らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

1126

猿ごや (松本市金山町)  

◆保福寺峠からの侵攻に備えよ◆

そして舞台は久しぶりの松本(深志)に移動する・・(笑)

ぶっちゃけ父ちゃんの小笠原長時さんにあまり好感がもてないので、倅の貞慶さんもあまり好きでない・・(汗)

天正壬午の乱で家康の支援を得てドサクサに紛れて信州に復帰した貞慶さん、父ちゃんを裏切って武田に与した奴らを片っ端から「血の静粛」と称して制裁を加え、一族郎党根絶やしの報復を行う。

昔から「人を呪わば、穴二つ」というが、祟りも恐れず恨みも忘れず、父の長時に刃向った奴は「徹底殲滅」という方針と有言実行には戦慄を覚えた・・(ギョっ)

猿ごや (62)バス停の名前に反応したら一人前(笑)正解は「とのいり」である。

「猿」とか「鬼」とかの名前の付く城攻めは小生の専売特許と勘違いしている方も多いようだ・・まあ、事実には違いないが・・(爆)

しかし、今回ご紹介する「猿ごや」(さるごや)攻めは同盟軍「ていぴす殿」の要請であり、関知していない。

その名から想像出来ると思うが、猿だって住まないと思う険しすぎる場所にある。

猿こや行程図
こんな行程での進軍なのだが、直登でテキトーに進むのでキツイ。

【立地】

戸屋峰(1629m)から北西に派生する尾根上にあり、金山沢を挟んだ東側の峰の尾根先には掻揚城(かきあげじょう 標高904m)があり、それよりも約200m高い1095m地点にある。
西側900mには見場城、更に西2kmには刈谷原峠を抑える荒神尾城(こうじんおじょう)がある。
東は保福寺峠、南の峰を越えれば三才山(みさやま)の品庄集落に出る要衝の地でもある。

猿ごや (57)登り口にある「信州ゴールデンキャッスル」。同じ城なのにずいぶん違うなあー(笑)

※ちなみに「こや」という名称は城や砦、陣などを指す名称で、漢字では「古屋」または「古屋」と表記されるケースがある。尾根にあるので根古屋と言われる場合もあり、場所によっては城の名前になっている事もある。

猿ごや (2)直登開始から15分もすると息も絶え絶え。景色は凄いことに・・(汗)

保福寺周辺は小笠原長時さんの領有時代は会田岩下氏と隣接する境目であり小県郡とも接する極めて重要な場所だった事は、武田氏の高白斉記に記された刈谷原城攻め記録からも見てとれるし、江戸時代に松本藩が口留番所を置いた事でも分かると思う。

猿ごや見取図①
こんな山奥の痩せ尾根にこれだけの縄張りを施す意味があるのか?

【城歴】

全く不明で「信府統記」にも記載が無く、「長野県の中世城館後」に掻揚城の物見として僅かな記載があるだけだという。
城跡を調べて分かるのだが、この城は掻揚城の縄張りよりも広大で全長250mもある。地山を生かしながら戦国末期までかなり加工した跡が随所にみられる。掻き揚城の詰め城と想定しても問題ないだろう。

猿ごや (13)息も絶え絶えで辿り着いた大手の最初の郭5。一段高くしているので櫓台のようだ。

遺跡に驚くならまだしも、こんな高い山の上でもニホンシカの食害が深刻なのである。

広葉樹の木々は立ち枯れ状態。普通の里山なら落ち葉の絨毯になるが、ニホンシカが初春の頃の若芽を食い荒らしてしまうので葉も生えず木が壊死している。禿山(はげやま)になるのは時間の問題だろう・・(汗)

【城を取る】

北へ張り出した尾根一本なので縄張りは一見シンプルだが、高低差に緩急をつけて要所を堀切で旨くカバーしている。それほど人数は収容できないが、こんな高地にこれほどの防御構造を持つのか・・という技巧を施している。
深志(古府中)の北の防衛ラインとして伊深~刈谷原峠ルートは伊深城・鷹巣根城・荒神尾城が押え、稲倉(三才山)~保福寺ルートは稲倉城(しなくらじょう)・掻揚城・7そしてこの「猿こや」や抑えたのであろう。

猿ごや (22)北側大手口から見た大堀切㋐。堀切と見るのか巨大な切岸として見るのは賛否両論で、小生もていぴす殿も切岸と見るのが妥当だと判断するが、神の見解は加工度の高い堀切である(汗)

猿ごや (23)東斜面には窪みがあるので、堀切とも見える。

城域入り口の尾根がV字に割れるので堀切を置いた可能性は否定出来ないし土砂で埋もれた可能性もありそうだ。

猿ごや (16)大手口と思われる北尾根。この先は中木戸という地名が残る。

痩せ尾根を削平した城域なので「一騎駈」とまでは言わないが攻め手は一列縦隊を強いられ難儀する。東西の斜面は急なので回り込む事も不可能だ。

猿ごや (24)郭5の先は小さな堀切があり郭4へ続く。

猿ごや (26)郭4は堀切㋒で分割されている。

郭4⇒郭3へは急な下り坂となり、通路を狭めて「一騎駈(いっきがけ)」に加工している。城の中心部手前の防御はかなり厳しいのが見て取れる。

猿ごや (31)郭3への通路。かなり狭い。

猿ごや (32)左右を「あれ」で削られた通路は郭3からの迎撃に晒されて攻撃軍はここで斃されるのだ。

「こや城」の最大の見どころは、郭4⇒一騎駈け(土橋)⇒郭3⇒堀切㋓⇒郭2(主郭)の防御構築の加工度の高さであろう。これは物見砦などではなく「要塞」である。

猿ごや (38)郭2から見た郭3と城域最大の堀切㋓(高さ9m)

猿ごや (33)郭3から見た堀切㋓と主郭方面。写真だとやはりスケールの表現は厳しい(汗)

城域での最高地点は郭だが、居住性や小屋掛けを考慮すれば郭2が主郭で、郭1は櫓台(見張り台)としての機能であろうか。

猿ごや (39)郭2(25×5)

猿ごや (42)郭2から見上げた郭1.「猿こや」のネーミングの由来は間違いなくここだろう・・(笑)猿のように登るのだ(爆)

猿ごや (46)郭1には神社の残骸がある。

猿ごや (45)遠くは会田まで見渡せる絶好のロケーション。普段は監視砦であったのだろうか。

搦め手の南側は段郭に竪掘一本という簡素なものだが、三才山方面は自領なので問題無かったのだろう。

猿ごや (54)搦め手方面。いざとなったらここを越えて三才山へ。

猿ごや (51)最終の竪堀㋔。西斜面に対してのみ長く落ちる。

恐らく小笠原貞慶さん時代の改修で戦国末期まで現役として保福寺街道に備えていたと思われる。
上杉景勝の配下となった真田昌幸が保福寺峠を越えて小笠原領へ侵攻するのを想定したのだろうか?
「小屋」というのは控えめな表現でありその実体は「要塞」だった・・・・

それにしてもこんな山の中、守備する兵隊もイヤイヤだったろうに・・・(汗)

≪猿ごや≫ (さるごや) 

標高:1095m 比高335m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市金山町
攻城日:2012年12月09日 
見どころ:堀切、郭など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:45分 駐車場:ゴールデンキャッスル様の駐車場借用
注意:細尾根転落注意。
付近の見どころ:鷹巣根城、掻揚城、見場城、荒神尾城など
参考文献:「図解山城探訪 第五集 松塩筑史料編 宮坂武男著」「信州の古城」
Special Thanks:ていぴす様

猿ごや (60)保福寺街道から見た猿ごや遠景。














スポンサーサイト

Posted on 2013/11/26 Tue. 11:54 [edit]

CM: 2
TB: 0

« 戦国の城を楽しもう  |  立屋の城峯砦 (北安曇郡小谷村千国乙立屋) »

コメント

信濃先方衆に心底 敬意を表します。

こんにちは、初めてコメントさせて頂きます。 以前より記事を拝見させて頂いています、近年の らんまる様はじめ信濃先方衆の御活躍は遠国まで鳴り響いております、我々水軍衆も度々信濃に攻めこみますが、その都度ボロボロになり、逃げ帰る始末です。真に信濃先方衆恐るべし! 因みに軟弱水軍衆の信濃山城ベスト5は月並みですが、お気軽に楽しめる埴原城、山家城、桐原城、旭山城、岩原城となっています。それでは今後も御活躍を!失礼します。

Butch #- | URL | 2013/11/27 14:37 * edit *

Re:Butch様へ

初コメを頂戴し、また「へなちょこ攻城戦記」を購読頂き恐悦至極でございます(笑)

なんせ地元なもんですから、山猿は地の利を生かして野山を倒れるまで駆け上がらないといけません(汗)
なので、たまに県外に出ると田舎のネズミになってしまい何処にどのような城が埋もれているのかさっぱりわからず貴水軍衆とほとんど変わりませんよ!(爆)

貴殿の選んだベスト5は魅力的な中信濃の城がほとんどですね。信濃は広いので攻城数が増えるとベスト50も選ぶのに迷う事必須になると思います。こちらにお越しの際は是非お声掛け下さいませ。
また、これからも良かったらコメント入れて下さいネ。

らんまる #- | URL | 2013/11/27 17:59 * edit *
コメントの投稿
Secret

トラックバック
トラックバックURL
→http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/528-6eac951e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top