らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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松岡城 (下伊那郡高森町下市田)  

◆信濃を代表する河岸段丘の不沈空母の最終進化形◆

先週末は三才になる孫娘の養育係としてAKB48の「恋するフォーチューンクッキー」を踊りまくり、城攻めは延期(笑)

縄張り図よりも「アンパンマンとその一味」の似顔絵はプロ顔負けなのだが、彼女には酷評されて凹む日々・・(爆)

今回ご紹介するのは「信濃における河岸段丘の総構えの城の実戦を想定した正しい改修方法」により進化を遂げた松岡城。

松岡城 (1)
上巾22mの堀切㋙。鼻からその凄まじい土木投下量に圧倒される。

【立地】

天竜川の右岸、北に間ヶ沢、南に銚子洞の二つの深い谷に挟まれた台地の先端部に立地し、南の段丘は崖も険しくかなりの要害地形である。南山麓の市町との比高は100m余りになり、左右の谷筋との間は、数十メートルの急崖である。西側銚子洞を隔てて200mに松岡南城がある。

松岡城見取図①
巨大な連郭の崖淵城は不沈空母の如き防御の最終進化形を誇る。

【城主・城歴】※高森町歴史民俗資料館のパンフレットより引用

1.発祥期(平安時代末期から鎌倉末期まで)

平安時代、前九年の役(1056~62年)で敗れた陸奥の安部貞任(あべのさだとう)の次男仙千代が市田郷の牛牧村に逃れて来て、郷民に推されて地頭となり、松岡を名乗り松岡平六郎貞則(まつおかたいらろくろうさだのり)と称した。これが市田松岡氏の初祖と云われている。
その最初の居館は今の上市田地籍の古城の地に構えたといわれている。鎌倉時代における松岡氏のことは鎌倉幕府の弓始の射手を勤めたことが「吾妻鏡」に表れる外は分かっていない。ただ、鎌倉時代の終わりまでの300年間は古城の地に館を構えていたと思われる。

松岡城 (2)
横堀㋙の西側は段差になっているが農道により改変されたらしい。松源寺(郭5・西総構え)の裏側の高土塁は往時のものだろう。

2.興隆期Ⅰ(建武の新政以後の南北朝期及び室町時代)

南北朝の争乱の世になるに及んで、平坦の地にある古城の館から段丘先端の要害の地に城を構築し移ったと思われる。それ以後、改易されるまでのおよそ200年間この「松岡本城」が松岡氏の本拠地となった。

松岡城 (3)
松源寺の裏側の土塁のアップ。郭1以外には土塁が確認出来なかった。改変されたと思われる。

南北朝時代から室町時代にかけて、松岡氏は信州武家方の棟梁である守護小笠原氏の武将として大塔合戦や結城合戦にも出陣し、牛牧・吉田等の郷内の諸族はいうまでもなく、座光寺・宮崎・龍口等の諸氏までもその傘下に組み入れるようになっていたという。

松岡城 (4)
東側の斜面の堀切㋘は横堀㋗と連結する。郭4と郭5を区切っていたが埋められてしまったようだ。

この松岡氏のことが史上にあらわれてくるのは、「安養寺記」によるち、城主松岡伊予守貞景(道山心公)は深く仏教を信じ下市田に安養寺を創建した。その子貞政は至徳三年(1386)亡父の三十三回忌を行い、且つ五部の大経二百巻を作り、これを同寺に寄進した。そしてその二百巻のうちの「梵網経」(上下二巻)のみが今も安養寺に残っている。その奥書に松岡城主貞政の自筆が残っており、これは松岡氏関係史料として最古のもので、松岡氏の経済力の豊かさを示す貴重な史料といわれている。

松岡城 (5)
堀切㋘との連結部分から南に走る横堀㋗。防御上の素晴らしい遺構が残っていて必見だ。

松岡城 (6)
この先を進むと堀切㋔㋕㋖と合流し集合掘となっている。松岡南城と同じ技法がここでも見る事が出来る。


3.興隆期Ⅱ(応仁の乱以後の戦国時代前期)

守護小笠原氏が家督争いで分立するに及んで、国内の統制が乱れ、豪族が互いに争う戦国の世になり、松岡氏も近郷の豪族を従えた。そうした中で、松岡氏は諏訪上社の神事や御射山祭の神事で頭役を何回も勤めている。

その頃の城主頼貞・貞正二代の時は松岡氏の最盛期であったと考えられ、領地も現在の山吹・市田・座光寺・上郷の一部を領有し、下條氏・小笠原氏と並ぶ南信濃の大豪族となった。貞正は仏法を信じ座禅の修行に励み明甫正哲居士と称し、永正年間(1510)の頃に牛牧に(後に兵火で焼け、現在の地に移された)松源寺を創建し、実弟文叔端郁禅師を開山した。なお、文叔禅師は、臨済宗妙心寺派の本山妙心寺の二十四世住持を勤めた。

松岡城 (10)
堀の巾は鉄砲の使用と共に広くなったと云うのは間違いで、土木工事にかける財力(労力)の差に他ならない。それにしてもデカい(笑)

4.興隆期(戦国時代後期)

天文二十三年(1554)甲斐の武田信玄は、自ら大群を率いて伊那に入り、抵抗のそぶりを見せた鈴岡城の小笠原氏と神峰城の知久氏を攻め落とした。その様子を見た松岡氏は抵抗は無理と考え、武田の軍門に下り自領の安堵を図った。そして松岡氏は五十騎の軍役を課された。一騎に対し5人の従卒を要したので、松岡氏は出陣の際にには200人余の軍兵を出したことになり、その力の大きさが偲ばれる。※小生は他の文献の八十騎(400人)という説を採用。

松岡城 (13)
現在は同じ敷地のように見える郭4と郭5は堀切㋘が貫通していたようである。

松岡城 (12)
思わず見とれてしまう堀と切岸の造形美。

5.衰亡期(安土桃山時代)

天正十年(1582)織田信長の軍が伊那郡に侵入し、飯田・大島両城を陥落させ、その後高遠城までも攻め落とした。此の時、市田郷の瑠璃寺・松源寺・安養寺などはいずれも兵火によって焼けてしまった。また開善寺や安養寺の梵鐘が上伊那や諏訪まで運ばれていったのもこのときの仕業といわれている。伊那郡は毛利秀頼の治めるところとなり、この時代の松岡城主は松岡兵部大輔頼貞で、頼貞は信長に帰順して、その本領を安堵された。

松岡城 (15)
堀切㋕の西側(果樹園)

松岡城 (16)
堀切㋕の西側(銚子洞)。城内の井戸(桧の井)のある場所で周囲の防御は極めて厳重な作りである。

ところ、信長の急死により、伊那郡は徳川家康の勢力下にはいり、郡司菅沼小大膳定利が知久平城にあって、上伊那郡を支配した。ところが、この頃は、信長の死後豊臣秀吉と徳川家康のどちらが後継者になるか決まっていなかったので、信濃の豪族も去就を決めかねていた。

松岡城 (22)
上巾16mの堀切㋔。約00m西の向こうには松岡南城が見える。

そうした天正十三年(1585)松本の小笠原貞慶は、徳川方から豊臣方に変心し、徳川方の保科氏を高遠城に攻め、逆に小笠原貞慶は大敗を喫して松本に退いた。このとき松岡右衛門佐貞利は徳川家康に誓詞を入れて臣従を約していながら、小笠原貞慶に味方し高遠の攻撃に向かったが、形勢不利とみて途中で引き返した。

松岡城 (23)
東斜面の堀切㋔と㋕の合流地点。

松岡城 (24)
集合堀となって㋔㋕㋖㋗は間ヶ沢川に落ちる。比高が無い為に横堀+集合堀という防御構造にしたのだろう。


ところが、それを家臣の坐光寺次郎右衛門が、伊那郡司菅沼定利に密告した。そこで郡司定利は直ちに松岡貞利を捕えた。後に松岡貞利は駿府の井伊直政に預けられ、家康の面前で座光寺氏と対決させられた。井伊直政は父、井伊直親をかくまってくれた貞利への恩に報いようとしたが、その願いはむなしく、天正十六年(1588)松岡貞利は改易を命ぜられ、その所領は没収された。

ここに「松岡古城」・「松岡本城」を本拠に約500年間続いた松岡氏の支配は終わりを遂げた。

松岡城 (28)
郭2。


【城跡】

在地土豪として勢力を誇った松岡氏の本城は、総構えの河岸段丘の城として中世から戦国末期まで改修され続けた貴重な遺構で規模も大きい。

恐らく当初は1・2・3の連郭の単純な崖淵城だったものを、総構えとして家臣の屋敷や兵士の掘立長屋を作らせ軍事構築物から政治における官庁としての機能を持たせようとして試行錯誤していたのかもしれない。

松岡城 (29)
郭1と郭2の間の堀切㋓。かなり埋まっている。

当初、城下町は城の北側の古城周辺にあったが、戦国時代には本城の南の崖下に移転したものと思われ城域の南側も新たに防衛措置の必要が生じていたものと思える。それは城域の南側の防御構造が後から追加された様子でわかる。

松岡城 (31)
郭1手前の土橋から見た東側の堀切㋓。本来は土塁が堀中に飛び出た所に門があり内枡形になっていたようだ。

松岡城 (32)
西側はL字の横堀となり銚子洞へ落ちる。

●郭1(55×35) ※ここでデジカメのバッテリーが息絶えてしまったので携帯カメラになります・・(汗)
中央を横断する縦の土塁と溝は嘗て料亭がここにあった時代の造作物らしい。
ここからのロケーションは素晴らしいの一言に尽きる。

松岡城② (3)
神之峰城方面のロケーション。解放感溢れる展望とはこの事に違いない(笑)

松岡城② (26)
郭1には兵隊500人は軽く収容出来そうだ

まあ、通常は本丸まで書いたらお終いにするのでしょうが、小生は南尾根の処理に執念を燃やしたい・・(爆)

思うにここが松岡城の戦国末期の改修に違いないからである・・。

●南尾根筋の処理
アテンド頂いた「ていぴす」殿曰く、本郭~山下虎口までの遺構は藪が酷く突入しても全体像が良く分からないらしいが、この日は藪が刈り払われて拝むことが出来ましたよ。彼もビックリしたらしく翌日も攻め込んだとか(汗)

松岡城② (20)
郭1の西側の横堀㋒。土手付きの堅固な仕様。

銚子洞側の横堀㋒と横堀㋓は意図的に連結させていない。双石虎口に門を置いて横堀㋓から城内に入るのを阻止している。横移動出来ないように沢に対して直角に土手が造成されている手の込みようだ。

松岡城② (21)
山下虎口から登って来た道は強制的に西斜面に移動を余儀なくされ双石虎口に出る仕組みになっている。

松岡城② (23)
北側から見た双石虎口。礎石らしきものがあるので、門が置かれたのであろうか。

郭1の南崖下は腰郭を置いて間ヶ沢方面へ落ちる竪堀㋑に横堀㋒と中間に削平地を組み合わせた複雑な作りになっている。

松岡城② (6)
落書きし過ぎて何が何だか・・(汗)

松岡城② (9)
東斜面の間ヶ沢に竪掘りで落ちる堀切㋑。

城下町や街道が南に移転し発展していくと松岡城の防御も変更せざるを得なかったらしい。

特に東の「間ヶ沢」は傾斜も緩く比高も無いので横堀の何ヶ所かは城門を設置したと思われる。

また、竪掘㋑から南の斜面には畝傍状の土塁を構築して敵の侵入を阻止する入念な造りに徹している。

松岡城② (13)
尾根伝いに築かれた土塁の左側(東斜面)へは畝傍状の土塁が沢へ向けて十条以上作られている。

松岡城② (17)
写真では表現出来なかったが、鬱蒼とした杉林の斜面には数条の放射状の畝が入っていた。

本当はもっと念入りに山下虎口について調査したかったのだが、タイムアップで次の城へ・・(悲)

まあ、一度で全て見ようなんて虫のイイ話はありませんよネ(笑)


≪松岡城≫ (まつおかじょう 本城)

標高:560m 比高:104m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡高森町下市田
攻城日:2013年2月10日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:隅々まで見るべし
注意事項:耕作地、民家には注意
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」
付近の城址:松岡南城、次郎城、古御家、松岡城、大下砦、北本城、南本城など
Special thanks:ていぴす殿

松岡南城 (40)
松岡南城からみた松岡本城。

実戦に及ぶ事は無かったが、中世城郭⇒戦国時代を駆け抜けた貴重な城跡だ。

内部告発で捕縛されなければ、松岡さんも家康相手に素晴らしい籠城戦を行っただろう。

城攻めのヘタクソな家康が手間取っている間に、さすがの秀吉も助け舟を出したように思えてならない。

歴史にifは無いが、下伊那を代表する素晴らしい城跡であり後世に伝えなければならない名城である。








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Posted on 2014/01/29 Wed. 22:34 [edit]

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コメント

迫力あるねえ

しかし、迫力ある堀と切岸ですねえ。
写真からそれが伝わるくらいですから、本物を生で見たら、お尻からため息が連続でしょう。ついでに野◯◯まで・・。
結局、戦国を生き抜けなかった一族、どこか悲しさを感じますが、この付近に帰農して子孫は根強く続いているのでしょうね。

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/01/30 22:57 * edit *

Re:あおれんじゃあ様へ

そういえば、昨日の読売新聞に某国営放送局の「軍師 官兵衛」の黒田家の出自は捏造された家系図である・・と興味深い記事があったんで思わず読んでしまいました(汗)

だいたい朝廷の公家にキチガイ番犬などと蔑まされたヤクザの親分のような武家の血筋に全うな経歴などあるはずもなく、適当に家系図を作っていたように思います。
松岡さんちも安倍貞任の末裔などと称してますが、真相は藪の中かと・・・(笑)
豊臣に心変わりした小笠原貞慶を処分出来なかった腹いせに松岡を厳罰に処して下伊那の豪族の見せしめにしたのでしょうね、家康さんらしいやり方です。
びくびくしながら徳川さんの顔色を伺って生きるよりも帰農するのが得策だったと思います。

らんまる #- | URL | 2014/01/30 23:26 * edit *

チバラギ的?

こんにちは、以前 訪れた際、チバラギみたいなのが信州にもあるのだな~と(笑)

Butch #- | URL | 2014/02/01 13:18 * edit *

Re: Butch様へ

昭和の人間なので千葉の人とと茨城の人が結婚するとこんな感じなんでしょうか・・(汗)
それとも「竹やり出っ歯」のヤンキー仕様という意味でしょうか・・(笑)

諏訪原城や小山城のように本来であれば城正面の縄張りであり本郭背後は加工しないはずが、城下町の移転により余計な防御構造を作らねばならなくなった、そんな感じですネ。前後に敵を受けたら松岡氏動員出来る兵力じゃ守備兵足りないと思いますよ(笑)

らんまる #- | URL | 2014/02/01 20:51 * edit *
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