らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0526

仙当城 (下水内郡栄村堺)  

◆信越国境に眠る謎の巨大要塞◆

ブログのアクセスカウンターが100,000を超えました・・・(汗)

皆さま、ご来城頂き感謝・感謝でございますw この場を借りて深く御礼申し上げます。

一生懸命書いているのですが、睡魔に連戦連敗で「週一アップかい!」の状態が改善できません・・・(涙)

で、「10万アクセス記念祭り!」でご案内するのは「仙当城」(せっとじょう せつとじょう せんとうじょう)

仙当城 (2)登城口。月岡仙当城保存会の皆さんに感謝です。

風の噂によると中世の城郭オタク推奨の山城で、ここに詣で無ければ信州の山城は語れないらしい・・(嘘です)

知ってはいたが、機会に恵まれなかったので今回2013年前半の攻城戦のラストに選んでみた。

「小生にも語らせてちょーだい!!」(笑)

せっかくなので、信濃先方衆の「ていぴす」殿との連合軍で攻め上がってみたゾ。

仙当城 (6)大手道途中から見る二の入沢の渓谷と県境の牧峠方面。

城域まですぐに辿り着きそうな大手道だったが、20分もかかった。

そう簡単には見せて貰えないらしい・・・・(爆)

しかも既に藪で覆われているではないか。北信濃の春がこんなに早かったとは・・・・

仙当城 (9)出城というより物見程度の郭と堀切。

長野県町村誌の堺村(合併前の村)には以下の記載があるだけで、城主・城歴とも史料が全く無い。

【仙當城墟】

本村西方にあり。東西十六間、南北四十間、平地なり。今官林となる。残礎なし。土俗の傳に永禄天正年間、市川駿河守定顕築之。市川氏は上杉輝虎の幕下なり。慶長三年上杉景勝奥州會津に移り廃城となる。

仙当城見取図①※縄張図は「図解山城探訪第十一集 水内資料編 宮坂武男著」を参照しています

この城を語るには「市河文書」の存在で著名な市河氏について「おさらい」しなければなるまい。

【市河氏】

甲斐国市河荘出身で鎌倉時代に信濃国志久見郷(現在の栄村)に所領を得た。南北朝時代は守護小笠原氏とともに各地を転戦し幕府からも絶大な信任を得ている。志久見郷は越後国との境として重要な口であった。
しかし大塔合戦(1400年)で守護方として参戦し惨敗すると、一時的に市河氏に関する記録が途絶える。
越後と境を接していたため、越後の守護上杉氏や長尾氏、関東管領の上杉氏との争いに巻き込まれていたようで再び登場してくる。
戦国時代には、信濃に侵攻してきた武田晴信にいち早く誼を通じ配下となる。これは領地を接していた高梨氏と敵対関係にあった為と推測されている。
甲越戦争が勃発すると市河氏の領地は最前線となった。景虎の侵攻により一時は志久見や居館のある箕作から避難し野沢温泉あたりまで撤退したというが、その後の武田勢の攻勢により旧領を回復したという。その際に市河信房は国境の様子を逐次甲府へ伝えるように命じられている。
信玄亡き後は勝頼に仕え、武田滅亡後は信長配下の森長可に従い、天正壬午の乱が勃発すると占拠していた飯山城を景勝に明け渡し家臣になった。
明治維新後、市河氏は北海道へ移住。旧蔵文書は酒田市本間美術館と釧路市板井家に所蔵されている。

仙当城 (18)堀切㋑。藪が酷過ぎで写真最悪ですぅ

とまあ、ツラツラと市河氏の履歴をざーっと書いてしまいました(笑)

戦国時代に入り、市河氏は居館を志久見から箕作(みつくり)に移し、西側の善光寺からの街道の入り口に白鳥城、居館背後の西の山に城坂城(じょうさかじょう)を築き、詰めの城として仙当城を築城したという。
最初の仙当城は防御を西~南に向けて敵対する高梨氏へ備えた作りだったが、武田配下時代に北へ向けた大規模な改修が為されたと見るべきであろうか?

箕作周辺図

「鉄道を取っ払わないと明治時代以前の古道は見えない・・」

恐らく「野沢のゆ」から「堺村」への千曲川沿いの直通路など無かったはずで、現在の県道407号線~502号線と派生する県道408号線が主要道だった可能性が高いと見たい。

そういう視点で地図を見ると城坂城も仙当城も市河氏の居館のあった箕作を申し分なくガードしているのだ。

さて、雑談はそのくらいにして先を急ごう。

仙当城 (21)ここから本格的な城域を目にすることになる。

縄張図を見てもお分かり頂けると思うが、北の出城を突破した攻城軍は痩せ尾根を辿るしかないので、郭4からの攻撃に晒される。運よく郭4を制圧したとしても進退極まるのである。

そう、この先は鉄壁の防御システムで先へ進むことなど不可能に近い。

仙当城 (24)郭4。

仙当城 (38)郭4を遮蔽する半円形の堀㋘(南の犬走りから見下ろす)

城域の西側を深く遮断する巨大な堀切㋓に強制移動させられた我々が見た風景とは・・

仙当城 (30)

「こりゃーデカイなあー、相当な土木工事だよねえ~」

「そういえば、そそり立つような切岸の処理や堀のデカさは大島城ソックリ!!」

下に大島城と仙当城の比較写真を掲載してみた。同じ場所と見間違えるくらい処理が酷似している(汗)

大島城 (58)※この写真は大島城の堀と切岸。

仙当城 (32)※この写真は仙当城の堀㋓と切岸。

上杉さんが手を入れたとしても、間違いなく武田さんちのお城でしょう。

こんな大工事は市河さん単独で出来るはずもなく、俗に言う「大勢力の為せる所為」(笑)

仙当城 (41)巨大な三連竪掘㋝を下りていく「ていぴす」さん。

仙当城 (49)郭1から見た竪掘㋝と土橋。

堀の頭を削り残して土橋(連絡路)にする方法も大島城に良く似ている。

大島城が籠城戦を前提とした「後ろ堅固の王道」なら、仙当城は短期決戦を前提とした「迎撃型の進化系」だろうか。

【二重堀切㋗】

箱掘りの二重堀切は巾35mで圧巻だ。御代田町の小田井城大手口のW底の堀切を思い出した。

仙当城 (98)巨大な二重堀切㋗と郭3への土橋。(郭1から撮影)

仙当城 (106)堀切㋗から土橋を撮影。

仙当城 (99)まるで東の斜面の天然の沢のようだ。


【主郭周辺】

短期決戦用と思ったのは、郭が少なくどれも手狭で兵員の収容能力が低いと感じたためだが、郭1の防御力は凄い。

巨大な二重堀切、三連の竪掘、東斜面の畝状の竪掘、北東尾根の落差のある大堀切。

「さあ、落とせるものなら、落としてもらいましょうか」(笑)

仙当城 (54)郭1。周囲を低い土塁が囲んでいて南側は石積みだったようだ。

仙当城 (67)北東の尾根から東へ回り込む形の郭2。

郭2の周囲が結構面白い。

仙当城 (71)堀底から竪掘㋙を見上げる(郭2方面)

仙当城 (73)畝状の堀切㋚。酷い落書きだが雰囲気としてこんな感じ(汗)

仙当城 (82)北の斜面に落ちる竪掘㋜。調査に向かった「ていぴす様」は落差のあまりしばらく戻って来れなかった・・(笑)

仙当城 (84)郭2と郭1はこんな位置関係。

ここから先は藪が酷くなる。写真撮るなら4月上旬までが限界かもしれない。

仙当城 (93)落差の厳しい大堀切㋛。下りたのはイイが登れなくて困った(汗)

仙当城 (89)堀切の先の尾根は段郭で処理されている。

仙当城 (92)堀切㋛から見た城域の北斜面。トラップの連続で斜面を迂回しての攻撃も無理だ。


【郭3と周辺の防御システム】

さて、搦め手方面(南側)の主郭ともいうべき郭3とその周辺を見てみよう。

言葉よりも写真がいいかもしれない・・・(汗)

仙当城 (114)噂によると標柱にクーさんがサンドバックにした跡が残っているというが、都市伝説(村伝説?)になっているようだ(笑)

郭3は、郭1よりも若干高い位置にあるので、ここが主郭とする意見もある。搦め手側の防御が堀切㋔と㋕(といってももとは一本の堀)と弱いので、やはり鉄壁の防御を持つ郭1だと思う。

仙当城 (108)郭3には地震の際に出来たと思われる地割れが走り衝撃の大きさを物語っていた。

仙当城 (136)搦め手方面から見た堀切㋕と㋖

仙当城 (137)㋕の堀底に立つていぴすさん。堀の巨大さがお分かりいただけるであろうか?

仙当城 (131)堀切㋖。デカイ堀切ばかり見ているとこれが普通サイズに思えてくる・・(怖っ)

搦め手方面は削平されているが、郭だったとは確証が持てないし防御施設は何も無い。

仙当城 (133)この先には何もない。

仙当城 (141)搦め手方面の東側には竪掘㋖と並行するアレがある。

【長大な竪掘㋓はfどこまで続くのか?】

という素朴な疑問と、郭4にある堀切㋒は接続しているらしいので竪掘㋓を歩いて下る事にした(笑)

仙当城 (142)旧馬道との分岐から北へ続く。

仙当城 (143)更に続く。

仙当城 (144)崖の手前まで続く。丁寧な仕事ですw

仙当城 (146)何と崖をチョッと下るところまで延長している・・(汗)

肝心の堀切㋒はヤブだらけで写真撮っても意味不明・・。


【究明が待たれる国境の巨大要塞】

こんな辺境の地に(栄村の皆さんスミマセン)、こんな巨大な要塞があっていいものだろうか。

大岡城がミニチュア模型で後世の物好きな奴らが冗談で作ったと噂されるように、仙当城は巨大要塞の好きな奴らがブルドーザー持ち込んでこっそり作って楽しんでいたとしか思えない。

そう、この城こそ我々男子が好きな「秘密基地」である。チョッとデカイが・・・・・・・(爆)

仙当城 (59)山城用とは思えない二重堀切。


武田さん、飯山城を2回ほど総攻撃しているんで、ドサクサに紛れて短期間で大動員の号令をかけてイッキに築城したんでしょうね。

で、一時期上杉さんが接収したが、その後使われる事は無かった。

造作物は立派で超ハイメカ満載なんだけど、立地条件悪すぎかしら・・??

仙当城に関する史料がどこかから出てくるといいんですが。


≪仙当城≫ (せっとじょう せつとじょう せんとうじょう)

標高:455m 比高160m 
築城年代:不明
築城・居住者:市河氏? 大勢力?
場所:下水内郡栄村堺(月岡)
攻城日:2013年5月19日 
お勧め度:★★★★★ (満点だあー)
城跡までの所要時間:月岡集落から徒歩20分
見どころ:全部
付近の城跡:城坂城、白鳥城 ※藪だらけなので覚悟が必要
注意事項:全部見たいなら晩秋か春先がベスト。クーさん出撃情報に注意
参考文献:「図解山城探訪 第十一集 水内資料編 宮坂武男著」
     「平成十九年度秋季企画展 武田・上杉・信濃武士」(長野県立図書館)

仙当城 (150)登り口から見た遠景。






















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Posted on 2013/05/26 Sun. 14:25 [edit]

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コメント

謎の要塞ですよね!

らんまるさん お邪魔します。

 仙当城は、何故この様な辺境に地に、これだけの土木工事を費やして・・・
 という謎の城ですよね。

 私は、自分のブログでも感想をお伝えしていますが、荒戸城や琵琶懸城と
の縄張りの類似性から、上杉の手がかかっていると感じています。

 謎と言えば市川氏は謎ですね!

 信玄と謙信の時代には、信玄の勢力が遠く及ばない段階で、信玄に与して
いますし、謙信が市川氏をこれでもかと孤立させても、滅んでいません。

 市川氏は二又をかけていたのでは? 相模の津久井城の内藤氏のように!

武蔵の五遁 #- | URL | 2013/05/26 20:35 * edit *

すんばらしいねえ

ここはまだ未登峰です。
クーさんの噂が絶えず、俺、クーさんに妙に好かれているみたいでして。
写真からも凄さが伝わります。
こんな山にこれほどのものが、まさに戦国時代はダイナミックです。
あの地震による被害、幸いにもそれほどではない感じですね。

あおれんじゃあ #- | URL | 2013/05/26 21:19 * edit *

Re:武蔵の五遁様へ

仰せの通り信越国境に楔を打ち込むような意図のある強烈な山城でございました(汗)
飯山城を回避して中野~野沢温泉~箕作(栄村)の軍用道路を作る計画でもあったような場所の出口だとしたら合点のゆく場所ですね。

確かに謙信公は市河氏への攻撃は手を抜いているような節が感じられますし、市河氏も志久見郷や箕作館、城坂城もあっさりと引き払っています。
貴殿の考察されるように二大勢力間を上手く生き抜いた感じです。
武田氏滅亡後はすぐに森長可に従い、本能寺の変では景勝にいち早く付く変わり身の早さがそれを物語っています。

それにしても謎の大城です。大事に後世に残したいものです。

らんまる #- | URL | 2013/05/27 06:59 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

過去に訪れた方たちは搦め手経由みたいでしたね。最近大手道が整備されたみたいでありがたい事です。

クーさんの運動場にしてはデカ過ぎで、100頭集まってもきっと子熊の集団にしか見えないと思います(笑)
全体の初見は武田系に見えましたが、上杉系も入っているとか。
いずれにしても二大勢力が係わっている謎の大城です。
これだけの大プロジェクトであれば、緘口令が敷かれ口伝もご法度だったのかもしれません。

大地震による亀裂が所々見られましたが大事には至らなかったようです。
後世に伝えたい貴重な遺構です。

らんまる #- | URL | 2013/05/27 07:09 * edit *

行かれましたか!

信濃の山城の中でもピカイチの山城と思っています中世城郭オタクですがね。
少し藪っているようですが、堀等よく分かる写真ですね。しかし、あの竪堀や空堀の巨大さがどうしても写真では表せないのが残念でしたかたがないです。

小生、都合3回訪城していますが、大手道を地元の方々のご努力で整備されたのがよかったと思います。ただ、クーさん痕跡がいたるところに見受けられますから、一人での訪城はやめた方がいいようですね。と言いながら、最初の訪城は搦め手からの単独で・・・・。

この巨大で結構技巧的な仙当城をだれが築城したのかで、市河氏の単独の仕業とは到底思えませんので、武田か上杉辺りのものかとは思います。で、どちらかというと永禄年間前後の地域の情勢からすると上杉辺りが妥当なのではないかと思っています。
城坂城は、永禄7年9月の第五次川中島の対陣ののち、飯山城の改修とともに市川に築かれた新塁のようです。文書がありますね。

また、市河氏については以前ちっと調べましたので、お時間がありましたらご覧くだされ。
http://blogs.yahoo.co.jp/siro04132001/23439700.html

馬念 #fU/Y6t3o | URL | 2013/05/28 16:29 * edit *

Re:馬念様へ

馬念様が念仏のように唱えておられる仙当城へは信濃先方衆の意地として行かねばならぬと決めておりました(笑)
信越国境で現在では大して要衝の地とも思われない沢の奥にバリバリ現役の状態を保った要塞があるとはお釈迦様もビックリでしょうか・・小生も「タマゲタ」という感じです(汗)
長大な堀と異様な高さの切岸を目にしたとき、何故か「大島城」が真っ先に思い浮かびました。
家に帰ってから調べると去年撮影した大島城の写真とソックリな構図の場所が確かにありました。きっと記憶が蘇ったのでしょう。

思うに市河さんは信玄に特に目を掛けて貰い別格の待遇だったと思われます。謙信と境を接する最前線にあり、高梨氏の所領を飛び越えた「飛び地」で川中島合戦が起きる前の天文二十年にその決心が出来るとは尋常ではないし何か密約でもあったのでしょうか?戦国時代を乗り切った市河氏はご多聞に漏れず謎が多過ぎかと・・(笑)

北信濃でW底の二重堀切を備えているのは長野市信更の和田城、幅広の堀切の組み合わせ方法では大峰城の隣の枡形城と類似。あおれんじゃあさんが信更で新山城を探し当てたようで、こちらは和田城のアップグレード版らしくて詳細は未確認。現地調査した藪だらけの城坂城の変則的な堀切は仙当城の搦め手方面と造りが酷似してます。
飯山城周辺は山口城以外は未調査なのでなんとも言えませんが、案外山口城の小城に上杉改修のヒントがありそうですね。山口城は藪が酷くて本城とお屋敷以外は断念したので晩秋に再度調査したいと思ってます。

北信濃・・それも特に信越国境に近い地域の山城はまだまだ謎が解明されておりません。
雪に閉ざされ真相を解明できる調査期間も極めて短いのが難点ですね(汗)

らんまる #- | URL | 2013/05/28 21:07 * edit *

おねでとうございます

お疲れ様でございます。
10万アクセスおめでとうございます。
信州の城跡の伝道師として宮坂神に近づいているのでしょうが、本当の神に近づかないように気を付けて下さい(笑)
仙当城は本当に素晴らしく技巧的な城跡でしたね。
確かに大島城の堀の規模や直線的に伸ばす感じは仙当城に似ていますね。。。。。
武田氏についた市川氏の領地に対上杉氏攻略兼防御用の戦略拠点として武田氏が築造しその後の支配領域の変化によって上杉氏の改修が入ったと云うところでしょうか。
また、景勝の会津移封に伴って廃城になったということは、武田氏滅亡後の織田氏による越後侵入時にはどのような役割をしたのかも気になりますが。。。。。

ていぴす #- | URL | 2013/05/29 21:58 * edit *

Re:ていぴす様へ

これはこれは、信濃先方衆のクーさん遊撃部隊のていぴす殿、ご祝辞かたじけのうござりまする(笑)
宮坂教の狂信徒呼ばわりされているので、ぺニオク芸人のレッテルを張られた○森さんの気持ちが良く分かりますネ。

仙当城の縄張と施工は誰なのか?というのが永遠のテーマのようです。
千曲川右岸の上高井郡と下高井郡が晴信の勢力下で、左岸の飯山城周辺の水内郡が謙信の勢力範疇だとすれば仙当城は武田方の手が入ったと見れるのですが、「上野原の戦い」の場所が特定されないので推測の域を出ません。
上杉方の琵琶懸城との類似も指摘されるものの、全体的な感じは武田系かと思います。
それにしても巨大過ぎます。
別荘地型の巨大要塞としての実験施設だったのでしょうか・・(汗)

らんまる #- | URL | 2013/05/29 23:48 * edit *

上杉景勝、直江兼続公生誕の地、新潟県六日町坂戸城(500年前は上田城)から長尾政景(景勝の親)の姉が志久見の市川家に嫁いでいます。(記録あり)

上杉謙信の姉(長尾政景の妻)政景の死後「仙当院、仙桃院、仙洞院」となり
米沢の常慶院で余生を過ごした。何故仙当院は常慶院なのか、どうして常慶院
から長尾政景、仙当院の書物が出て来たのか謎である。
上杉景虎の子(どうまん丸)、仙当院の孫を箕作の常慶院にかくまったのか。何故常慶院なのか謎である。
どうまん丸の子孫は新潟県津南町に於いて、箕作の月岡地名をとり月岡の性で過ごし、その子孫は現在は関西で過ごしている。
上田史談会の研究では上田長尾氏(上田五十騎)は志久見から野田沢、仙当城の上部の平地に「せっと」地名の集落から野沢へ、そして飯山城に行ったようだ。
上杉18代の血筋は仙当院を母として現在に続く、今年は景勝誕生450年祭を
南魚沼市では上杉様を招き盛大に執り行う予定です。

#- | URL | 2014/04/03 20:02 * edit *

Re: タイトルなし

ご教示ありがとうございます。

市河氏に関する本も読んだりしましたが、あれほど多くの貴重な文書が残されているにも関わらず、市河氏そのものの動向は深いベールに包まれたままで、謎の一族です。
そうでしたか、仙桃院は仙当院とも呼ばれていたのですか。
市河氏が居館を志久見郷から箕作の常慶院に移し、甲越合戦が佳境になると野沢温泉村まで後退していますが、当時の古道がイマイチ不明で仙当城が何故にあの場所なのか?箕作を守るように城坂城が置かれているが上杉の普請なのか?

信越国境の由緒正しき市河家。大塔合戦で守護や幕府に反逆しまくった信濃豪族が多い中で、唯一中央政権に従順だった市河家に上杉も武田も一目置いていたのは事実だったんでしょうね。
コメントありがとうございました。

らんまる #- | URL | 2014/04/04 21:14 * edit *
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