らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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戸屋城 (長野市七二会地蔵堂)  

◆鎌倉時代から約300年続いた春日氏の本拠地◆

久々の筋肉痛である・・(汗)

段郭は尾根の隅まで見ないと気が済まないし、竪堀も下まで降りてまた登る・・(笑)

広大な城域を持つ山城だと二時間以上は徘徊している・・・ビョーキであろう・・(爆)

んで、今回ご紹介するのは入り口まで車で横付け出来て、ものの10分の見学で完了するコンパクトな戸屋城。

戸屋城(長野市七二会) (1)城跡入り口には看板があるが、その先の道路は城跡に住む民家用なので手前に路駐しましょう。

【立地】

陣馬平山(1258m)の西峰の萩野城(1176m)から南へ続く丘陵上にあり、東西を深い沢に挟まれているので独立峰のように見える。ここからの眺望は素晴らしいはずだが、現在は森が邪魔で東方面しか見えない(汗)

春日氏の城の位置七二会といっても結構広いので、春日氏関連の城を上記に示したのでご参考に。


【城主・城歴】

春日氏の出自は滋野三家(祢津・海野・望月)の祢津氏の流れを汲み春日郷(現在の佐久市春日地区)を拠点としていた本家からの分族だという。
春日氏の名前が文献に登場するのは吾妻鏡で、承久の乱(1221)において幕府の北条泰時に従軍しその功績により元々の所領の小川庄(現在の小川村・旧鬼無里村・旧中条村・旧七二会村・旧戸隠村の一部)の他に上野に七千町歩の恩賞を受けたとある。
つまり、鎌倉時代には小川庄の地頭職として既にこの地に移住していた事になる。

その後、南北朝時代では香坂氏とともに南朝方となり、室町幕府成立を経て1400年に勃発した大文字一騎では他の近隣の小豪族の小田切、落合、窪寺と共に反守護瀬力の連合軍に加わっている。
城跡の説明板によれば戸屋城の築城は延徳元年(1489)で、それ以前は若草の春日山城に在ったという。

戸屋城見取図①

戦国時代の春日氏については史料や文献が残っていないために不明な点が多く、七二会村誌も明確な説明が無い。

春日氏の動向を記した文書としては、天文二十二年(1553)八月九日(第一次甲越合戦は四月)に大日方美作入道と上総介の父子へ宛てた武田晴信の条目書に以下の文言が残る。(五項目の二番目)

一、春日越前守・同名備前守・同名新助(盛康)此れ等の衆当方へ忠信を抽ぜらるるに於いて、その在所退出を為さば、大日方父子斡旋の如く扶持を給うべき事 (大日方直吉氏蔵)

※ざっくりと訳すと「春日一族を味方に引き入れてくれれば、所領を含めた条件については考慮する」という意味

その後、大日方氏の尽力により春日修理大夫は武田に降り所領三千貫を宛がわれ信濃先方衆として働いたという。

戸屋城(長野市七二会) (6)民家のある場所が郭3.

天文二十四年の第二次甲越合戦の和睦条件として北信濃の豪族の旧領復帰が認められ、善光寺平の拠点であった旭山城が破却されると、武田の北信濃侵攻は縮小を余儀なくされてしまう。
この時期の上杉との軍事境界線は安曇口(小谷村・白馬)と旧鬼無里村・旧中条村となり、春日氏の戸屋城は在番制の敷かれた柏鉢城とともに境目の城として重要視されたという。

戸屋城(長野市七二会) (32)歩いてすぐそこ、と云うのが嬉しい(笑)

武田氏時代の春日氏はあまりパッとしなかったらしいが領地は春日郷と呼ばれ、小川村誌では大日方氏に所領を削られたような記述もある。

武田氏滅亡後、当主の春日元忠は上杉景勝に従い争奪戦の繰り返された青柳城の城代などを務め、慶長三年(1598)の会津転封と共にこの地を去る。(その後の活躍はいずれまた書こうと思う)

戸屋城(長野市七二会) (10)主郭の先端部。

郭1(主郭)が歪んでいるのは善光寺地震の影響で、その時に先端部分も崩落したような事が説明板に書いてあるが、果たしてそうだろうか?

戸屋城(長野市七二会) (16)まあ、確かに東屋の部分は歪な形だが・・。

戸屋城(長野市七二会) (12)

春日氏は本城を笹平集落へ移転しているので、戸屋城は烽火台&詰めの城になり、土塁もその時に盛られたとみてはどうだろうか。

戸屋城(長野市七二会) (17)せっかくの東屋なのに南側の視界は森に遮断されている。もったいない。

戸屋城(長野市七二会) (18)西側の帯郭。

城跡の入り口辺りには堀切があったと思われるがどうだろうか。

城跡全体も耕作化による改変を受けているようで、往時の防御構造を見出すのは難しい(汗)

戸屋城(長野市七二会) (26)郭2から見た主郭方面。

戸屋城(長野市七二会) (29)主郭から見た郭3(民家の為ちょっとだけの撮影)

戸屋城(長野市七二会) (11)説明板の地図には「御仕置き場」という場所があった。処刑場の事であろうか・・(怖!)

北信濃の小豪族は甲越合戦では翻弄される運命と戦いながら武田もしくは上杉に分かれた。

甲越戦争では、どちらに与しても先方衆として常に最前線となり信濃勢同士が家名存続を賭けて戦う悲惨な戦いであった。

そんな大勢力の代理戦争の一兵卒は辞めて「お百姓さん」になろう・・・

平和ボケした小生にも分かるような気がします。

戸屋城(長野市七二会) (9)手前は市場集落。遠く善光寺平が見える。


≪戸屋城≫ (とやじょう)

標高:720m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住者:春日氏
場所:長野市七二会地蔵堂
攻城日:2013年9月22日 
お勧め度:★★☆☆☆  
城跡までの所要時間:3分
駐車場:入り口手前に路駐。
見どころ:切岸、土塁
注意事項:城跡には民家があり撮影注意。城跡までは大型車の通行困難。
参考文献:「信濃の山城と館➋更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:春日山城、笹平城、萩野城など

戸屋城(長野市七二会) (34)東の沢から撮影。そんな三方崖の上に立地した砦なんぞ、誰も攻めようとは思いませんから!!(笑)










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Posted on 2013/11/04 Mon. 16:34 [edit]

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コメント

こんばんは。

七二会
何と読むのか分からず調べたら、「なにあい」 なんですね。
九つの村が一緒になって「七二会」になったようですが、何故 「九会」 じゃなかったんだろう?
春日氏の出身は、今、春日温泉のある辺りですか。
佐久から出て越後に移った訳ですね。

万見仙千代 #- | URL | 2013/11/04 22:17 * edit *

Re:万見仙千代様へ

先日の貴殿の写真の城は間違いなく「望月城」ですね。この宿場町は母方の出生地でガキの頃は毎年八月十五日に「榊祭り」(さかきまつり)に泊りがけで出掛けたものです。この祭りが日本三大火祭りだと知ったのは成人してしばらくたってからでしょうか・・(汗)

城跡の読み仮名ばかりに気を使ってしまい、肝心の町村名が読めないというのは良くある話で「気配り」が足りませんでした。失礼しました。

佐久出身の戦国時代におけるスーパースターは「依田信蕃」でしょう。
「そんな死に様じゃダメでしょ・・」って言われるほどの猪突猛進の武将でした。
彼の人生はhttp://ranmaru99.blog83.fc2.com/blog-entry-118.htmlを参照願います。
好きすぎて静岡県の田中城まで出掛けました・・(爆)

らんまる #- | URL | 2013/11/04 22:45 * edit *

住むにはいい場所

ここは見晴はいいし、それなりの要害。
って、こんな山にまでせめてくるモノ好きもいるかどうか?
居住空間も十分ですね。

善光寺地震で崩壊した部分があるらしいですが、先端東側なのかな?
でも崩れたような感じはなかったですね。

こんな山の中の村にも戦国時代があったとは思えないような、城址からの眺めでした。

あおれんじゃあ #- | URL | 2013/11/04 23:31 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

山村といえども日当たりは良いし水利も悪くない肥沃の地です。
住めば都とは良く言ったものですね。
毎日長閑な風景を見ていれば近隣諸国を切り従えて都へ上るなどという発想は生まれないのが分かります(笑)

善光寺地震による崩落はどうなんでしょうか?小川村ではお寺が消滅するほどの衝撃だったんでこの辺りも影響はあったんでしょうネ。

らんまる #- | URL | 2013/11/05 07:04 * edit *
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