らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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長篠城 (愛知県新城市長篠市場)  

◆山家三方衆の明暗を分けた難攻不落の城◆

【長篠城主 菅沼正貞の誤算】

元亀二年(1571)、それまで徳川家康の配下であった三河の山家三方衆の奥平氏(作手)、菅沼氏(田峯)は信玄の調略により武田方へと切り崩された。

田峯菅沼氏の分家であった長篠菅沼氏の6代目当主正貞は、武田家への寝返りを良しとせず抗戦するも、秋山信友の家臣や同族への懐柔策が功を奏し正貞も仕方なく武田方に転じたという。

長篠城 (35)

翌元亀三年(1572)十月、西上作戦を敢行した信玄に菅沼正貞も山家三方衆として山県昌景の与力として従い転戦する。

翌年四月に甲府への帰還途中で信玄が亡くなった事を確信した奥平氏は、六月に家康より出された破格の誓紙を信用して九月に領地の作手(つくで)を脱出し徳川軍へ合流。

同年七月、動きのとれない武田軍を挑発するように家康は長篠城を囲む。

おそらくこのタイミングで、奥平氏への調略同様に菅沼正貞にも誘いがあったと見るべきであろう。

「ここらへんで城を明け渡して、徳川さんに恩を売っておきましょうか・・」

長篠城 (3)帯郭跡(二の曲輪)。奥の土塁の高さに注目。

ここで、正貞にまさかの事態が発生してしまう。

来ないと確信していた後詰め部隊(武田信豊)がすでに三河へ進駐していたのである。

が、冷静沈着にアリバイを完璧にして徳川方に寝返った際の保障も取り付け、とりあえず武田軍に合流する。

奥平氏の出奔に衝撃を受けた武田軍は、山家三方衆の他の二家の動向に疑惑を抱いていたのである。

長篠城推定見取図①看板の縄張図もいいけど、自分で描いてみる縄張図も捨てたもんじゃない?

あっさりと長篠城が陥落した事実に納得のいかない武田軍は、正貞を信州の小諸城に幽閉し徹底的に調べ上げる。

武田氏が疑い深いのではなく、いつの時代でもそうだが一度裏切ったヤツは信用されないのだ。

証拠は出なかったものの、武田氏滅亡まで収監され続けて天正十年(1582)に獄死。

その後、密約の事実を知る正貞夫人が家康に直訴し、嫡子は徳川頼宣付けとして登用されたという。

長篠城 (4)主郭と帯郭の間の堀(東側)。往時は水堀という描写が多いが、水量を調節した泥堀に近いものだったと思うが。


【一度きりのチャンスに全力で立ち向かった奥平貞昌の奮戦】

天正元年(1573)九月、奥平貞昌は武田氏に叛いて亀山城を逃げ出し徳川軍に合流したものの、しばらく捨て置かれ、寝返りの約束を記載した誓紙に書かれた長女亀姫との結婚も反故にされつつあった。

「我慢比べか・・・」

天正三年(1576)、山家三方衆としてともに戦場を戦った長篠城の菅沼正貞が城を明け渡し、徳川が接収して城番制を敷いていたのは聞いていた。

長篠城 (6)堀の角度と高土塁の角度が一致していない西側の空堀跡。意図的だとすると、かなり技巧的で面白い。

同年の二月二十八日、家康に呼び出された奥平貞昌は以下の厳命を賜る。

「三月より長篠城の城代を命じる。武田勝頼の侵攻に備え死守せよ!」

(お前は絶対に武田に叛ることはできない身である。だから徳川のために命懸けで働いて、この城を守り抜く以外に生きる道はないのだぞ)

そして間もなく一万五千の武田軍に包囲された。

後詰めの保証無き籠城戦の90%の絶望の中で彼が信じたのは織田・徳川の援軍ではなく、10%の己が生への執念だったのであろう。

長篠城 (13)意外に狭い主郭。

「命からがら作手から脱出し生きながらえたのだから、今度だってうまくいく。必ず生き残ってやる」

城主の意気込みも約五百の籠城兵たちの士気も高く、武田の猛攻に耐えた。

だが時が経過しさすがの要害長篠城も力攻めに押されて二の曲輪と本郭を残すのみとなり、兵糧も尽きてきた。

「鳥居強右衛門は、無事に辿り着いて使命を果たしたのだろうか・・・」 (長篠~岡崎は約50km)

長篠城 (33)城内から鳥居強右衛門の磔場所を臨む。充分に声が届く位置である。


そして鳥居右衛門(とりいすねえもん)の磔(はりつけ)事件が起きた。

「援軍は来る! この眼で確かに見て来た! あと二、三日、堅固に守れ!」

城内に戻る所を武田軍に捕まり、対岸から城内の兵に向けて援軍は来ないから降参するように言え、と強制されるが、彼もまた死を覚悟で自分の運命に賭けたのである。

足軽の身分で一生を終るか、それとも援軍が到着し味方が勝ち長篠城を救った英雄として名を残すか。

後者を選び処刑されたが、彼の子孫は最終的に千五百石取りの上級武士となり人々の尊敬を受け続けた。

長篠城 (30)本郭から野牛郭を見下ろす。


城主の奥平貞昌は長篠の戦いの功績により名声を得て、織田信長からは褒美として一字を下賜され信昌と改名した。家康は約束通り亀姫を彼に与えた。

それからの信昌は出世街道を走り続け、天正十八年(1590)の家康の関東移封では上州小幡三万石の大名となり、関ヶ原の跡には美濃加納十万石を貰った。

信昌の四男忠明は松平の姓を貰い播州姫路の城主となり十八万石を領した。一族はことごとく栄えた。

長篠城 (60)弾正郭(民家のため撮影不可)脇の標柱と堀跡。

長篠城 (65)道路開発と宅地化により改変され面影すら残らない二の曲輪付近。ここも含めて標柱だけってのが結構多い。

さて、長篠城に関わる漢(おとこ)たちの物語、如何でしたか。

えっ、今回は真面目一辺倒??まあ、たまにはそんな気分の時もありますね。

退屈な方⇒漢(おとこ)のサムライ度チェックで自己分析をお勧めします。

※ちなみに小生はハラキリ度100%でしたあ・・めでたしめでたし・・(笑)

長篠城 (2)このコースを実際に歩いてきましたよ。


≪長篠城≫ (ながしのじょう 末広城 扇城)

標高:50.0m 比高:-
築城年代:永正五年(1508)
築城・居住者:菅沼氏、徳川氏、武田氏
場所:愛知県新城市長篠市場
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切
注意事項:特に無し
参考文献:「武田信玄 アルバム&エッセイ」(新田次郎著)
付近の城址:設楽原古戦場も必見









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Posted on 2013/09/16 Mon. 10:24 [edit]

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コメント

良い場所にありますね。

この城は未訪です。
中世の歴史の1ページを飾る城ではありますが。
さすが、それなりの遺構ですね。それに川の合流点の崖上、理想的な場所にあります。
さて、勝頼さん この城をどうしようとしたのでしょうかね。
徳川軍の誘いだしだけなら、あの程度の軍勢で十分かもしれませんが、織田軍主力を想定していなかったようにも思えます。
一方ではただの城の奪取だったようにも思えますし、戦略が見えません。
そういうことは現地に行って景色を眺めながら考えてみたいですね。

あおれんじゃあ #- | URL | 2013/09/16 12:48 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

小説家の新田次郎氏は、信玄亡き後は武田氏の内紛が続き長篠の大敗までの主導権は勝頼の従兄で義弟だった御一門衆の穴山信君(梅雪)が握っていたという推測しています。
なるほど、そういう見方もあるのか・・と今までの疑問が腑に落ちました。
信玄がポックリ死んでしまったからといって、老練な家臣団、特に一門衆や御親類衆が若き勝頼の命令に素直に従ったとは思えません。
高天神城攻め~長篠城奪回~設楽原の合戦までは梅雪が主導し、敗戦後に勝頼メインで立て直しを図ったと見るべきでしょうか(時すでに遅しですが)
事実、設楽原の合戦では戦闘中に真っ先に離脱し、七年後の武田征伐に際しては所領安堵と武田宗家の名跡を継ぐ事を条件に家康へ内応している。自己の保身のみを考えたせいか、その後殺されたのは自業自得とも(汗)

そんな事を考えながら城跡を散策するのも良いと思います。

らんまる #- | URL | 2013/09/16 15:15 * edit *
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