らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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古山城 (上水内郡小川村古山)  

◆対上杉の最前線を守備した大日方氏の居城◆

今週は日曜日だけお休みなのだが、生憎の雨では何処にも攻め登れずに腐りそうである・・・(笑)

急激な外気温の低下で紅葉が進み、さっさと葉っぱが落ちる事を期待して過ごす事にしよう・・(爆)

さて、今回ご紹介するのは、まだまだマイナーな扱いの大日方氏(おびなたし)の居城だった古山城。

古山城(小川村) (1)登り口に立つ説明板。宮坂武男氏の鳥瞰図がここでも見れて嬉しい。車でここまで登れるのもありがたい。

【立地】

白馬村と善光寺を結ぶ中間地点の小川村のほぼ中央に位置し、土尻川の左岸に聳える山に築かれている。
小川川を挟んで北東1.5kmには馬曲城があり、江尻川の対岸約2kmに立屋城がある。

古山城(小川村) (4)城跡へは天満宮への参道を登る。

【城主・城歴】

中世編だけでも129ページもある小川村誌は読むだけでも大変だが、郷土資料としては一級品で読破する価値は高い。大日方氏の出自についても色々な文献や資料を用いて考証しているが、ここでは入り口看板にある小川村教育委員会の説明(平成13年3月)が的を得て要約されているので、その文を掲載する。

「城主は小川左衛門貞綱で、室町時代、三河国小川刈谷原城主(現愛知県知多郡苅屋町)であったが、足利義満によって南北朝が統一されると、南朝に属していた貞綱は、無実の罪によって貶(へん)せられ(官位を下げて遠方に追いやる)信濃の山中に追放された。
元中九年(1392)古山城(当時は布留山城と称した)を築き城主となり、貞綱、綱義、定縄と三代七十八年間にわたりこの地方を治め、かなりの勢力を持ったと推定される。

しかし、当時信濃で大勢力を誇っていた村上顕国の命に従わなかったので、顕国は更級郡牧ノ島城主香坂安房守に追討を命じ、安房守は猶子大日方小五郎長利(のちに長政)とともに古山城を攻めてこれを破った。顕国は戦功を称え、小川郷を長政に与えた。
小川定縄は、かつての領地、三河の小川刈谷に復帰し、罪を許され、姓を水野と改め徳川に従い、水野忠政の時に大名になったという。

古山城(小川村) (5)参道の続く尾根には配水池があるが、防御施設は何も無い。

古山城(小川村) (6)このあたりに堀切があったのかも知れない。

時代は下って、長政の後継者である直忠もは、直経、直武、直長、直龍、直親の五人の子どもがあったが、この頃武田軍の信濃侵攻が始まり、大日方氏にもその手がのびてきたのである。

大日方一族は武田軍に対応する重大な岐路を迎え、五人兄弟の評議は上杉方と武田方のいづれに組みするかで意見対立となり、武田抗戦を主張する長男金吾介直経を説得する事がでk図、ついに謀計をもって亡き者にしたという。
後年、直経の霊を弔うため、城跡に金吾様と称する祠が建立されている。

なお、定縄(さだつな)攻略の年次については応仁二年(1468)、永正二年(1505)、天文五年(1536)の諸説があり、研究の課題となっている。 (以上、引用終わり)」

hikioojyo (85)大日方氏の出身地である東筑摩郡生坂村広津大日方とその周辺(対岸の大城物見砦より撮影)

【大日方氏の出自と経歴~らんまるの解説】

せっかくなので大日方氏の出自と経歴について触れておこう。

1.大日方氏の出自

初代の大日方長政(おびなたながまさ)は信濃守護である小笠原家の出自である。信濃小笠原家第十二代貞朝の四男で当初は長利と名乗っていた。兄の長棟(十三代当主)に子が無かったため、十四代当主を約定されていたが、長棟に嫡子(のちの長時)が生まれ兄と不和となり小笠原家を出奔し安曇郡広津村大日方に城館を構え大日方長政と名乗った。
その後、大日方氏は更級郡牧之島の香坂氏を頼り養子となる。天文五年に村上顕国の命により香坂氏と共に小川庄の小川左衛門を攻め落とし、その戦功により小川城三千石の地を知行するに至る。

大日方氏系図①
資料は小川村誌より引用。

ここで問題になるのは、村上方の一員である香坂氏とその親方である村上顕国が対立する小笠原長棟の一族である大日方氏を何故受け入れたのか?と云う事になるが、それはまたついでの時にお話ししたい。

2.村上時代の大日方氏

信濃国の覇権を目指す村上氏は顕国から義清に代替わりし、佐久の大井氏を滅ぼし東信濃の名族海野氏を武田信虎・諏方頼重の連合軍と共に上野国へ追放し、北信濃~東信濃へ版図を拡大していく。

仁科領への進出を狙う村上義清は、大日方長政に安曇攻略を命じ、天文十一年頃には千国庄は大日方氏の領有となり安曇三城(千見城飯田城、茨山城)を築城したという。

千見城主郭千見城の主郭と背後の高土塁。(大町市美麻)

飯田城遠景技巧的だった飯田城(白馬村神城)

茨山城 (6)プア過ぎる縄張りの茨山城(白馬村神城)

この時の侵攻における大日方軍VS仁科軍の戦闘記録が全く残っていないという。

暗黙の了解による譲渡だったという推察もあるが、村上義清が後方支援に動いたのは想像に難くない。

大日方由緒書及び法蔵寺史によれば、安曇三城の城主は大日方山城守(直康)、大日方長辰(直次)、大日方勘助(直武)とある。


3.武田の侵攻と安曇三城の落城

天文二十一年(1552)、小笠原長時を深志より駆逐した武田軍は、山県昌景を主力とする精鋭によって、小岩嶽城をはじめとする安曇の攻略に入った。しかし、小岩嶽城の古厩氏の抵抗は強く兵力の損害を避けるために、安曇北部の千国庄の城の制圧に目標が変更された。

大日方三城(千見城、飯田城、茨山城)、そして飯森氏の飯森城(一夜山城)、塩島城、平倉城が標的となった。

七月、木崎森の森城(仁科本城)が自落、飯田城、茨山城は山県軍の攻撃の前に敢無く落城。飯森十郎盛春は一夜山城で奮戦するも武田軍の猛攻で打ち破られ、飯森氏は越後へ逃げ落ちた。(翌年平倉城で再起するも討死)

千見城の守将の大日方源吾長辰も奮戦空しく討死してしまう。

古山城見取図①そろそろ城の解説もしないと・・(汗)


4・大日方氏の武田従属

次の武田軍の標的は間違いなく古山城(小川城)であった。

大日方氏は一族で評議を行い、一族の興亡に係わる武田への従属の是非を協議するが、直忠の長子である金吾介直経は唯一武田抗戦を主張し意見が分かれてしまい、直経は親兄弟の説得にも全く応じなかった。

武田晴信の恫喝は続き、最後通牒の使者が来るのは時間の問題だった。

大日方一族は已む無く謀計をもって家臣小林四郎右衛門をして金吾介直経を刺殺し、武田従属を決したという。

一族が敵味方に別れるという選択もあったのだろうが、この過酷な処置を見れば武田晴信はそれを赦さなかったと思われる。

古山城(小川村) (8)城内で最も広い郭6には天満宮が鎮座している。往時は建物があったのだろうか。

大日方氏の武田従属により、晴信は仁科口から千見城、小川城を経由し鬼無里、戸隠、そして川中島へ通じる街道を手に入れた。村上義清に与えた衝撃は計り知れないものがあった。

5.武田軍における信濃先方衆としての活躍

天文二十二年(1553)から始まった川中島合戦は計五回あったと云われ、大日方氏は信濃先方衆百十騎の将として全てに参戦している。(一騎につき徒歩兵五名として約550の兵力)また、度重なる戦功により所領も加増され、中条や七二会の一部も領有し春日氏を立場でも春日氏を凌駕したという。

古山城(小川村) (11)神社の裏側は一段高い武者走りのような細長い三角形。神社脇の車道は近年に作られたものだ。

古山城(小川村) (12)郭5との接続部分。恐らく堀切があったのだろう。

古山城(小川村) (14)古城図では馬場と書かれた郭4.主郭背後の二重堀切まで回り込む広さがある。

甲越合戦の頃における大日方氏は、糸魚川方面からの上杉の侵入に備えて千見城や小川城の重点守備を任されている。

信玄が信濃守護となり甲越の境界が動かなくなると、駿河侵攻や対北条戦、そして遠江侵攻に参戦。他の信濃先方衆と同様に居城を離れて転戦する事が多くなった。

武田氏滅亡後、大日方氏は小川へ帰村。領地は織田方の武将森長可の知行となった。

古山城(小川村) (18)郭3は三段の緩い傾斜。

6.天正壬午の乱と三系統に分かれた大日方氏

①大日方佐渡守(直長)・主税助父子
天正十年六月に上杉景勝の侵攻軍に加わり、千見城を回復し北信濃を転戦する。高井地方の統治や川中島広田も知行地としたようである。上杉の会津転封には同行せず帰農する。

②大日方源太左衛門直幸(直武の孫)
上杉景勝の進駐軍に加わり飯田城周辺を確保するが、深志より北上してきた小笠原貞慶に降り、以後小笠原傘下として安曇二城を安堵される。小笠原氏の転封には同行せず帰農する。

③大日方駿河守直明(直龍の長子)
景勝にも貞慶にも付かず帰農(土着)し産業振興と経済力による自立を目指した。やがて真田氏に傾倒し、江戸時代には真田松代藩の郡奉行として給禄二百石で仕え、以後明治維新まで続くのである。

ご静聴ありがとうございましたあー(笑)

古山城(小川村) (19)主郭跡に建つ金吾善神の社。

【城跡】

城域はかなり広いようで、主郭から南東約700m先には「大手」という地名があり、かつての大手門跡だと伝わる。また小川村誌によれば半里先の峰に詰め城があるという伝承が残っているという。
山の尾根先や峰はほとんどが加工され、山全体を要害としていたようだ。
攻めるのはかなり難しいと思われ、段郭も堀切も必要無いだろう。主郭背後の二重堀切は居城にふさわしい最先端のトレンドを取り入れただけであろう。

古山城(小川村) (24)主郭背後の二重堀切は上巾20mという凄い広さだ。

古山城(小川村) (27)堀の北側は何故か土橋状?

古山城(小川村) (31)北側にのみ土塁の残る郭2.削平も適当で余り緊張感が感じられない。

善光寺地震で法蔵寺が崩壊し城跡も一部崩れたという。(法蔵寺は北側へ移転し再建された)

現在民家の建つ古天神と云う場所に居館があったと伝わる。また、小川氏時代の布留山城と大日方時代の古山城は小川村誌によれば別地のような記載がされているが、明確な区分がどうだったのかは分からない。

古山城(小川村) (35)郭2の土塁の北側は土砂崩落で危険な状態。そのうち土塁も消えるゾ。

古山城(小川村) (36)北斜面の崩落現場。郭2はそのうち消滅するかもしれない(汗)

古山城(小川村) (39)云わなくとも分かる?ご神体でございます(笑)

さて、「祝!400城掲載記念特集号」は如何でしたでしょうか?

ご意見、ご感想お待ちしております。

古山城(小川村) (49)古天神(居館跡)から見た立屋城。

古山城(小川村) (51)前号でご紹介した支城の馬曲城。

馬曲城 (5)馬曲城付近から見た古山城全景。

≪古山城≫ (ふるやまじょう 布留山城・小川城)

標高:802.8m 比高:275m(土尻川より)
築城年代:不明
築城・居住者:小川氏、大日方氏
場所:上水内郡小川村古山
攻城日:2013年10月6日(再訪2013年10月14日) 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:10分
駐車場:無し(道路脇へ路駐)
見どころ:二重堀切など
注意事項:特に無し
参考文献:「図解山城探訪第十一集 水内資料編 宮坂武男著」「小川村誌」
付近の城址:馬曲城など
Special Thanks:ていぴす様






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Posted on 2013/10/20 Sun. 21:27 [edit]

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コメント

大日方さんの歴史よくわかった。

なるほど。
そんな一族でしたか、結局、ほとんどは地元に残ったようですね。
凄い波乱にとんだ時代だったのですね。
我がご先祖様も右往左往したのでしょう。
優柔不断なDNAは今も伝わっているので、ご先祖さまも似たようなもんだったかも?

そういえば、今日お昼に信州の親戚が送ってくれた生ソバ食べたんだけど、
戸隠の「おびなた」という食品会社のでした。
ここの社長も子孫でしょうねえ。
ソバもけっこう美味かったねえ。

あおれんじゃあ #- | URL | 2013/10/20 23:13 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

拙い解説をお読みいただきありがとうございます(笑)

「帰農」と表現してしまうと水田耕作主体と思いがちですが、小川郷は肥沃の地で色々な作物が栽培され実際の石高以上の生産量があったようです。特に麻は軍需産業向けの需要が高く小川村は品質の良い麻が取れたので全国の物流の中心だったようです。(宗家末裔の大日方英雄氏に教えていただきました)

武士よりは商売人向きだったんでしょうね。
敵味方に分かれても家名存続すら出来なかった豪族もいるのに、この決断はたいしたものです。

らんまる #- | URL | 2013/10/21 07:13 * edit *

らんまる様 お邪魔します。

 詳細なレポート。頭が下がります。

 信濃山中の小豪族についてこれだけ調べ上げるサイトはホトンド無いと思います。

 勉強になりました。有難うございます。

 最後の写真の下方やや右寄りの平場は、居館跡ではないのかな?と地図を見ながら1年前から妄想を膨らませておりました。

 さて、話は変わりますが・・・

 故郷秋田の城をレポートしましたが、アクセスは急降下・・・

 国指定史跡の鉢形城をレポートしはじめたら今年最高アクセス・・・

 なんとも複雑な気分です・・・

 供給側と、受給側のニーズの食い違いですね・・・

 でも、私は無名城のレポートを続けます。

 らんまるさんも無名で素晴らしい城のレポートを続けて下さい!

武蔵の五遁 #- | URL | 2013/10/22 22:26 * edit *

Re:武蔵の五遁様へ

ご推察の通り、最後の写真の右下は居館跡と伝わり付近には再興された法蔵寺があります。
全山に郭が点在していたようで往時は要塞だったのでしょう。

信濃の小豪族が辿った運命を紐解いていくと意外な事実を発見するものです。
地元の市町村誌もかなり念入りに歴史を調査して掲載しているので、一般に出回っているヘタな資料よりも読み応えがあります(笑)

ある程度名前の知れた城は我々が掲載せずとも書く人は百万といるでしょうが、山の奥深く朽ち果てた城跡は誰かが伝えなければ歴史から消えてしまいます。
終わりなき巡礼の旅に出たお遍路さんの心境ですネ(汗)
とても「水戸黄門漫遊記」の心境にはなれません・・・(笑)

らんまる #- | URL | 2013/10/23 07:27 * edit *

おつかれさまでした。

らんまるさん この間はお世話になりました。

大日方氏は生坂村の時に調べましたが、こんなに詳しく知りませんでした。
大変勉強になりました。

あのような山村にたくさんの人々が住み生活していたことに驚き、領主である
大日方氏の居館もあのような山奥に存在することにも驚きました。
たしかに田畑はありましたが、領主としてあのような山奥で統治ができたのか
疑問でしたね~。

当時の生活環境を見てみたいものです。

ていぴす #- | URL | 2013/10/23 22:26 * edit *

Re:ていぴす様へ

いえいえ、こちらこそご同行頂きありがとうございました。

城址よりも大日方氏の経歴を調べていく作業に没頭してしまいましたが、謎の多い一族にスポットを当てる事が出来て良かったと思っています。下末の大日方家に伝わる「大」の軍旗も大文字一揆に関わるものではなく、武田家より本陣に掲げる部隊の旗を拝領したものという説もあります。(出自が小笠原家なので、大文字一揆側として戦ったのは考えられず、旗も比較的新しいのがその証拠とも)

それにしても山あり谷あり沢ありの起伏に富んだ小川庄、どうやって統治したんですかねえ~謎ですわ(笑)

らんまる #- | URL | 2013/10/24 07:18 * edit *
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