らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0912

中塔城③ (松本市梓川 リベンジ)  

◆風雪流れ守護「長時さん」が籠城に飽きた半年間のユウツ C地区編◆

今や中世城郭研究家の第一人者として全国区であるヤブレンジャーのウモ殿は、中塔城の記事で小笠原長時を「風雪流れ守護」と評している。

うまい表現だなあー、座布団3枚はいけそうだ・・・(笑)

天文十七年(1548)七月、疾きこと風の如く塩尻峠で小笠原連合軍を破った武田晴信は、イッキに府中を攻めずに小笠原軍団の分裂を辛抱強く待った。(静かなること山の如し ってか・・)

たび重なる出陣に対する恩賞も無い戦と長時の旧態然としたエラソーな態度に反発する武将は日を追うごとに増していき、仁科、山家、三村、西牧、の諸氏の離反は公然の事実となりつつあった。

中塔城C地区
C地区見取図。縮尺テキトー(笑)、宮坂武男氏の縄張図を参考にしています。

天文十九年(1550)七月、絶妙なタイミングを失する事無く、前衛基地の村井城から府中に攻め込んだ武田晴信はイヌイ城(犬甘城とも)を急襲しまたたく間に府中を制圧すると、周辺の諸城は示し合わせたように自落し、林大城も明け渡される。長時は村上さんを頼って坂城へ落ち延びたらしい。

うらぶれた長時の「風雪流れ旅」の始まりである・・・。

中塔城 (51)
郭1。居住区への入口を守る郭。

同年10月に「砥石崩れ」で晴信が村上義清に敗退すると、義清の加勢を得た長時は義清と共に平瀬城に三千の兵を引き連れて戻り深志城奪還の画策したという。

中塔城 (54)
居住区は中央が窪地で南側に広めの郭を展開している。

ところが、義清さん、突然兵をまとめて坂城へ帰ってしまった・・・(笑)

「武田軍、葛尾城へ向けて進軍中」の報告を受けたからである。武田軍の陽動作戦にまんまと引っ掛かったわけ。

深志城奪還どころか、残る兵員も千人を割り込み長時は途方に暮れる。

中塔城 (55)
金比良山と手書きで書いたガムテープの貼られた社。重厚感のかけらも感じられない・・・(爆)


一説によれば、義清さんは最初から長時など助っ人するつもりなど無く、武田軍を安曇野方面に引き寄せる為に出張ったという。

村上勢の引き離しに成功した武田軍は、飯冨虎昌が率いる軍勢で小笠原の殲滅を試み野々宮で合戦に及んだと云うが、背水の陣で臨んだ小笠原軍は勝利したとされる。

中塔城 (56)
郭3。小屋掛け出来る広さがあるが、土塁も無く北風に晒される場所に建物を作るだろうか??

勝利後、長時さんは多勢に無勢でこれ以上の戦は無駄と悟り武士らしく切腹する事を決断したが、重臣の中塔城主である二木重高に諫められ、中塔城への籠城を決めたと云う。

もっとも「二木家記」の記述なので、二木家が美化され誇張されているのは致し方無いと思う。

中塔城 (58)
郭3から北側の尾根には段々郭が続く。

二木重高曰く「五年の食糧、三年の矢玉を蓄え、比類なき天険なれば事欠くものではござらぬ」

本当かどうかは知らないが、以前より戦時中は家臣や兵隊の妻子を匿った場所であったらしく、現在もその広大な自然地形を見る限り、数カ月は籠城に耐えうる住居設備があったと思われる。

でもねー、いくらなんでも1,000人で籠城出来る広さじゃないし、食糧も賄える訳ありませんわー。
せいぜい100人程度だったと見るべきでしょう。

中塔城 (60)
居住区の西端。

籠城当初は武田軍との小競り合いもあったようだが、そのうち武田軍も遠巻きに監視しているだけで攻める事はなかったようだ。

武田が落とせなかった城として紹介される。まあ間違いではないが、「好きにすればー」ってとこでしょう(笑)

中塔城 (61)
西側の尾根筋に残る堀切。

小笠原系の家臣の手記によると籠城は三年と記された書物もあるようですが、「二木家記」の半年というのが的を得ているような気がします。

北アルプスの上高地と同じ標高でしかも10月~3月の半年ですよ・・・(汗)

公家のような贅沢な暮しをしていた長時さんが、粗末な山城の冬山籠りに半年も絶えたなんて異常です(笑)

個人的には一ヶ月も持たないで逃亡したと思ってます。

寒いし、キタないし、ロクな食べ物も無いし、きれいなネーちゃんも居ないし・・・(笑)

きっと毎日ユウツだったんでしょうねえ~。

中塔城 (68)
搦め手へ続く道。地図に記載はあるが、生還の保証など無い深い谷への道があるという。

あの武田勝頼でさえ、真田昌幸の守る岩櫃城への避難を躊躇したのは、山城の厳しく悲惨な生活には耐えられないという判断であったという。

険しき山城を脱出した長時さんは、その後義清さんを頼ったともいわれるが定かではない。

過去の権力や権威に囚われ続け、時勢を見誤った小笠原氏は、家柄では武田氏の上位であるかもしれないが、戦国武将としては武田の足元にも及ばなかったということか・・・・。

中塔城 (74)
自然地形のC地区南側には意味不明の土塁がある。個人的にはこの場所に建物があったと思えてならない。


C地区は防御らしきものがあまりない。自然地形の窪地をそのまま利用したようだ。

これだけ広大な敷地が険しい山の上にあるとは誰も信じないだろう。

いすれにしても長時さん、「捲土重来」の思想は高く、「臥薪嘗胆」には遠かったと思われる・・・(笑)


で、次回へ続くとしますネ。







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Posted on 2012/09/12 Wed. 23:05 [edit]

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コメント

大好きです

(らんまる様のブログですが、引用でスイマセン。
 何度見ても、ウモ様の長時さんの記事は
 ニヤリとしてしまいます)

山岳ゲリラ守護の長時さんすきなんですよねえ。

丸馬出 #- | URL | 2012/09/13 07:47 * edit *

Re:丸馬出様へ

コメントありがとうございます。

ウモ殿の表現、さすがですなあー。
流れ流れて京都のとある神社でも「東筑摩の地を回復致したく・・・」と祈祷した長時さんの執着心も凄いですねえー(笑)その子である貞慶さんの復讐への執着といい、さすが親子の血筋でございます。

らんまる #- | URL | 2012/09/13 19:01 * edit *

ながときさん

小笠原さんって この長時さんとか大塔合戦の長秀さんとか、時々、ポカをする抜けた面白い人物が出ますねえ。
ウモ殿の評価では、長時さん、武将としてはゲリラ戦の分野ではなかなかの才能のようですが・・。
それに結果としては、小笠原さん、ド根性と怨念で、大名として復活し、明治まで大名の地位を確保したのですから、結果としては武田氏に勝ったとも言えます。
そう言えば、あの小笠原諸島を発見したのも、この一族でした。
意外と凄い一族かも。
そう、二木さんも小倉藩の家老として続いたそうですね。

あおれんじゃあ #- | URL | 2012/09/13 21:33 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

なるほど、ジプシー生活に転落してから自我に目覚めた遅咲きの才能ってヤツですか・・・。
それにしても目覚めが遅すぎた・・・(笑)

長時さんが凄いと思うのは、「大将が負け戦となっても死んではいけない」っていう暗黙の了解でしょうか。
そういう意味では信長や家康にも共通するのですが、帰郷の寸前で家臣に殺されてしまい、さぞかし無念だったと思います。

小笠原諸島が長時さんの子孫の発見だとは知りませんでした・・・(汗)
「風雪流れ旅」の最終章は世界遺産登録だったんですねえー(笑)

らんまる #- | URL | 2012/09/13 22:38 * edit *
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