らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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二俣城 (静岡県浜松市天竜区二俣町)  

◆徳川・武田が執念を燃やし続けた怨恨の城◆

有名どころの城を信濃の山猿風情が知ったかぶりで記述するのも如何なものかと思うが、田舎モンが見た憧れの二俣城の感想も気になるでしょう・・(笑)

高天神城も、二俣城も、そして長篠城も、武田VS徳川が死闘を繰り広げて争奪を繰り返した戦略上の重要拠点。

信玄公の西上作戦で最初の標的になったのは二俣城。ここに匕首を突き付ければ家康は死んだも同然だった。

二俣城 (1)まあ、日本でも有名な城跡なんで迷う事はありません(笑)

全く関係無いのだが、この日の午前中はお腹の調子が絶好調で「下り龍状態」であった・・(汗)

甲越戦争を「越後の龍、甲斐の虎」と称したものだが、二俣城の攻防は徳川VS武田なので、徳川はきっと「下り龍」だったのだろう。

横須賀城⇒小笠山砦⇒二俣城・・・・この日の午前中の行軍過程では、常に緩いお腹の調子を伺いながらトイレタイムの地獄であった・・・(笑)

二俣城 (2)櫓台の野面積みの石垣。その昔は石垣フェチだったのでつい「魅せられて」しまったが・・(汗)

【立地】

二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地であった。加えて、北にある信濃側から見れば山間部から遠州平野への入り口といえる場所に位置し、南の道を気賀まで抜ければ、東海道の脇街道である姫街道が東西に走り、そこからさらに下れば浜名湖の東側(現在の浜松市中心部)に出るなど、街道上の要衝といえる位置にあった。(Wikipediaより)

二俣城を山城と記述している文献を多くみかけるが、比高100m以下(実際は40m程度)であれば平山城と分類するべきであろうか。

二俣城見取図①背後を天竜川に守られた難攻不落の要塞である。

【城主・城歴】

戦国時代の初めには今川氏と斯波氏の係争地となるが、今川氏が笹岡城(現在の天竜支所付近)を築き被官の松井氏を置き領有したという。この時に城館背後の天竜川を望む小山に現在の二俣城が新たに築城されたという。

その後、今川義元が桶狭間に敗れると徳川家康が攻め込み松井氏を追放し鵜殿氏長を城代にしたという。

今川氏が滅亡し武田晴信との緊張が高まると、家康は城将を中根正照に変えた。

二俣城 (6)蔵屋敷郭と二の郭の間を走る堀切と土塁。

【二俣城の戦い】

元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃した。徳川方からすれば落城すると本拠・浜松を守る拠点がなくなるため、城代中根正照以下必死に抵抗し、城の堅固さも手伝ってよく守っていた。そこで攻めあぐねた勝頼は、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという(『三河物語』)。(Wikipediaより)

二俣城 (8)薬研掘ばかり見ていると箱堀は新鮮に思えるのだ(笑)

信玄の西上軍は二俣城を落とすと遠州になだれこみ、浜松城を攻めると見せかけて反転。三河へ向かう。

我慢のならなかった徳川家康は三方ヶ原で信玄の巧妙な罠に引っ掛かり大敗を喫してしまう。

三河防衛ラインの野田城も落とされ、絶体絶命のピンチとなったのは周知のとおりである。

二俣城 (5)東側からみた枡形門。

西上作戦の途中で信玄は亡くなるが、要衝である二俣城には信濃先方衆の依田信蕃が勝頼の命により城将として入城する。

そう彼こそが、小生もブログのお仲間である「武蔵の五遁さん」も愛してやまない信濃初の戦国武将となるその人であった。

二俣城 (11)一の門から見た天守台の石垣。

【その後の二俣城】

家康は信玄死後から直ちに遠江・三河にある武田の諸城を攻撃した。二俣城にも元亀4年(1573年)6月に攻勢をかけたがこのときは撤退している。一方で逆に遠江東部の高天神城が武田の新当主・勝頼によって落城させられるなど、徳川氏にとっては厳しい状況が続いていた。ところが天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗した。家康は直ちに反攻を開始、6月には二俣城にも軍を出し、付城(前線基地)を二俣城の隣の小峰である鳥羽山ほか5箇所に作って包囲した。同年8月14日、家康は遠江の東端にある諏訪原城を落城させたが、二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。しかし同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退した。家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせた。武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しなかった。(Wikipediaより)

二俣城 (12)近世城郭として使われた時代もあったので、本郭はかなり丁寧に整備されている。

大久保忠世は、信濃信州惣奉行として小諸城に在番した為、二俣城を留守にすることが多かったという。

その大久保忠世と依田信番は不思議な縁で結ばれている。

二俣城を明け渡し駿河の田中城の城将に転じた依田信蕃はここでも徳川相手に奮闘し武田滅亡の事実を確認するまで城を守り通した。城の受け取り人には、二俣城攻防戦で死闘を繰り広げた大久保忠世を指名している。

その後、徳川方として信濃佐久地方の平定戦において北条相手に凄まじい活躍をみせ、佐久の戦国大名にまでのしあがるったが、岩尾城の攻防戦で功を焦り討死してしまう。

徳川家康は、依田信蕃の嫡子の竹福丸を元服させ「康」の字を一字与え松平康国として小諸城主六万石を与えた。

その時の後見人として指名されたのが、大久保忠世であった。

二俣城 (14)喰違い虎口。

また、二俣城は家康の長男である松平信康の終焉の地でもあった。

果たして真実だったとは言えない内通を疑われる情報で、将来有望な後継ぎを自刃に追いやり信長に服従しなければならなかった家康の苦悩を感じられる場所でもある。

二俣城 (21)天守台跡から望む天竜川と鳥羽山の付け城方面。

天正十八年(1590)に家康の関東移封に伴い、大久保忠世も移封となる。代わって堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城もその支城となるが、慶長五年(1590)に転封となると廃城になったという。

二俣城 (15)二の郭。

二俣城 (23)背後の「暴れ天竜」。現在は上流に数ヶ所のダムで堰き止められ水量も少ない。

二俣城 (30) 北曲輪。

何年か前には一夜城と称して組み立て式の二層天守閣が組まれてお披露目されたという。

天守台=天守閣が存在したという安易な発想で、ロクな調査もせずに怪しい天守を常設しちゃう自治体が多いが、町おこしで着脱可能な天守というのは案外いいかもしれない(笑)

地元の方々・・特に小中学生には「二俣には全国に名を馳せた難攻不落の城があったのだ」という意識付けには絶好ですよね。

二俣城 (33)城跡から見下ろす二俣の街並み。

せっかくなので、藪漕ぎして南曲輪を攻めてきましたが、写真を撮っても何が何だか・・(汗)

二俣城 (34)南曲輪の堀切。

城跡に立ち、遠き戦国の世に想いを馳せる・・静かな空間がそこにはありました。


≪二俣城≫ (ふたまたじょう)

標高:92.0m 比高:40m
築城年代:不明
築城・居住者:松井氏、徳川氏、武田氏
場所:静岡県浜松市天竜区二俣町
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★★☆ 
城跡までの所要時間:5分 駐車場:有り
見どころ:郭、堀切、石垣など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:沢山あります(笑)

二俣城 (36)北側の天竜川沿いから見た二俣城遠景。













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Posted on 2013/09/01 Sun. 08:22 [edit]

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コメント

川下りは?

ここには行きそびれました。
いや、お腹の調子じゃなくて、お財布と時間の調子がつかず。
やはり壮絶な攻防戦の舞台になった城ですな。
貫録があります。
かつての天竜川の流路は城の東だったとか聞きましたが。
ところで天竜下りの船の転覆事故、この付近でしたよね。
合掌。

あおれんじゃあ #- | URL | 2013/09/01 21:28 * edit *

石垣・・・いいですね

二俣城は静岡県の歴史にはよく出てくる城ですが行ったことがないので
らんまるさんがうらやましい!!

長野県では中々御目にかかることのない石積ではなく石垣。。。。。。いいですね~。

そういえば、10月5日から長野市立博物館で真田氏と大日方氏関連の
特別展が開かれますね。
ちょっと楽しみです。

ていぴす #- | URL | 2013/09/01 22:56 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

二年前の事故で5名が亡くなりました。このクラスの河川になるとやはり水遊びも命懸けでしょう。
この城の攻防戦も必死だったようで、家康は付け城4か所築いたみたいですね。
それにしても依田信蕃さん、城を守らせれば天下一品。(ってか、徳川家康がヘタすぎという噂もある)
城攻めに失敗して人生も幕切れとは、残念でした。

らんまる #- | URL | 2013/09/02 07:10 * edit *

Re:ていぴす様へ

野面積み(乱積みとも)の石垣は発掘調査によると1590~1600年ぐらいの造成なので、堀尾時代のもののようです。浜松市は遺跡調査に積極的な自治体で、先日まで浜松城の天守閣の櫓門の調査もやってました。上田市も見習って欲しいですね(汗)

そうですか、大日方さんお出ましですか。境目の小豪族の辿った運命も興味深いものがあります。
都合付けて出掛けてみます。

らんまる #- | URL | 2013/09/02 07:17 * edit *
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