らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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村上氏時代の虚空蔵山城とその背景  

◆村上氏の東信濃進出の攻守の重要拠点◆

村上氏連珠砦群と云われる城郭群は以下である。

砥石城(本城・桝形・戸石)、柏山城、花小屋城、矢島城、牛伏城、荒城、飯綱城、持越城、虚空蔵山城、高津屋城、ケムリの城、物見城、燕城、和合城(14城)

虚空蔵山砦群⑥上田道と川の駅から見た東側の城砦群。(戸石城は見えない)

村上義清は葛尾城を本城としたという歴史書が多いのだが、小生は否定したい。

それは中世の城郭のほとんどが「居館+詰城がセット」という狭義な考え方から派生したものであろう。

葛尾城跡 039葛尾城背後の堀切と石積み。


実際に葛尾城(葛尾城・岩崎城・姫城)を訪れると分かるが、東北信に覇を唱え甲斐武田氏と同じ名門の清和源氏の嫡流である村上氏がそんなプアで古風な詰城を持つ訳が無い。

murakami (7)村上氏居館跡(坂城町坂城の満泉寺付近)

南北朝の争乱より国人土豪の盟主として君臨した村上氏は自らの城を持つのではなく、領地を接する場所に境目の城を築く事で本拠地の専守防衛システムをいち早く構築したのであろう。

筑摩郡に対しては荒砥城の山田氏、水内郡に対しては屋代城の屋代氏、室賀峠の抑えとしての三水城(狐落城)、小県郡との境として虚空蔵山砦群、松代街道と真田郷の抑えとして戸石城。

猪突猛進の田舎武舎というイメージが定着した村上義清であるが、山城を駆使したネットワークの構築ではその才能が凡庸では無かった事が立証されると思う。

証城 (39)荒砥城の尾根上の証城から村上氏の本拠地を囲む城砦群。

天文十一年(1542)から武田晴信の諏訪攻めから信濃侵攻が本格的となり、翌十二年には長窪城の大井貞隆が捕えられ小県郡の依田窪地域は武田の支配下となる。隣接する塩田庄を領有していた村上義清は急いで連珠砦群を完成させて武田との直接対決に備えたものと思われる。

長窪城② (55)晴信の小県郡攻略の前線基地となった長窪城。

天文十六年(1547)には佐久地方で最後まで抵抗していた志賀城、小田井城が落城。

天文十七年二月、両者は上田原にで合戦に及び武田は手痛い敗戦となったのはご存知の通りである。

kokuzou (22)虚空蔵山から見た古戦場。


この合戦において村上連珠砦群はかなり有効に働いたと見て間違いないだろう。

長窪城から砂原峠を越えて進軍してくる武田軍と部隊の配置は、虚空蔵山の各砦の物見から報告され、室賀峠を越えて決戦場に向かう村上軍に逐次伝令が走ったと思われる。

この合戦で武田軍が敗れると、村上義清は佐久へ進軍し武田の宿城であった内山城に放火。佐久衆は蜂起して前山城を奪還する。

maeyma (11)前山城の主郭と背後の堀切。


同年七月、武田晴信は服従していた諏訪西方衆の矢島氏、花岡氏が小笠原長時に寝返ったとの報で諏訪へ出陣し小笠原軍を塩尻峠の戦いで破る。
九月には佐久へ攻め入り前山城を攻め落とし、佐久郡の十三の城が自落したという。

天文十八年には佐久を完全に平定し、翌年の七月には府中に攻め入り小笠原長時を放逐し林城を破却し深志城を前進基地として修築する。

まさに阿修羅の如き働きで、宿敵村上氏との正面衝突を避け、背後に回る巧妙な包囲網を完成させつつあった。

砥石城跡 059東側より見る砥石城全景。

一方の村上義清は武田軍の脅威が去ると、北信濃の高梨氏へ攻め入り領土拡大を企てていた。

武田晴信は、鬼の居ぬ間に砥石城を攻めるが城将山田国政(荒砥城主)の屈強な抵抗に攻めあぐねて手間取っていると、村上義清が砥石城の危急を知り全軍を率いて戻ってくる事を知らされる。

慌てて退却しようとするが、城よりの追撃軍により壊滅的な打撃を受け、ほうほうのていで諏訪に逃げ帰った。

世に言う「砥石崩れ」である。

この時も連珠砦群が重要な働きをしたものと思われる。

砥石城跡 050

村上領の東端に位置し、松代街道と真田郷を抑えた砥石城は村上義清にとっても生命線であった。

筑摩を手に入れた晴信にも奢りがあっただろうが、それ以上に武田軍を二度に渡って退けた村上義清は得意満面であったろう。

義清は十一月に小諸や佐久の桜井山城(稲荷山城)を攻めて気勢をあげている。

katumasori001 (36)勝間城(稲荷山城)

翌天正二十年五月、晴信配下の真田幸隆が奇策をもって砥石城を奪取し彼の旧領であった真田郷を取り戻すと、状況は一変してしまう。

連珠砦群も東半分は機能を失ったと思われる。

砥石城が手に入れば、境目の城の虚空蔵山は無理に攻める必要など無い。

川中島への出口である更科郡の荒砥城・屋代城、室賀峠を抑える狐落城(三水城)を確保すれば葛尾城に籠っても逃げ道は無くなる。

tumikusa (3)

荒砥城遠景㋐

天文二十二年(1553)、着々と村上包囲網を敷いた武田晴信は、室賀、屋代、塩崎氏を調略により内通させる。
これにより筑摩方面からの攻撃が可能となり、四月に村上氏側より武田氏に寝返った大須賀氏と共に狐落城を急襲。

城将の小島兄弟は討死し狐落城は落城、村上方の拠点は葛尾城と虚空蔵山城のみとなった。

狐落城③ 017

それぞれの境目の城あってこその村上軍であり、後詰め無き葛尾城への籠城など全滅を意味する。

村上義清は越後の長尾景虎を頼って落ち延びた。

葛尾城も虚空蔵山城もこの時自落したと伝わる。

虚空蔵山遠景①

もはや利用価値など無くなったはずの虚空蔵山の連珠砦が再び脚光を浴びたのはそれから30年後、そう、天正十年に勃発した世に言う「天正壬午の乱」であった・・・。

詳細は次号へ。







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Posted on 2012/11/30 Fri. 21:49 [edit]

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コメント

現場100回

現地を見ている貴殿だから、文章に説得力があるんでしょうね。
こういうことを現地も見ないで平気で書く奴もいるんですねえ・・
だから、第4次川中島合戦の武田軍による妻女山迂回攻撃などある訳がない!

お説のとおり、戦国時代の合戦は、策略を駆使した城取り合戦、陣取り合戦だったことが理解できます。派手な激突はごく稀なことだったんでしょう。

あおれんじゃあ #- | URL | 2012/12/02 19:58 * edit *

いたかったでしょうね

記事から察するに
砥石城と防衛網の一角を担っていた室賀さんの離反
は村上さんにとっては痛かったようですねえ

丸馬出 #- | URL | 2012/12/02 20:41 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

コメントありがとうございます。

現場に立たなければ見えない風景がありますよね。
ここを抑えたら次はあそこ・・・詰め将棋のようなものでしょうか。
空手形を乱発して云う事を聞かなければ軍勢を率いて恫喝を行う(汗)

川中島を巡る仁義無き戦いなど、田畑を荒らす悪い奴らの縄張り争いであり地元のお百姓さんにとっては迷惑千万な事。そんな「いくさ話」など話題にもならず伝える事すら憚ったのだと思われます(笑)

らんまる #- | URL | 2012/12/03 07:14 * edit *

Re:丸馬出様へ

コメントありがとうございます。

下部組織の離反ならともかく、中堅幹部の造反は死活問題です。
たび重なる転戦に褒美や恩賞も貰えないトップに対する不満が村上軍崩壊の根本的要因だったように思います。
現代社会にも通じる話ですね(笑)

らんまる #- | URL | 2012/12/03 07:19 * edit *

なぞ

コメントありがとうございます。
ところで、村上さんが佐久の大井宗家を討ち果たした時は
どの街道を通ったと思われます?。 というのも、
滋野三家さんと村上さんは仲が悪いイメージがあるので
村上さんは滋野三家の領地を避けて通ったとすると、
どの街道を通ったのかと興味がつきないんですよね(笑
(その時は仲がよかったのでしょうか?)

丸馬出 #- | URL | 2012/12/03 16:18 * edit *

Re:丸馬出様へ

連コメありがとうございます。

オーソドックスに考えれば村上居館⇒塩田庄⇒砂原峠⇒藤原田⇒八重原台地⇒王城でしょう。
(藤原田からは古道が通じていました)
現在の国道142号線で望月経由というのは無理でしょう。
隠密行動で急襲するという軍事行動では最短且つバレる危険性の無いルートでイチオシですね(笑)
依田さんには大井氏滅亡後の本領安堵を確約しておけば領内通過など容易かったと思われます。
その後、依田さんが村上に従属したのは言うまでもありません。

らんまる #- | URL | 2012/12/03 20:20 * edit *

なつとくで!

地域を熟知した村上氏の捉え、説得力がありますね。2~3郡を支配地におく国衆においては、境目の城の重要性は計り知れなかったと思います。巧妙な武田の戦略に敗れはしたとしても、村上義清の評価は低すぎますね。敗れしものの悲哀ですが、今川義元や武田勝頼なども義清同様再評価すべきでしょう。

おあれんじゃ殿の妻女山迂回攻撃はないとのご意見、私も同感です。松代方面から見た鞍骨城に到る尾根を見れば、そんなことはあり得ないと思うのが普通名のではと・・・。

馬念 #xyVealqw | URL | 2012/12/06 14:38 * edit *

岡城についての妄想

連コメですいません。らんまる様の記事を拝見してから
岡城は北信計略の前進基地なのかなあと妄想しています。
といいますのも、

岡城    拠点城郭(根城)
岡城出城 物見(室賀方面の監視)では?
浦野城   やぶさめ場を利用した駐屯地では?
黒丸城   岡城の後退陣地(詰城)では?
 
が密集して残っているからです。
時間が出来たらセットで攻城してみたいお城ですねえ

丸馬出 #- | URL | 2012/12/06 16:34 * edit *

Re:馬念様へ

村上さん、信州に覇を唱えた武将としては小笠原さんよりも秀でています。
猪武者的な言われ方はとても残念でなりません。彼の直筆の文書は三通しか現存しないらしいです。
その事実を逆手に取って彼が蛮勇であるか如く書かれた史料を見ると残念でなりません。
武田支配下となった信濃では、意図的に破棄されたと見るべきでしょう。どこかで発見されれば汚名挽回になるだろうと思っています。

妻女山の件、全く同感ですね。キツツキ戦法がデフォルメ化された副産物でしょう。現地を見る限りあり得ない戦術です。往時の川中島という地域の解釈は地名ではなく、北信濃を指したのだという史料があり妙に納得しました。各地で起きた小競り合いを総称して「川中島の戦い」と呼ぶのが妥当なようですね(笑)

らんまる #- | URL | 2012/12/06 19:31 * edit *

Re:丸馬出様へ

コメントありがとうございます。

ご推察最もかとも存じます。
佐久平定後、大門峠越えの攻略は長窪城を起点として塩田城⇒岡城ラインが基軸だったと思いますが、村上軍の脅威が去った後は上原城⇒高嶋城⇒深志城を経由する筑摩郡経由での川中島四郡への動員がメインになったと思われます。牧野島城もその一翼を担ったのでしょう。
岡城の使命も短命で終わったと思われ青柳・麻績ラインでの猿ヶ馬場峠、迂回する経路で大岡口⇒牧野島城での兵站確保が主流になったと思います。

そうは言っても青木村の黒丸城、西条・東条も修那羅峠や青木峠を越えた東筑摩郡への備えとして拡充され、坂城町の出浦城も大林山方面への備えを厳重にしています。
それは謙信が筑摩郡の青柳や麻績を奪取するかもしれないという想定に対する備えだったと見るべきかと思います。

小県郡や佐久口からの遠征を躊躇したのは、再び佐久衆が叛く事に対しての警戒だったように思います。

らんまる #- | URL | 2012/12/06 20:49 * edit *

気がついたのですが

>原城⇒高嶋城⇒深志城を経由する筑摩郡経由での川中島四郡への動員がメインになったと思われます。牧野島城もその一翼を担ったのでしょう。

こちらのコメントで気がついたのですが
牧野島城→海津城→長沼城と武田さんの根城(拠点城郭)は
犀川と千曲川で結ばれていますね。
(何でいままで気がつかなかったのかなあ)
ということは、やはり
深志から水運で補給をおこなっていた様子が伺えますねえ

丸馬出 #- | URL | 2012/12/07 11:49 * edit *

Re:丸馬出様へ

コメントありがとうございます。

信州の戦国時代といえば陸路(古道)の遠征と出兵という既往概念になりがちですが、千曲川や犀川が江戸時代には水運業として利用された経緯を見れば、往時も何らかしかの輸送手段があったと見て良いと思います。
その謎が解けると信州における戦の固定概念が画期的に変わるように思うのですが・・・。

らんまる #- | URL | 2012/12/07 21:43 * edit *
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