らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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羽根尾城(長野原町)  

◆上州吾妻に覇を唱えた滋野一族 羽根尾氏の悲哀◆

羽根尾城は群馬県吾妻郡長野原大字羽尾の城峰山にあります。
この城の築城時期については不明ですが、歴代の城主である羽根尾氏は信州小県の海野の豪族滋野氏の一族として三原荘(嬬恋)の鎌原氏、草津の湯本氏とともに勢力を振っていました。

羽根尾城・鎌原城 016

滋野氏の宗家である海野棟網・幸隆(のちの真田幸隆)は、関東管領上杉憲政を後ろ盾としていたため、1541年 武田信虎・村上義清・諏訪頼重の連合軍に攻められ海野平の合戦で敗退し上州へ逃れる。

この時彼らを庇護したのが、この時の城主羽根尾幸全入道でした。
(羽根尾氏は幸隆の最初の妻の実家とも云われる)

羽根尾城・鎌原城 011
吾妻西病院駐車場より城跡へ通じる林道

その後、海野棟網と幸隆は上杉憲政の家臣の箕輪城の長野業正の元へ赴き関東管領上杉氏に旧領回復を願うが、その才覚の無さに失望した真田幸隆は、板垣信方の誘いもあり武田晴信に仕官することを決意する。
(海野棟網は沼田城付近で病没したとの言い伝えがある)

羽根尾城・鎌原城 012
↑本郭脇にある堀切

真田幸隆が武田軍の信濃先方衆として目ざましい活躍で武田信玄の信任を得て信濃征服をほぼ完了すると、西上野攻略を命ぜられる。
そんな中、羽根尾幸全は意図的に鎌原氏と領土境界線を巡り争いを起こし、幸隆は一族の調停役となるが、羽根尾氏はドサクサに紛れて鎌原城を乗っ取る。(幸隆が巧妙に仕組んだ軍事介入でしょうネ)
姑息な手段に怒った鎌原氏は武田氏に臣従し旧領を回復、羽根尾氏は岩櫃城の斎藤氏を通して関東管領となった上杉謙信に支援を求める。

羽根尾城・鎌原城 017
城の西側には腰郭が連続する

岩櫃城攻略の足がかりを求めていた真田幸隆は、この機を利用して長野原で合戦に及び鎌原氏と共に羽根尾氏を攻めて敗走させます。

この時、羽根尾幸全は討死したとも越後へ逃亡したとも云われています。

「まずは恩情を捨てる事から始めなければ 真田の明日は来ない」

武田に仕官を決めた時、自分を匿ってくれた羽根尾氏や長野氏という恩人に刃を向けなければならない宿命を、幸隆はどう感じていたのでしょうか。

羽根尾城・鎌原城 024
JR吾妻線の羽根尾駅から望む城址

その後、岩櫃城の攻防戦では羽根尾幸全の子だった海野長門守幸光と海野能登守輝幸の兄弟が斎藤氏を見限り、真田方に内応して勝利に貢献し、岩櫃城代となる。
昌幸の代となっても真田の信任は変わらず吾妻地方を統治していたが、天正九年(1581年)北条方への密通の嫌疑をかけられ 幸光は岩櫃城を急襲されて自刃。沼田城代だった輝幸は真田軍と沼田城外で戦闘となり女坂で討死する。(一説には地侍の妬みによる逆恨みと云われるが、昌幸らしい謀殺のやり方だと僕は思う)

羽根尾城・鎌原城 030

羽根尾城の登り口の山麓には海野長門守の墓がある。羽根尾氏の旧領の領民が亡骸を運び埋葬したと伝えられる。

滋野一族もまた生き残りをかけた同族争いの例外ではなかった。

場所:群馬県吾妻郡長野原町大字羽根尾城峯山(標高774m 比高差約140m)
攻城日:2009年9月6日
お勧め度:★★★☆☆
行き方:国道145号線の大津交差点を草津方面へ。途中で西吾妻福祉病院入り口で左折。病院駐車場より徒歩10分
※またはJR羽根尾駅北側の宗泉寺脇の「海野長門守の墓」からのルートもある(結構急峻な坂)
見どころ:土塁、堀切、腰郭 ※見晴らしは良くない

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Posted on 2010/08/08 Sun. 16:50 [edit]

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