らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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志賀城 (佐久市志賀)  

◆叛く佐久に対して徹底殲滅という答えを出された笠原氏の城◆

年末年始は「肝臓・消化器系耐久レース」である(笑)

さすがに年齢を重ねると、夜更かしや暴飲暴食などという愚かな行為はしなくなったものの、生活のリズムが乱れた現状で来週から「社会復帰出来るのか?」心配になる・・・(汗)

jiji1.jpg
食っちゃ寝ばかりでは、飼い猫にも劣る(アタシと比べるなってサ・・笑)

2014年のスタートは佐久地方を代表する志賀城(しがじょう)。

「何で今さら?」といぶかしがる読者もいらっしゃると思う。

実は過去何回か攻めようとしたのだが、城の近くに近づくだけで気が重くなり撤収を余儀なくされていたのである(汗)

まあ、この城についての城主・城歴はゴサマンと出まわっているので、小生のブログでは純粋に城跡見学とした。

志賀城見取図①

あ、それと念のために追記しておくのだがが、天文十六年(1547)閏七月に笠原新三郎清繁(かさはらしんざぶろうきよしげ)父子と上杉憲政より援軍として派遣された高田右衛門佑(たかだうえもんのすけ)父子が武田軍に攻められて落城・討死した「志賀の城」は特定に至っていない。志賀城の他に以下の二つの城が推定されている。

●笠原城(志賀城の南東1.5km) 長野県町村誌ではここを指しているが、遺構がほとんど見当たらないという
●高棚城(志賀城の北東1.1km) 千曲之真砂の説

いずれも笠原氏の持ち城で、宮坂武男氏は「笠原氏の要害城が志賀城にあり、詰め城が高棚城・笠原城であったというのが素直な見解」としている。

志賀城(佐久市) (1)
城の大手口に位置する雲興寺は笠原氏の居館の候補地であるという。

比高は160mとそれほど高い場所にある訳ではないが、南北を沢に挟まれた両側は険しい斜面で所々岩場の露出する峻険な尾根上に築かれている。

志賀城(佐久市) (9)
比高60m(約10分)ぐらいで城域に入る。

そのまま岩場に設置された複数の段郭を縫うように登ると堀切㋒と堀切㋓間の鞍部に出る。

志賀城(佐久市) (86)
黄色の↑の部分は堀切だったような痕跡がある。(現在は通路)

志賀城(佐久市) (134)
帰り道で気が付いたのだが、本来の大手は南尾根を直上した部分の虎口だったようである。

志賀城(佐久市) (87)
北の斜面に落ちる堀切㋓。

笠原父子と援軍の高田父子が籠った城は不明だが、以下「志賀の戦い」について復習しておこう。

【志賀城の戦い】

以下は高白斉記の記載。(年号は天文十六年)

●閏七月九日戊子、大井三州(未詳)其外御先衆出陣す。(前年に降伏・出仕した長窪城の大井父子か?)

●閏七月十二日、御出馬。

●閏七月二十日、桜井山(現臼田町)まで御着。

●閏七月二十四日、卯刻より午刻まで志賀の城を取詰なされ侯。

●閏七月二十五日未刻、水の手取りなされる。小笠原・金吾・山家参陣する。

●八月大己酉細雨。敵城の雲布のごとくなり。

●八月六日甲寅卯刻、板駿(板垣駿河守信方)其外動く。関東衆数多討ち捕られ申刻一戦。(笛吹峠の合戦)

●八月十日午刻、外曲輸焼く。子丑刻二の曲輸焼く。

●八月十一日己未午刻、志賀父子、高田父子討ち捕らる。

●八月十三日、城へ御登り持鎗進上。

志賀城(佐久市) (21)
郭2の西端は堀切を入れずに土塁でかさ上げしている。

志賀城(佐久市) (24)
志賀城で最大の面積を誇る郭2(52×6)

一方、志賀城の戦いについては妙法寺記にも書かれていて、以下の記載がある(年号は天文十五年とあるが誤りだろう)

「・・・・此の首ヲシカ城(志賀城)の廻りに悉く御懸候 是ヲ見テ要害ノ人数モ力(ちから)ヲ失ヒ申候 去ル程ニ水ニツマリ申候・・(中略)・・シカノ要害ハ八月十一日「ニ依田一門高田一族シカ殿御内ヲバカロウ平六左衛門尉兄弟八人去間以上討死三百計リ  シカ殿ノヲカミヲハ小山田羽州給テ駒橋へ御間心御申候ニ去程男女ヲイケトリニ被成候テ 悉甲州ヘ引越申候 去程二貫三貫五貫十貫ニテモ親類アル人ハ承ケ申候」

笠原三郎清繁の要請を受けて志賀城救援に向かった関東管領上杉憲政の援軍約二万は、碓氷峠を越えて小田井原(御代田町)に布陣するも、志賀城を包囲していた板垣信方らの武田軍の急襲を受け惨敗する。(笛吹峠合戦あるいは小田井原合戦とも)
その時に討ち取った兵士の首約三千を城の回りに懸け戦意を喪失させ、更に水の手を絶ったので城は落城し三百の討死となった。捕虜は全員甲州に連れ去られて笠原夫人は小山田信有の側室として宛がわれ、親戚縁者のある者は引き取られ、その他の者は人身売買されたという内容である。

志賀城(佐久市) (25)
郭2の背後の堀切㋔(上巾10m)

志賀城(佐久市) (33)
郭1までの間には数段の帯郭が通路を挟撃するような形で置かれている。

志賀城(佐久市) (38)
この石段は後世のものだろうか?

さすがに首を三千個も運んで城の周囲に晒したとは思えないが、城内から良く見える場所に何十個か置いたか、直接城内へ投げ込んだのであろう。(重たいのでボールのようにはいかないがパチンコの原理で飛ばす事ぐらいは出来たであろう)

それにしても凄まじい仕打ちである。死者に鞭打ち、捕虜は奴隷として売却。恐らく一時的に志賀城下は廃村になったかもしれない。

志賀城(佐久市) (42)
郭1の入口の石積み。土留めであろう。

志賀城(佐久市) (48)
郭1の南半分は笹藪に覆われていて内部がよく分からない。

志賀城(佐久市) (52)
主郭背後の堀切㋕。尾根を貫通させていないので堀というよりは大きな穴のようだ。

武田晴信(信玄)は、佐久平定を進めるが「降ってはまた反乱」を繰り返す佐久の土豪や地侍にしびれを切らせていた。

まして上野国の平井城でなお影響力を持つ関東管領上杉憲政、北信濃の村上義清との境目の地域でもある。

佐久平定戦を邪魔するヤツは徹底して殲滅する・・・志賀城は「みせしめ」となった。

上杉の援軍ごと叩き潰して彼の強烈な意思表示をしたのである。

志賀城(佐久市) (54)
郭5.主郭周辺はオーソドックスな作り。

志賀城(佐久市) (58)
岩盤を削った堀切㋖

志賀城(佐久市) (60)
東尾根の搦め手方面は痩せ尾根が続く。

志賀城(佐久市) (62)
最終の堀切㋗を上から覗き込んで撮影。降りれない事は無いであろうが、チョッと危険すぎなのでパス・・(汗)


【その後の佐久平定戦に与えた影響】

あまりにも凄惨な志賀城の戦いは瞬く間に周辺に広がり、対立する村上・小笠原にも深刻な動揺をもたらした。

しかし翌天文十七年(1548)二月、上田原合戦で武田軍が村上軍に敗れると反武田勢力は盛り返し、佐久においても村上の支援を受けた佐久衆が内山城や前山城を一時的に奪還している。

が、同年七月に塩尻峠の戦いで小笠原長時が敗れると、武田晴信は攻勢を強めて同時侵攻で佐久の平定を進め、九月には臼田の田口城、前山城を攻め落とす。他に十三の城が自落したという。

翌年には望月の春日城、小諸の平原城を攻め降して佐久の統一が完成する。

志賀城(佐久市) (77)
主郭の南側にも見事な石積みが残っているので必見だ。

さて、ツラツラと取り留めの無い解説と写真を掲示してきたが、その後の志賀城はどうなったのだろうか?

【西尾根に対する防御施設の増築】

武田統治下の志賀城は、戦線が川中島以北へ移ると利用価値も無く捨て置かれていたように思える。

武田滅亡後の天正壬午の乱で、旧武田領の信濃が北条・徳川・上杉の草刈り場となると、立地の重要性から再び注目され改修を受けたようだ。(根拠資料などないのであくまでも推定)

志賀城(佐久市) (88)
郭3の東端は重厚な石垣が施された堀切㋒。L字に曲げている。

志賀城(佐久市) (94)
郭3から見た堀切㋒。土留めの石積みなのでこの堀の東西で時代が違うのが分かる。

志賀城(佐久市) (96)
郭3の西方面。削平が荒っぽいので急いで造成したようだ。

志賀城(佐久市) (125)
西側正面から見た石塁㋑。

志賀城(佐久市) (127)
石塁㋑は郭3の側面に対して石垣として連結している。

志賀城(佐久市) (123)
武者走りのような郭4

志賀城(佐久市) (104)
西側城域最終の堀切㋐。

いかん、ツラツラとまた写真ばかり・・・(笑)

郭3から西側は全く別の構築物だということがご理解いただければ・・ハイ。

笠原さんの最後の地が何処なのかは不明だが、最後まで改修された城である事は間違いないであろう。

防御構造のしっかりした志賀城を捨てて敢えて小屋がけも出来ない笠原城で籠城戦を展開したという説が多いが、どうであろうか。少しでも標高が高くて上杉の援軍が来るまで持ちこたえられて、関東管領の住む上野国の国境に近いから・・・。其の説明が笠原城を最後の城とする根拠ならば納得できないのである(汗)

志賀城(佐久市) (151)
山麓より見た志賀城。

≪志賀城≫ (しがじょう)

標高:880m 比高:160m  
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市志賀
攻城日:2013年11月23日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:雲興寺の駐車場借用
見どころ:堀切、土塁、石積み、石垣
注意事項:痩せ尾根なので転落注意。
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編 宮坂武男著」「探訪 信州の古城」
付近の城址:五本松城、高棚城、笠原城、内山城、内山古城など

志賀城(佐久市) (148)
正面南には志賀城の支城と伝わる「五本松城」のシルエットがくっきり映る。






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Posted on 2014/01/03 Fri. 16:50 [edit]

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コメント

明けまして、おめでとうございます。

こんにちは、我々は通常勤務&自分の故郷は寺社詣で・餅を食べる習慣も無く、いつもどうりの日常です(笑)
志賀城は昨年の佐久遠征の際に訪れました、この辺も少しの移動で優良物件が次々と見られ 羨ましい限りです。十数㍍の岩壁上に縄張りされた城の数々は関東ローム層を見慣れた我々には斬新でした。
しかし、人間のやることは残忍ですね、軍人と民間人の区別が曖昧な時代背景を考慮しても、えげつない行為ですね。民間人を巻き込んだりChivalrous無き戦いは行うべきではありません。
それでは本年も無事任務?遂行を御祈りいたします、失礼いたします。

Butch #- | URL | 2014/01/03 19:08 * edit *

おめっとさんです。

本年、初アップですね。
懐かしい城です。でも、どこか不気味な雰囲気の城です。

この城、悲惨な伝承がありますが、正攻法で落とせる城じゃないですね。
いくら戦意を失っても、岩の上から投石するだけで攻撃側は大損害をだすでしょう。

落とすとすれば、降伏開城に追い込むか、裏切りを誘い、搦め手から侵入するかでしょうか。
そんな妄想を城址で巡らしたいもんです。

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/01/03 21:50 * edit *

Re:Butch様へ

ご丁寧にありがとうございます。誠に勝手ながら昭和の人間なのでお正月三ヶ日はお休みでございます(笑)

正月早々大量殺戮の城をチョイスするのは如何なものかと思いましたが、所詮は軍事構築物でありこの世に目出度い城などある訳がなく問題提起をさせていただきました。

貴殿にとっても素晴らしい一年となる事をお祈り申し上げます。

らんまる #- | URL | 2014/01/03 22:15 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

師匠、今年もお付き合いの程、宜しくお願い致します(笑)

丸一日かけて作成した記事にしてはプア過ぎました・・・(爆)
「生首三千」という妙法寺記の記述にはその昔に戦慄を覚えたものです(汗)
どうせ籠城戦になるのであれば、最先端の防御技術で武装した砦に籠りたい・・そう思うはずです。
山岳ゲリラ戦でなく上杉の援軍待ちの短期決戦なら、この城こそ「志賀殿の城」の本命でしょうネ。

らんまる #- | URL | 2014/01/03 22:37 * edit *

明けましておめでとうございます

今年も、お城めぐりの記事を楽しみにしてます よろしくお願い致します♪

戦乱の悲惨な歴史を伝える城でありますね…。  画像を見ると岩場を利用した堅固でシンプルな縄張は当時の様子をより物語る感じがします。 曲輪も多そうなので籠城の主力はやはりこのお城なんでしょうね


yama #- | URL | 2014/01/05 12:54 * edit *

Re: yama様へ

いつもご愛読いただきありがとうございます。
こちらこそ、本年も宜しくお願い致します。

上杉に援軍を頼んだばっかりに「みせしめ」として凄惨な仕打ちを受けてしまい背筋も凍る落城悲話となりました。錆びた刀剣や人骨が発見されるようなので、この場所に籠城したかもしれませんね(汗)
西側の尾根は戦国末期に部隊の駐屯地(前線基地)として増設された様に見受けます。
こういう細かい芸は意外と北条さんだったりして・・・(笑)

らんまる #- | URL | 2014/01/05 13:49 * edit *

ちょっと遅くなりましたが、明けましておめでとうございます

本年も宜しくお願い致します。

志賀城に行かれたんですね。
やはり「痩せ尾根 転落注意」 なんですか。
数年前に一度登城を試みたんですが、雲興寺の裏をちょっと登っただけで何だか眩暈がして、すぐに断念しました。
高い所や細い尾根、岸壁伝いなどがあると、転落恐怖症に陥って血の気が引くんですよ。
あの静かな志賀の集落に大軍団が入ったなんて、どうにも想像が出来ないです。
首を投げ込んだかもしれない・・・ですか。
首を三千も並べる場所が無いと思っていたけれど、それに類した事はやったんでしょうね。
恐ろしいことです。

万見仙千代 #- | URL | 2014/01/06 20:58 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

お年賀ありがとうございます。今年もよしなにお願い致します。

首狩り族にも似た悪しき風習を断ちきったのは信長さんだったようで、重たい首など持ち歩くと体力を消耗するので証言があれば良いとしたようです。
その後、首級の代わりに耳とか鼻が代用されたようですね。
名乗りを上げて一対一で決着をつける個々の決闘から、名も無き雑兵にさえ首を差し出さなければならない集団戦法への過渡期がこの時代だったのでしょう。

古墳の石室を破壊して城の防御構造に流用するのが平気で祟りなんぞ怖い訳などありゃしない(笑)
敵の生首をドッジボールの如く敵陣に投げ入れる事など朝飯前の所業(汗)

霊感は強くありませんが、以前の事も有り名所の志賀殿の首塚と呼ばれる有名な場所は今回パスしてます。
時々いたずらな霊がついてきてしまうので、登城前と登城後のお祓いは必須ですよ・・(汗)

らんまる #- | URL | 2014/01/06 21:40 * edit *

志賀城のこと

こんにちは

志賀城跡の下にあるお寺の住人です
志賀城のことがとても詳しく
まとめられており
感動してしまいました

うちにもたまに志賀城のことを
訪ねて来られる方がいて
説明するのも難しいので
あなた様のブログの記事を勝手に紹介
してしまいました

申し訳ございません

お城の大事な資料として
記事を
印刷してもよろしいでしょうか?
貴重な資料として紹介させていただきたく
存じます

またお近くにお越しの際は
ぜひまたお寺にもお寄りください

お寺の住人エミリーより

エミリー #- | URL | 2014/07/21 13:51 * edit *

Re: エミリー様へ

コメントありがとうございます。

こちらこそ駐車場をお借りしてお礼も申し上げず失礼致しました・・(汗)
裏山が有名な志賀城跡なので手っ取り早くお寺さんに聞いてみよう、という方もいらっしゃるのですね。
小生の適当な記事がお役に立つのであれば、未払いの駐車場代としてお使い下さい(笑)

佐久の志賀周辺の山城跡ははまだ何ヶ所か未訪ですので、落ち葉の積もる頃に出掛けたいと思っております。
その時にはお礼を兼ねてお伺いしたいと存じます。

また、宜しければ時々覗いていただき、何か書きこんで頂ければ嬉しゅうございます。
ご丁寧にありがとうございました。

らんまる #- | URL | 2014/07/21 15:26 * edit *

志賀城のこと②

らんまるさま

コメントのお返事さっそく
ありがとうございます

記事のことみんなすごく感心して
見ておられましたので
ぜひ資料として紹介したいと
思います

大変貴重な志賀城情報なので
大切に扱わせていただきます

お寺の住人たちより
らんまるさまのほうが詳しくて
とても勉強になっています

ぜひまたいらしてくださいね

お待ちしております

こちらのブログもまた拝見させて
いただきます

ありがとうございます

お寺の住人エミリーより

エミリー #- | URL | 2014/07/21 17:16 * edit *

Re: エミリー様へ

どこの馬の骨(少なくとも信州上田の馬ですが)とも知れぬ者の記事を取り上げて頂き恐縮です。
せっかくなので「独り言」(笑)

「叛く佐久を殺せば、草木も武田に叛くでしょう」

新田次郎の小説「武田信玄」で横田備中守が若き晴信(のちの信玄)に諫言するセリフは、強烈なインパクトで今でも小生の記憶に残っています。「女は遊び女に、男は黒川金山の鉱夫に・・」志賀城の落城後の仕置きは、武田に反逆するものへの見せしめとしては凄惨かつ強烈なものであり、信濃の各地の反武田勢力を恐怖のどん底に落とすには充分な効果がありました。

志賀城の落城時に生け捕りにされた志賀城主である笠原清繁の奥方は、戦利品として山梨の岩殿城の小山田氏の妾として甲州に連行されますが、驚いた事にその屋敷跡が「妾婦屋敷」(しょうぶやしき)の伝承として残っていました。
戦国大名などといえば聞こえの良い身分ですが、毘沙門天の生まれ変わりなどと称する上杉謙信でさえ人さらいや人身売買など当たり前だったのが戦国時代でした。

神社仏閣の趣味には未だ早いとか思ってますが、そのうちお世話になると思います(笑)
最近は現世(うつつ)で思い悩む事も多いので、ありがたき説法を授けて頂ければ・・などと・・・(汗)

冗談はさておき、また遊びに行きますので、宜しくお願いします。
ありがとうございました。

らんまる #- | URL | 2014/07/21 19:53 * edit *
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