らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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平倉城 (北安曇郡小谷村中谷平倉山)  

◆スズメバチの攻撃により退却を余儀なくされた飯森十郎春盛討死の城◆

前回掲載した須立之城ですが、下書き保存したつもりが「本チャン保存」で掲載されていたのにはタマゲタ(汗)

うたた寝しながら記事を書いているので、どんな終了方法をしたのか記憶に無いのである・・。

後悔公開してしまった以上慌てて続きを書いて上書きたのは云うまでも無い・・・(笑)

さて、寄り道し過ぎたのでそろそろ小谷村に戻るとしようか・・・(爆)

平倉城(小谷村) (9)「切った屋敷」入り口の説明板。

先月発刊された「信濃の山城と城館➐ 安曇・木曽編」の中の宮坂武男氏のコラム「山城の歩き方③」に「平倉城麓の切った屋敷」が登場する。

看板から更に進んだ奥の削平地が屋敷址で、平倉城の東麓の黒岩集落にある地名のようだ。

平倉城(小谷村) (5)「切った屋敷」(推定)

【切った屋敷】

平倉城を攻略した後、武田方では一門一族の残党狩りを行い、生き残った者、傷ついたものを捕えて男は皆切ってしまった。その場所を切った屋敷と呼んでいる。
この時在る家のお婆さんは十歳ぐらいの男の子の孫を救うため女装をさせ、検分役人の前へ引き出された時、男根を股から後ろへ廻して押へ、難を逃れたとの事である。(説明板より)

宮坂氏のコラムによれば、切った屋敷でお婆さんが必死に守ったのは討死した飯森十郎信春の嫡子だったという。その後、斉藤氏に身を隠し、もっぱら農業を営み、斉藤氏の婿となって残ったという。

そういえば上田市の鳥屋城も別名「首切り城」と呼ばれて武田による残党狩りと処刑が行われた場所の言い伝えがあったのを想い出した。被征服地の悲話は信州の各地に残っている。

平倉城(小谷村) (10)黒岩集落の外れにある遊歩道の看板。地元の方には「遊歩道」かもしれないが、我々には「登山道」とか「修行・試練・苦難」の表示がお似合いだ(笑)

【立地】

姫川と中谷川の合流点の北、標高721m、姫川よりの比高260mの、突兀と屹立する山塊上に構えられた山城である。
およそ戦国時代の山城を築く地形としても、姫川谷を南北に見通し、各地の山城と連絡でき、交通の要となる位置からみてもこれほど適した場所は少ないのではないだろうか。(小谷村誌より)

平倉城(小谷村) (3)東側の白岩地区からの全景。

この壮大なロケーションと比高差を見た時に戦闘意欲がマイナスになった。「やっぱやめようよ・・」(涙)

【城主・城歴】

「信府統記」の「来馬平倉山古城地」に記載がある。それによれば「・・・応永ノ頃、城主飯森山城守平朝臣盛照ト云フ人在住セリ、是小谷周辺ヲ領セシ故、当城ヲ ヲタリ城ト云フ・・・」

飯森氏は仁科氏の支族で白馬飯森から小谷一帯を領有していたらしい。

天文十七年(1548)に塩尻峠の合戦で仁科一族は小笠原軍として参戦するが、戦線を離脱し二年後に仁科宗家は武田氏に降る。

しかし一族の古厩氏(小岩嶽城)と飯森氏は武田への徹底抗戦を唱えるが、天文二十一年(1552)に武田の猛攻を受け小岩嶽城は落城し古厩氏は滅亡する。

平倉城(小谷村) (11)山頂にあった平倉社は住民の高齢化により参詣が大変ということで平成10年に山麓に移された。

天文二十二年(1553)に第一次甲越合戦が勃発。晴信は適当にあしらって木曽・下伊那・佐久を制圧。国境の仁科口方面は捨て置いたようだ。

第二次甲越合戦の天文二十四年(1555)、旭山城を巡り200日に及ぶ対峙を経て今川義元の仲介により旭山城の破却を条件に双方が和睦。
北信濃の豪族の旧領復帰を認めざるを得ず、武田晴信は川中島四郡で臥薪嘗胆を強いられる。北信濃の攻略は深志~仁科口(大町)~美麻(千見)~柏鉢(中条)に限られ苦戦する。

平倉城(小谷村) (13)息絶え絶えで15分。搦め手の要害だった鉄塔のある出城へ。

弘治三年(1557)の第三次甲越合戦は晴信が決戦を避けたが盤石の支配体制を確立している。

その前の年、武田軍は山県昌景に仁科方面の平定を命じ、小川庄の大日方氏が守る仁科口の千見城、白馬の飯田城、茨山城を陥落させ、大日方氏を恫喝し服属させたという。

平倉城(小谷村) (15)保安道を登れば鉄塔のある出城(搦め手方面)である。

飯森城の城主である飯森十郎盛春は迫りくる山県昌景率いる武田軍を迎え撃つが、持ちこたえられず越後の上杉謙信を頼って逃亡する。

申し訳無いが、あの程度の貧弱な山城で迎撃が出来るほど武田軍は甘くない。しかも猛将山県さんですもの。
飯森さん、見くびり過ぎでしたね・・(汗)

平倉城(小谷村) (21)鉄塔の建設で改変されたらしいが、ここからの景色はピカイチであろう。

平倉城(小谷村) (20)平地を歩くより山並みを越えた方が早いというのはマジなのだ。

んでもって下記に見取図を示します。残念ながら踏査出来なかった場所は封印させてもらいました。

自分の目で見て調査して納得出来たら、いつか追加するんでしょうねえ・・(笑)

平倉城見取図①

武田晴信が仁科口と呼ばれる国境の城を攻め立てたのは、上杉軍の川中島への補給路を断つ為だったという。

仁科宗家が武田に服従しても徹底抗戦を続ける飯森氏には、それなりの何か特別な理由があったのかもしれない。

飯森氏の配下の土豪であった小谷五人衆(のちに二人増えて七人衆というのが正規らしい)のうち、太田土佐、山田左近、田原主馬、細野織部は武田方に降り、山岸豊後は飯森氏と上杉方に逃れて行動を共にしたという。

平倉城(小谷村) (17)鉄塔から臨む城跡。君の行く道は果てしなく遠いのだと実感する瞬間であった(汗)

翌年の弘治三年(1557)、雪で進軍を停止している武田軍の隙を付いて小谷村に戻った飯森十郎盛春は、要害堅固な平倉城(小谷城)を取り立てて武田軍に備えた。

同年七月、上杉の援軍(後詰め)を信じ籠城する飯森十郎盛春は、武田軍の山県三郎兵衛昌景の猛攻に奮戦するも空しく、山県配下の曲淵庄左衛門に討ち取られたという。(落城は七月五日だという)

仁科一族が敵味方に別れた攻城戦は壮絶な激戦だったらしく、武田方として参戦した穂高父子は討死したという。戦後に晴信は攻城戦に参陣した諸将に感状を出している。

国堺の小谷を制圧した晴信は千国氏による警固を強化し、謙信は国境の最前線となる根知城(根小屋)に村上義清を城将として置き、武田の越後侵入に備え監視を強化するよう命じている。

平倉城(小谷城)は飯森氏の滅亡とともに廃城となったようで、その後の文献に登場する事は無かった。

現在の登山道である搦め手付近の防御が脆弱であり、武田軍は恐らくそこから攻め上がったのであろう。
南側の大手を抑えて搦め手を制すれば袋のネズミとなり逃げようがない縄張り上の致命的な欠点は、現地に登ると良く理解出来る。

武田統治時代は、千国庄の黒川城が改修を受け国境の城としての役割を果たしたものと思われる。

平倉城(小谷村) (31)鉄塔から15分登ると四段の削平地が現れる。

平倉城(小谷村) (29)城跡と秋葉社は密接な関係である。

秋葉社のある郭から並行に100mほど南へ移動すると城の中心部となるのだが、中間地点には四基の石塚がある。
宮坂氏によれば、これは攻撃用の投石が集められた場所だという。

平倉城(小谷村) (75)投石用の石塚。

そういえば若槻山城干沢城にも投石用の石を集めた置き場があったのを想い出した。

「一昔前の近所のクソガキじゃあるまいし、石投げが戦国時代の攻撃手段なの?」と思われる方も多いかもしれない。

武田信玄の西上作戦における三方ヶ原の合戦は、武田軍の投石部隊による徳川軍への挑発から始まったという。

「腑抜けの徳川には石だけ投げれば勝てる」

馬鹿にされた徳川軍の最前線の兵士がこの挑発に乗っかってしまい、まんまと武田の罠にハマったらしいのだが、真実かどうかは不明だ(笑)

投石も弓や槍と並び攻撃方法の一つであったことは間違いないらしい。

平倉城(小谷村) (34)43×22で最も大きい郭だが、削平が不完全で工事が間に合わなかったという印象を持つ。

平倉城(小谷村) (42)同じ場所を上段の旧神社跡から撮影。

現地に行くと分かるのだが、この山は基本的に岩山であり、削平にはかなり手間取ったと思われる。

飯森城の落城から僅かな期間で平倉城を仕上げるには条件が悪すぎた。

平倉城(小谷村) (40)近年まで社が建っていた郭。

平倉城(小谷村) (38)虎口ではありません。旧平倉社の参道跡です。

立地的には文句の無い要害だ。上杉を頼って一時的に越後へ逃れた飯森氏の平倉城籠城に対して、謙信は何の援助もしなかったのだろうか?

今回見れなかった「坪根(局)の平」は土塁を多用しているが上杉流の山城とは考えづらい縄張りのようだ。

平倉城(小谷村) (44)頂上へ向かう途中には岩盤を刳り抜いた堀切がある。

平倉城(小谷村) (53)痩せ尾根の剥き出しの岩盤。

平倉山の頂上部分は「郭」とは言えず「一騎駈け」と呼ぶべき防御構造であろうか。

「首かくしの洞穴」と呼ばれる不可解な穴が無数にあり人工的な手が加えられたとは到底思えない天然さである。

平倉城(小谷村) (57)山頂の標識。

平倉城(小谷村) (56)首隠しの洞穴。(推定)

頂上付近から北へ逃れる道もあったようだが、東の搦め手を落とされれば背後に回り込まれてしまうので進退極まったとみるべきであろうか。

平倉城(小谷村) (60)神社跡が指令所だったと思われる。

【スズメバチと云う名の黄色備えの猛将現る】

平倉社のある郭から50m下った場所に「局(つぼね)屋敷跡と呼ばれる三段の郭がある」と現地の説明板に書いてあった。

我々は事前に「坪根平(つぼねだいら)」と呼ばれる尾根が居住空間であり、何らかしかの掘立小屋の跡である事を情報として入手していたので、進軍を開始する。

平倉城(小谷村) (61)数段の段郭が尾根上に展開している。

平倉城(小谷村) (66)位置確認を行う「ていぴす殿」ここからが坪根平だったのに・・。

「注進、黄色備えのスズメバチの攻撃有り。撤収すべし・・」

それはまさに予想しなかった事件であり、苦渋の決断であった。

単騎のスクランブル発進で我々に対して捨て身の攻撃をして来るとなると、巣は近いはずで、大群のスズメバチの来襲は時間の問題である。

「フン、飯森十郎の逆襲か! 急ぎ撤収じゃ!」

平倉城(小谷村) (65)急な斜面を必死で登り撤収する。

例年ならこの時期は」死滅しているスズメバチも異常気象で生きながらえている。

我々にとっては迷惑な話である。

中途半端な調査のままでアップするのも躊躇したが、その険しさ故に落城悲話の残る城は信州ならではのものであると思う。

次回リベンジ編ではハチ対策をしっかりとせねば・・・(笑)


≪平倉城≫ (ひらくらじょう 小谷城・白米城)

標高:790m 比高:330m
築城年代:不明
築城・居住者:飯森氏
場所:北安曇郡小谷村中谷平倉山
攻城日:2013年9月29日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:60分
駐車場:遊歩道入り口手前に路駐。
見どころ:郭、堀切、土塁など
注意事項:ハチに注意。カモシカも生息。
参考文献:「信濃の山城と館➐ 安曇・木曽編 宮坂武男著」
付近の城址:稲葉城、立山(平倉山の南の山で物見跡らしい)
Special Thanks:ていぴす様

平倉城(小谷村) (2)やっぱ登山になった平倉城遠景。














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Posted on 2013/11/12 Tue. 22:44 [edit]

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コメント

思い出す。。。。

お疲れ様です。
平倉城の辛さを思い出すと。。。。。(汗)
スズメ蜂のスクランブルも恐ろしかったです。
平倉城ですが落城時に謙信も援軍に近くの峠まで来ていたと云う伝承が
ありますが、どう見てもあの山を大軍で囲まれていたら謙信といへども
中々手出しは出来なかったのではないでしょうか。
山が険阻すぎるもの考えものかもしれませんね。
対岸の館山には信玄の平倉城攻めの陣城跡があるようですね。
見に行ってみたいものです。

ていぴす #- | URL | 2013/11/13 00:45 * edit *

Re:ていぴす様へ

険しい平倉城攻めに帯同頂きありがとうございました。
スズメバチの攻撃で撤収したのは残念でしたが人的被害が無く幸いでした・・(汗)

帰ってから気が付いたのですが、立山の写真が一枚も無いゾ(笑)
小谷村誌によれば立山には掘通しがあったと言われ土谷の石原の上方には「小屋場」、姫川には「館屋敷」の地名があるので、物見があったと推察しています。現在はアンテナ塔が立ち頂上まで車で行かれるようなのでリベンジ戦の時には立ち寄ってみたいと思います。黒川城も良く見えるようです。
険しすぎて後詰め出来ない城の立地も考えものですね・・(笑)

らんまる #- | URL | 2013/11/13 07:14 * edit *

お疲れさまでした・・・

らんまる様、でいびす様、お邪魔させて頂きます。

 平倉城踏査お疲れ様です。

 昨年私も平倉城をターゲットにしていたのですが、黒川城に半日かけ
体力を消耗した後でフモトから見上げたら、「無理・・・」と断念しました。

 その城をレポート頂き、嬉しい限りです。

 地形の険阻さに頼るのは大切ですが、平地の把握や、食料の補給等
課題を克服する必要がありますね。

武蔵の五遁 #- | URL | 2013/11/13 21:48 * edit *

Re:武蔵の五遁様へ

千国の黒川館から黒川城を見て「今回はパスして正解だった。五遁殿は登られたのか、スゲーや」(汗)
逆パターンだったようですねえ(笑)

平倉城は坪根平の踏査が目的だったので、悔しい思いでしたが謙信公並みの戦闘力を誇るスズメバチにヘッポコ足軽部隊が勝てる訳有りませんもの・・・(涙)

飯森城(一夜山城)の詰め城だったんでしょうネ。搦め手方面の防御が脆弱すぎて改修が間に合わず、それを知っていた武田軍はさすがと云うべきでしょうか。

らんまる #- | URL | 2013/11/14 08:02 * edit *

お疲れ様です

コメントありがとうございました。
「信玄を捜す旅」のShige様は、我々の先鞭をつけた、山梨・長野の山城のパイオニアとも言うべき方です。
しばらく雌伏(勉学)されていたのですが、今後の活躍が楽しみです。
信州の山城研究の急先鋒であるらんまる様も、ウカウカしていられないかも知れませんねv-8

マサハレ #- | URL | 2013/11/14 20:40 * edit *

Re:マサハレ様へ

信州の山城を知り尽くした方がご帰還されたとは嬉しい限りです。
貴殿も然るべきお方かと存じます。
小生のブログなど「臍で茶を沸かす愚行」に近いものがあり、いずれ淘汰されるのでしょう(笑)

らんまる #- | URL | 2013/11/14 20:51 * edit *

こんばんは。

「切った屋敷」に「首切り城」、なんともおどろおどろしい名前ですね。
それに志賀城攻めの時も三千の首を晒したというし、信玄のやったことは凄まじい。
これでは、地元民に嫌われるのも仕方ありませんね。
それにしても、これまで読んだどの本にも、こんな名前は載っていませんでした。
勉強になります。

万見仙千代 #- | URL | 2013/11/14 23:16 * edit *

Re:万見仙千代様へ

一族郎党皆殺しは復讐されないための常套手段で、平清盛は奥さんの頼みを聞いて頼朝を生かしたが為に平家一門は滅亡しました。
往時の戦争は軍紀が緩く戦場となった集落に対する兵隊の略奪行為、放火は当たり前。最大の目的は「人さらい」で本国に連れて帰って人身売買。謙信公率いる上杉軍も例外ではなかったといいます(汗)

落城悲話では必ず姫は自害し女子供は谷や池、川に身を投げます。そんな前知識があると現実的な選択肢だったんだと妙に納得してしまいますネ。

らんまる #- | URL | 2013/11/15 07:24 * edit *
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