らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0805

楯六郎親忠の舘 (南佐久郡佐久穂町海瀬)  

◆木曾義仲の四天王の一人といわれ屋敷跡にもその名を残す佐久の荒武者◆

武将の名を冠した居館跡がそのまま後世まで語り継がれるのは極めて珍しいと思う。

木曾義仲に仕えた四天王で、根井幸親(行親とも)とその子の楯六郎親忠(たてろくろうちかただ)の親子は、その名を冠した屋敷跡が後世にキチンと伝えられた例であり、いずれも佐久にある。
(県史跡の根井氏居館は前回述べたとおり裏付け根拠が怪しいが、道本城とセットで考慮するべきであろう)

今回ご紹介するのは2年前に取材しながらデットストックになってボツにした「楯六郎親忠の舘」。

再訪問したのは良いのだが、到着した途端に凄い雷とゲリラ豪雨の洗礼。真面目にやれって事らしい・・(汗)

楯六郎2 (13)居館の手前には月見石がある。(文字の彫られた石版では無く上部が平らな石を指す)

北相木村との境にある茂来山の北西の支脈が抜井川に削られた河岸段丘の上に居館跡がある。

集落名は「館(たて)」。元々の地名らしく、根井行親の六男親忠がこの地に居を構えて館氏を名乗ったという。居館を意味する「館(たて)」とたまたま一致したようだ。

館⇒楯にしたのは字を変えただけらしいが、武勇に見合う名字としたのは「流石の猿飛び」で凡人では考えも及ばない領域であろうか。

楯六郎2 (1)えっ?しつこい?この石は単にお月見石ではないのだ。

実はこの「月見石」、楯六郎親忠が毎年旧暦一月十五日早朝に月見石から西方にある添田神社のご神木に入る月を見てその年の陽気を占ったという伝承が残っている。

以下、のこ居館跡については「定本佐久の城」(1997年 郷土出版社)の島田恵子氏の記事を引用掲載し、写真を織り交ぜて解説としたい。

楯六郎親忠の館見取図①

絵被暗示台後期、根井氏は館の地に私牧を経営し、郡場を飼育するために、その子親忠に館を建て、その任にあたらせた。茂来山麓の牧沢は広く、馬の飼育には最適地であった。(中略)

やがて治承五年(1181)木曽義仲が平家討伐の旗揚げをした横田河原の合戦には、根井小弥太・楯六郎親忠は親子そろって馳せ参じ、以後義仲の四天王のひとりとして義仲を援け、戦いに臨めばいつも先頭に立って勇敢に闘った。
特に越前水津の戦いでは、根井行親が先陣となって活躍した。

楯六郎2 (3)月見石から居館方面(道路が極端に狭くなる場所から北側が城館跡)

義仲軍が最も勢いづいたのはなんといっても倶利伽羅の戦いであった。寿永二年(1183)五月、平家の大軍十万余騎を倶利伽羅の谷底に追い落としてしまったのである。

義仲軍はこれを契機に京都へ攻め入ったが、一足先に平家の軍を追って備中国に赴いた海野幸広・矢田義清(大崖城主)は水島の戦で戦死してしまった。

※矢田義清が城主だった大崖城の詳細は、北緯37度付近の中世城郭を参照願います。(取材しましたが藪だらけでアップも面倒?笑)

楯六郎2 (4)推定二重堀(現在は何の痕跡も無い)の北側に祀られる稲荷神社。

その後、木曾義仲は敗北の道を辿る事となり、根井行親・楯と苦労親忠も京都で討死してしまうのである。

これらの闘いの物語は、「源平盛衰記」「平家物語」に登場する。楯六郎親忠・矢田義清が私牧を経営し、館や大日方で飼育した軍馬がこれらの闘いで活躍した事を思うと、歴史へのロマンがかきたてられる。

楯六郎2 (14)主郭(郭1)の北側の二重堀跡。水田の開発により遺構は消滅した。

楯六郎2 (10)東側からみた主郭。2年前には無かった新築住宅が出現した。

昭和六十年に実施した発掘調査では、野馬除けの堀跡、繋飼場(牧場)跡からは、調教用の簡素な「はみ」(馬のクツワ)が出た。これによって今まで伝承とされていた牧場の一部が、現実の姿となって私たちの目前によみがえったのである。

楯六郎2 (8)性格が捻じれているのでどうしても斜めに拘りたかった・・(笑)標柱の東側は郭2。

楯六郎2 (18)

楯六郎2 (21)この切岸は往時のものを利用したのであろうか?(後ろの山は勝見城)

また、これら牧場で働いた人々が生活に使った土師器坏(はじきつき)・須恵器甕などが、添田地区からまとまって出土している。

館の集落全体が縄文中期後半から後晩期、弥生時代黎明期、平安時代の遺跡である。館集落はこうした文化の発祥地として注目されてきた。

(以上、定本佐久の城より引用)

楯六郎2 (23)城域の東端。

義仲が突破口を開き、天才的な戦略家であった義経の渾身の努力を褒めちぎり、真打として登場した頼朝。

頼朝ばかりが悪口を言われるが、義仲も義経も「いくさ馬鹿」で文武官のブレーンがいなかったのが致命傷になったようである。

しかしながら、佐久の武士と佐久で育てられた駒が武家政権樹立に深く関わった事は、消える事の無い真実であり、信濃の誇りでもある。


≪楯六郎親忠の舘≫ (たてろくろうちかただのやかた 館)

標高:827.0m 比高:40m (抜井川より)
築城年代:平安時代末期
築城・居住者:楯六郎親忠
場所:南佐久郡佐久穂町海瀬
攻城日:2013年7月28日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:路上駐車
見どころ:標柱、月見石、番屋跡、月見公園
注意事項:特に無し
参考文献:「定本 佐久の城」(1997年 郷土出版社)
付近の城址:大崖城、勝見城など

楯六郎2 (27)抜井川の河岸段丘を利用した崖淵城であることが分かる。(東側より撮影)









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Posted on 2013/08/05 Mon. 22:10 [edit]

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コメント

よく記事に・・

ほとんど何もないこの館で1つの記事にするのもたいしたもんです。
俺なぞ、ONE OF THEM でごまかしちゃったけど。

この付近、義仲に係る伝説が多いですが、上野からこのルートで逃れたのは事実なんでしょうねえ。
ここには牧場が広がり、その牧場主たちの軍団が、一時でも日本を制覇したんですね。
あののどかな谷間からは想像もできないことです。

あおれんじゃあ #- | URL | 2013/08/06 21:32 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

師匠、さすが信濃の歴史には造詣が深い・・(汗)

十石峠(通称;武州街道)は、駒王丸の逃避行の街道であったろうと推察され、父親の義賢が上野多胡庄を領有していた事から比較的安全に逃げられたのではないか?というのが定説になりつつあります。

明治の秩父事件も十石峠がキーになっていて、佐久の人々にとっては佐久米の重要な拠出先の上野村は平安末期からの交易先として昭和初期まで大切な取引先だったようです。

義仲が大河ドラマになる事は万が一にも無いとしても、彼の功績はもっと評価されるべきだと思っています。

らんまる #- | URL | 2013/08/06 22:13 * edit *
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