 千曲市 屋代)  

◆二つの城域を持つ屋代氏の本城~北西城郭編~◆

予告した以上は本編を書かなくてはなるまい・・(笑)

構想3年、現地調査2日間(ちゃんと調べたのは1日だけ?)雨天決行、撮影した写真は150枚以上(しかしロクなものが無い)、おやつは300円以内という低予算な超大作である・・・(爆)

屋代城遠景


前回予告編で紹介したとおり、この城は土砂採取により本郭のある一重山頂上からの南尾根及び北側ピークとの鞍部を破壊されているが、二つの城域から構成される全長500mの長大な平山城である。

平成7年に行われた旧更埴市の発掘調査報告書を参考に2回に分けて掲載させていただく。

今回は北尾根を中心とする遺構をご紹介。


屋代城 001
これが冠木門だったら良かったナーと思う登城口(笑)


ここに城を作る必要が生じたのは、船山郷へ屋代信仲が進出した寛正三年(1462)以降で、「諏訪御符札古書」には初知行とある。屋代城西麓の満照寺は居館と目される地で、大堀切からの道も通じていた。同寺は屋代政国の開基で、大永二年(1522)、祖父満照のための建立という。
この子孫が戦国を生き抜き、一万石の大名(のちに一揆で旗本化)になった屋代氏である。


屋代城縄張図①


【郭4】

30×16で一重山不動尊の社が建つ。現在コンクリート製の石段が北側に連接し改変されているが往時は東側が入口だったと思われる。
屋代城 002


【郭3】

段差を付けて墓地の並ぶ20×15の郭。一応公園なのだが、墓所付きの公園??
屋代城 005

屋代城 006
郭2へは切岸で処理するオーソドックスな作り。


【郭4と前後の堀切】

東屋を立てる際に改変されたようだが、小屋の後ろには堀切㋔(巾4×深さ2)が確認出来る。
郭は細長く50×10。昭和20年代までの耕作地化・墓地化による改変の跡が見られる。
屋代城 009

屋代城 013
なんかお墓ばっかり・・・(汗)、で一段下がった西側に腰郭(現在は墓地)も確認出来る。


屋代城 014
郭の南橋を巾5m×深さ4mの堀切㋓で遮断し細長い郭を中継して郭1へ。


【郭1】

矢代神社のある郭は北尾根城郭群の中では最大の広さがある。近代における改変を考慮しても立派な小屋掛けが出来そうだし見晴らしも充分だ。東西は急な傾斜なので比高は低くても攻めるには難しい。
戦闘時はここが指揮所となり、戦況によっては更に上の一重山に後退する戦法が想定出来る。
屋代城 018


また、社殿の背後にある鎮魂碑のスペースは12×12で一段高い。社殿との境には堀切らしきものがあるが断定出来ない。
屋代城 025


西側の稲荷山方面の展望。城下の異変はすぐに察知出来たであろう。
屋代城 019


郭1の背後はこの城郭群における最大の堀切㋒(上巾10m×深さ5m)で尾根を遮断している。
東西の斜面はそれぞれ長さ50mの竪掘となり攻城軍の移動を阻止する作りである。
屋代城 029


【郭5】

大堀切の土橋を登ると郭5である。(土橋も後世の造作であろう)30×12の広さ。
夏場は雑木林の葉が邪魔して何がなんだか・・・。
屋代城 031


南側は堀切㋑で遮断されるが、長さは10mと短く防御性も低い。築城当時のものであろうか。
屋代城 034


【郭6】

この城域におけるピークの高さがあり、標高は396m。東斜面には腰郭を数段設置しているので信州の城の共通特徴である初期の様式を持つ。
築城当初の本郭は恐らくこの場所にあったと思われるが、一重山へ城郭を広げて行く過程において物見郭に変化したのだろうか。

ここで注目したいのが「堀切㋐(竪掘)」である。
腰郭の北側を大きく遮断して横への動きを阻止する強力な防御で堀を土塁で迫り上げている徹底ぶりなのだ。

屋代城 035

屋代城 039
東側の斜面を遮断する竪掘㋐。上巾8m×深さ2m。往時は4m以上の深さがあったという。


屋代城 037
かつて御嶽社の社が置かれていた方形郭(5×5)と竪掘への切岸。


この城、通説では屋代氏が荒砥へ領地替えになった後は廃城になったとされるが、間違いなく戦国期の改修を受けているのである。
さて、手を入れたのは誰であろうか??


【屋代城前篇のまとめ】

ざっくり見て六の郭と五本の堀切。これだけで立派な城である(笑)

しかもそのうちの二本の堀切は明らかに戦国時代に手が加えられたと思われる。

残念ながら郭6の背後のから一重山へ続く鞍部は土砂採取により削られてしまい、往時は今よりも10m高い位置だったという。その鞍部には何があったのだろうか?

屋代城 044
無残に削り取られた鞍部へ続く階段。


屋代城 042
郭6から見た本城(一重山)。背後の山は有明山(652m)


後編へ続く・・・・(縄張図はこれから書くんで、いつになるやら‥‥笑)


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Posted on 2012/07/08 Sun. 18:33 [edit]

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コメント

仮説ですが

あくまで仮説になりますが、初期は船山御所の詰城として低いピークに城が造られ、第二期は村上氏の勢力拡大に伴って高いピーク部まで城域が拡大し(荒砥城の対をなすような形で、長野方面に備えるため)第三期は武田さんによる改造(縦堀の増設)かなあと、考えてみました。巨大な城を造れるのは、北国街道の交易でもうけていた村上さん以外にはあないかなあという気がします

丸馬出 #- | URL | 2012/07/09 22:01 * edit *

Re:丸馬出様へ

コメントありがとうございます。

屋代さん、国人としてはかなりの勢力を持っていたようで村上さんちのNo2だったようです。
晴信さんもこんな場所にデカイ城を持つ屋代さんを置くのはマズイと思って国替えをして石高を減らし生かさぬよう殺さぬように仕向けたと思います。
この城の縄張りで注目したいのは東斜面に対する防御です。最終の改修は明らかに東側を意識しています。
謎でございますねえー(笑)

らんまる #- | URL | 2012/07/10 07:43 * edit *

懐かしい城です

写真を見ているうちに思い出した。
ここに行ったのは8年ほど前の気温35℃の真夏。
蚊にボコボコにされ、足元に紐状生物が。
しかし、蛇のように長い城でしたな。
南側の失われた堀切群が存在していたら・・・と思うと、つくづく惜しいですね。

善光寺平の南の入口を塩崎城と抑える城でしょう。
戦国期は屋代さんは追い出され、武田氏直轄、譜代の家臣がいたのでしょうか。

あおれんじゃあ #- | URL | 2012/07/10 22:17 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

平成七年の発掘調査報告書によると、屋代城は一度城割された形跡があるとの事でした。
本郭と二の郭の間には堀切があり、堀を埋めた跡がトレンチ調査で判明しています。
屋代氏を転封した後に廃城にしたのでしょうか??

武田家が滅んだ後に進出した景勝さん、猿ヶ馬場峠周辺の城を重視していますが案外と北条や真田への備えとして再興した可能性があるような気がします。
実務家としての顔を持つ景勝さんなら隠密に兼続あたりに命令して土木工事をやらせた可能性があるし、ひょっとしたら旗を立てたのも鞍骨城じゃなくて屋代城だったのかなあーなんて思ってますが(笑)

らんまる #- | URL | 2012/07/10 22:43 * edit *

逆の可能性も

竪堀の感じですと、最終的には
武田さんの改修があったように感じますが
以外と天正壬午の乱で鞍骨城にこもった
上杉さんに対する北条さんが接収して
最終な改修を行ったなんてことはありますかねえ。
天正壬午の乱はあまり詳しくないので
なんとも申し訳ないのですが。
屋代城の東側にあるのは鞍骨城の城塞群ですので
可能性はありそうな気がするのですが・・・。

丸馬出る #- | URL | 2012/07/11 02:11 * edit *

ついでですが

城割についてですが
海津城が出来た時点で、屋代城は
役割を終えたのではないかなあ
という気がしております。

いままでは、4次川中島合戦で後続部隊が
出撃したのは屋代城かと思っていたのですが
(あおれんじゃあ様の説を支持しているのですが)
犀川をつかって牧野ノ島から補給のできる
塩崎城に大部隊がいる可能性のが高いと
思われますので、その頃には
屋代城は役割を終えていた可能性があるかもしれませんねえ

丸馬出 #- | URL | 2012/07/11 15:59 * edit *

Re:丸馬出様へ

当初北条氏に降った昌幸さんが、海津城将の春日さんの内通の確約をもらい道案内で千曲市新山周辺まで進軍したようですが、内通が発覚し春日さんは処刑され北条氏は景勝さんと和議を結び撤退しました。
村上さん逃亡後の葛尾城も関ヶ原までは改修されて機能しているので屋代城も同様に手が加えられたと見るべきでしょう。

らんまる #- | URL | 2012/07/11 19:39 * edit *

Re:丸馬出様へ

晴信さんは降ってきた国人や土豪には在地の城を割ることで二心無き事を誓わせていたようです。
その後この地域を支配した景勝さんも土豪が持ち城に籠る事は馬鹿げた事だとして城割を進めた合理的な考えの方でございました。
川中島四郡という大きな地図で見ると、赤沢城と屋代城は更科郡から善光寺平への出口を抑える交通の要衝。
海津城という楔が落ちた場合の最終防衛線であることは納得のいく場所でございます。

らんまる #- | URL | 2012/07/11 19:53 * edit *
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