らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0926
山崎砦 (東筑摩郡筑北村山崎) 
亀山城の続きは北條城(西牧城)の予定だったのだが、先日ご同行させていただいた馬念様に「大野田城とは山崎砦だった可能性がある」とお聞きして急遽掲載に至る・・・(笑)
この話、初耳である。もっとも読書週間でも設定しなければ歴史読本とか城郭研究者の発表などを読む機会もないので、不勉強なわが身を恥じるばかりである(汗)
この標柱から登ると道が途中で無くなり、とんでもない城域のはるか北側に出るので注意。
筑北村で未踏破なのは「口城」「硯竜砦」そして「山崎砦」の三ヶ所であったが、山崎砦は比高100m程度なので下見ついでに攻め込んでしまった。
「標柱=城跡への案内板」というのは今回は全くのウソだったのである。
藪漕ぎの先に辿りついた広大な平地。
虚空蔵堂の脇に道があり、急斜面を登ると踏み跡は消滅し2m近い高さの藪との戦いが続く。
やっとのおもいで尾根の平坦地に出たが、例の如く「ここは何処?砦は何処?・・・」(笑)
「きっとデカイ腰郭で、この先の斜面は切岸、そしてその先に本郭があるんだろう」
思い込みとは時に方向感覚すら麻痺させる。
こんなデカイ腰郭あるわけ無いのにねえー。
気が付いたら尾根を登り始めている。
尾根の南端に砦があるのに何で北へ向かう??
慌てて元の道を戻るが、既にどこをどう来たのか全く覚えていないのだ・・・・(汗)
「ヤバイ、迷ったか」 このことである。
とりあえず南東の稜線を辿り方角が確かめられる視界を確保しようと戻る。
そこで見たのが高土塁と一条の堀切だった。
上巾7mの堀切と主郭背後の土塁。
「ここにあったのか…………」 何故か元気を取り戻した(爆)
想像していたよりも遥かに小さいのだ。
主郭の中央部は円形の盛土。中途半端な処理のまま。
西の尾根筋に向けて小さな段郭とコの字型の腰郭を周回させている。
欠の山(がけのやま)と呼ばれる尾根端の断崖上であるが、傾斜の緩い西の尾根筋を警戒した防御である。
安坂川の浸食で形成された対岸には厳重な防御を誇る安坂城がある。
ここにわざわざ砦を作る必要があったのだろうか?
本郭をコの字型で囲む腰郭。
天正壬午の乱で、麻績及び筑北地方は上杉vs小笠原の壮絶な陣取り合戦の地となった。
中央では豊臣vs徳川の覇権争いが激化する中で、地方はさながらに代理戦争の様相を呈していたのである。
川中島四郡の支配を確立した上杉景勝は、中信濃への侵攻の拠点として牧之島城の城代芋川親正に、新たな城の築城を命じたという。
それが大野田城らしい。
背後の堀切に続く不整形な腰郭。
確かに大野田という地名はこの山崎砦の麓にある山崎集落から北に実在する。
地理的に最も可能性があるのが、この山崎砦なのだが、こんなプアな縄張りは原始的で天正期のものとは到底思えない。
小生が彷徨った城域北側の広大な場所に新たに縄張りする予定だったのだろうか?
大手道にある金毘羅大権現社。大手道を発見し帰還できたのは不幸中の幸いだった(笑)
小生は同時にもう一つの疑問を想い出した。
上杉家の「定納員数目録」に記載されている猿ヶ馬場留守居役の清野助次郎とその士卒250名の駐屯場所が今もっ定かになっていない事・・・。
彼らが駐屯した場所は佐野城や龍王城だったのではないかというのが定説になりつつあるが、あんな山間の間道よりは案外ここら辺だったように思える。
村誌によれば、山麓に居館を構えていた吉池淡路守の築きし砦とあり、尾根の平地は馬が走りまわる事が出来、水の手もあったという。
吉池氏の出自や仕えていた先は不詳としているが、文献が発見されれば謎は解かれるかもしれない。
大手道の脇には吉池氏の墓所が並ぶ。この道が山崎砦への正規ルートであったのだ。
半袖に短パンで藪に立ち向かい、挙句の果てに尾根をよじ登り迷子になりかけた猪武者であったが、「じっちゃんの名に賭けて」という解明にはほど遠い戦果であった・・・・(爆)
間違ったルートに標柱を立てた筑北村の教育委員会には暴徒化した抗議デモを行う予定である・・・(嘘です)
≪山崎砦≫ (やまざきとりで)
標高:755m 比高:115m
築城年代:不明
築城・居住者:吉池氏
場所:筑北村坂井山崎
攻城日:2012年9月17日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:15分
見どころ:堀切、土塁、城域北側の広大な平坦地。
その他:対岸に安坂城。
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑資料編 宮坂武男著」
安坂神社(安坂城登り口)からみた山崎砦全景。
Posted on 2012/09/26 Wed. 21:40 [edit]
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らんまるさま、こんばんは。
まったく知らない砦、興味深く拝見しました。
ところで、ここでは、例の雰囲気は感じませんでしたでしょうか?
「こんなデカイ腰郭あるわけ無いのにねえー。」とコメントを付された写真に、何やらボンヤリとした茶色い影が写っているような気がするのですが・・・。
Re:大垂水様へ
いつもコメントありがとうございます。
こんな低い砦で迷子になるとは不覚でございました・・・(汗)
ご心配は無用で、写真に写り込んだのは小さなハエです。
それよりも帰り道をロスしたという恐怖心に支配されてました・・・・(笑)
お久しぶり?
こんばんは。。。いつもながら力一杯城めぐりをされてますね。
標柱の罠はきついですね~。嘘っぱちはいけませんね!
それでなくても山城は迷いやすいのに。。。。
山崎砦の遺構結構残ってるんですね。
土塁の切岸と堀切。。。興味湧きました。
いつか行ってみよ。
北条城の記事楽しみにしています。
Re:ていぴす様へ
ていぴすさん、「力いっぱい」とは良き表現でございます。
巷では「無謀・おバカな事この上なし・片腹痛いわ!」と罵声を浴びております(笑)
そのうち「国の嘆き 人々の嘆き悲しみ語るを得ず・・・」と表現されそうな勢いでございます。
吹けば飛ぶような小さな砦ですが、作り手の息吹が感じられるのは確かかと・・・。
北條城ですか・・・。未調査部分が多すぎて記事にすべきか迷いばかりでございますなあー(爆)
短パン半袖で?
そんな恰好で夏の藪山に?
あの山ですね。
確かに佐野城は街道筋ですが見通し悪いし、竜王城は山奥過ぎますなあ。
この山の鞍部は駐屯地にするにはいい感じですな。
標識をでたらめに立てるとは、大陸の国やキムチの国並みの暴挙。
かくなるうえは、教育委員会に乱入して・・・って、大陸の国の住人のようになってはいけませんなあ。
不思議な平場
先日はありがとうございました。
山崎砦、登り口だけを見ただけでしたが、すぐ近くに安坂城もありなぜそこに砦
があるのか疑問ですね。
また、広い平場が不思議です。伏兵でも配していたのか?と思ってしまいます。
彷徨っているうちに遺構を見つけた時はホッとすると同時に、ヤッターとなり元気
が出るのは良く分かります。(笑)
見たかった山崎砦
アップいただきありがとうございます。
こだわって行きたかった山崎砦です。
果たしてこ砦が、「大野田之地再興」したものにあたるかですが・・・
このことについての拙文は
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/22823715.html
お時間があればご覧ください。
Re:あおれんじゃあ様へ
コメントありがとうございます。
脛に傷を持つ者でありながら、更に棘で脛の傷を深くしてしまい経験値がパワーアップしました(笑)
対面の安坂城では麻績新城や古城との直接連絡が取れないし、この砦の位置ならバッチリです。
修那羅峠や猿ヶ番場峠からの異変に対しても伏兵を置く事で対抗出来たのかもしれませんね。
教育委員会の件ですが、この砦跡には何の標柱もありませんでした。(他の城跡には必ずあったのに)恐らく調査をチョンボしている可能性があります。
「ええーい、牛100頭連れて抗議行動だ、誰か牛を引けい!!」(爆)
冷静にならないといけません・・(笑)
Re:のら様へ
いえいえこちらこそ、またご一緒しましょう。
鞍部がかなり広いのでビックリしました。特別加工しなくとも駐屯地には利用出来そうでしたよ。
安坂城は奥まった場所にあるので繋ぎの中継地点で置かれた可能性はありますね(口城もそうですが)
遺構を見つけて元気になりましたが調べ終えて「さてどう帰ろうか・・」
再び意気消沈したのは言うまでもありません(笑)
Re:馬念様へ
拝見致しました。地形と当時の勢力範囲などからの推察、見事でございます。
なるほど、どこにあったのか考えると夜も眠れませんネ(笑)
大岡口には高城、修那羅峠方面には安坂城があるので、わざわざ新城を築くとは考えづらい。ただし、安坂城から麻績城へは直接連絡を取る事が出来ないので、隣の嶺にある口城あるいは対岸にある山崎砦の活用が必要になります。
山崎砦の鞍部は広く水の手もあったようなのである程度の兵力は収納出来ますが、新たに縄張りをして加工したとは思えません。
なので美麻村の大野田城は現地調査の価値がありそうです。
クーさんとの出逢いを求めて行ってみたいなあー(笑)
ひょっとすると
地図を見ていたら面白いことに気がついたのですが
猿ケ馬場峠より一本松峠の方がなだらかな峠なので
中世の善光寺街道は一本松峠から大野田を
通っていたのではないでしょうか。
そうすると、大野田の重要性は高まりますので
もしかすると大野田集落の周囲に
大野田城があるかもしれませんね。
(個人的には大野田公民館の南側の
尾根が怪しいと睨んでいますが(笑))
Re:丸馬出様へ
いつもコメントありがとうございます。
天正十一年頃は、麻績地方と旧美麻村の千見城付近の覇権争いが激化していた時期です。
牧野島城の芋川氏が麻績に新たに築城するにはかなりの距離があり、大町方面への抑えには長者山の南を抜ける日影あたりと思われ、馬念様の推論が的を得ているように思います。
確かにこの場所に大野田城があり、この地域の縄張りの堅固さでは千見城に次ぐものだと宮坂武男氏も述べています。
現地調査をしていないので何とも言えないのですが、旧美麻村付近は景勝が死守すべき防衛ラインで、千見城の争奪戦が繰り返された事実があるので、牧野島城から援軍を行える城の築城は死活問題だったのでしょうね。
ともあれ、貴重なご意見ありがとうございます。
疲れました
現地調査してみましたが
何もありませんでした・・・。
しかも、森林整備の後だったらしく
逆茂木だらけでひどい目にあいました。
新しい城なんて早々あるもんじゃないですねえ
Re:丸馬出様へ
素晴らしい行動力でございます。
努力の積み重ねはいつか大発見に繋がるという信念こそ肝要だと思っております。
小生は毎週の連戦で疲弊してしまい読書の秋となった週末ですが・・(笑)
楽しく拝見させて頂きましたw
古い投稿にコメして申し訳ありません。吉池淡路の子孫です。
山崎砦は一部で砦の東側に山秋と言う地域があり、そこに3つの突き出た尾根が特徴的な山秋砦も存在しました。その山秋砦の東には掘峠(地元の人間は隠語で「コリゲト」)と呼ばれる山崎砦背面に通ずる峠がありとても興味をそそります。是非行ってみて下さい!
Re: 淡路様へ
コメントありがとうございます。
やはり地元の方にお聞きしないと得られない情報も未だ多くあるんですね。最近は物知り(地域の伝承を知る)のお年寄りもめっきり減ってしまい、その土地に住んでいながら土地の歴史については全く知らない中高年の方も多くなりました。残念な事です。
小生の素人考えによれば、山崎と山秋の集落の往来は安坂川と永井川の合流で氾濫原となるため川沿いには通れず山の間道を利用していたように思います。いずれも北に向かえば一本松峠になるので、猿ケ馬場峠と共に川中島方面に抜ける重要な間道であったと思われます。この辺りが騒がしくなるのは、天正壬午の乱以降に上杉景勝と小笠原貞慶が麻績城・青柳城の争奪戦を繰り返すようになってからでしょうか。安坂城との関連も想定されるので、中々興味深い場所ではあります。
いずれまた時間があれば彷徨ってみたいと思います。貴重な情報ありがとうございました。
口城
おはよう御座います。
山崎砦の大野田城説、興味深々です。
先日、口城へ行きましたが、安坂城の如き石垣の多さ、そして約10m四方、高さ1.5〜2.0mの石積み壁は圧巻でした。古墳を破壊したようにも感じました。
背後には広い平場もあり、私は此処が大野田城だったのでは、と勝手に想像しております。
Re: 筑北衆様へ
お疲れ様です。返信コメントが遅くなりゴメンナサイ。
実は口城は「いつでもいけるからまあいいや」と例の御悪い癖で放置され調査訪問していません。宮坂氏の調査記録によれば、四方を石垣で囲まれた遺構は虚空蔵の祠跡でかつて社殿があった場所のようだとありました。林道経由で背後から訪問が可能なようなので、近々この目で確かめたいと思います。
大野田城は、大町にもあるようです。残念ながら前回訪問時は途中の林道が通行止めでその場所には行けていません。麻績城と千見城のどちらかに関わる築城のようなので、この辺に造られた可能性もあるわけで、解明が待たれます。まだまだ未発見の山城が多いので、是非探してみてください!
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