らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0403

吉岡城 (下伊那郡下條村陽皐)  

◆戦国乱世サバイバルレースの勝者になり損ねた悲運の下条氏の居城◆

世の中には虚言癖という自覚症状のない病気の方が多々いらっしゃるようで、特に政治家さんに多いらしい。

チャックの閉まらないボストンバックに現ナマ5,000万円を詰めて運んだとノタマウ前東京都知事の方や、酉の市で戦勝祈願の熊手を買うために8億円の借金を申し出た○○なの党の○辺○美代表とか・・。金銭感覚がともかくオカシイ。

共通しているの、チョッと人気が出ると人間そのものが偉くなったような不遜な態度と言動。

「驕れるヤツは久しからず」と昔から平家物語も警告しているが、果たしてその通りに天罰が下るのである・・(汗)

吉岡城(下條村) (41)
国道151号線という名の新たな堀切(?)が城域を貫通してしまった吉岡城跡。(本丸橋から北大橋を撮影)

今回ご案内するのは、最後の詰めの一手を間違えたが為にキングボンビーに取り憑かれて潰された下条氏の吉岡城。

※キングボンビーとは、その昔流行したTVゲームソフト「桃太郎電鉄」(通称;ももでん)における史上最強のボスキャラであり、こいつに遭遇または取り憑かれると財産は全て没収された上に巨額な負債を背負わされる。ボンビー=ビンボーという業界用語だ。

吉岡城(下條村) (3)
現在公園となっている主郭(130×60)。下条氏の経歴と吉岡城の概略図が掲示されている。

【立地】

下条村南部の盆地状地形の中央部、南の沢川と北の沢川(牛ヶ爪川)とによって出来た台地上にあり、西より東へ緩い傾斜をした地形d、東へ行くに従い幅広くなり、末端部は阿南町に入り天竜川の渓谷に落ち込んでいる。

北東1.5kmには足畑山の狼煙台がある、南東1.2kmには大沢城がある。吉岡城に入ってくるには、四周からの道があり、その各々の要所に木戸を設けたようである。

吉岡城見取図①
コピペと模写は全く違う。現地を歩いて確認する作業が無ければ、図面をわざわざ書く必要も無いが、歩いてみると宮坂氏と微妙に違う解釈も有る。そこが中世城郭の面白いところである。


【城主・城歴】

吉岡城主は下条氏である。下条氏は甲斐の武田氏の一族で、室町時代に下伊那の阿南の地に来往したとされる。

後世の記録では初代頼氏氏より五代が大沢城を本拠としたのち、同族の小笠原政康三男氏康が継承したが、大沢城は要害ではあるが狭隘(きょうあい)のため、文明七年(1475)、富山に築城して地名を吉岡に改めたという。

以後、七代116年間にわたり居城とした。

吉岡城(下條村) (6)
主郭の西端に残る土塁。

吉岡城(下條村) (13)
主郭西側の大堀切の南側(上巾11m)。落差があり吉岡城の見どころの一つでもある。

吉岡城(下條村) (16)
神社の勧進による改変された北側の堀切。土留めの石積みも確認出来るが後世のものであろう。

下条氏は小笠原氏との縁もあって、その一族あるいは被官として勢力を張り、八代目の時氏の代の天文十三年(1543)には南の関氏を破るなどして、阿知川(あちがわ)以南と隣接する美濃・三河の一部までを領有した。

小笠原氏との関係では、応永四年(1400)、信濃守護小笠原長秀に従って大塔合戦で戦死した伊那武士の中に「下條美作守」、永享の乱後の永享十二年(1440)の結城城(茨城県結城市)攻めで幕府軍陣中奉行政康に従った中に「下條殿・同名下野守殿・同名山田河内守殿」、また「諏訪御符札之古書」文明十三年の条には「伊賀良庄小笠原政貞代官下条家氏」とある。

明応二年(1493)の鈴岡と松尾両小笠原家の戦いでは、下條氏は鈴岡側であった。

吉岡城(下條村) (18)
郭6に建つ寺尾神社社殿。主郭南側と西側の攻撃兵に対する火点(射撃陣地)だったと思われる。

吉岡城(下條村) (20)
主要な堀切二条の間にある郭6(寺尾神社)には往時も似たような櫓があったと想像出来る。

武田による下伊那侵略は九代目の下条信氏の時で、下条氏は武田氏にいち早く臣従している。通説では下条氏が武田の武力の前に降ったと云われるが、実のところは甲斐源氏で武田の支流の下条氏に対して信玄が懐柔策に出て、妹を娶らせ自分の一字を与えるという破格の待遇をしたのではないか?との説もあるようだ。

吉岡城(下條村) (21)
郭6の西の堀切は険しい斜面を効果的に利用し上巾13mというスケールを誇る。

信氏は武田軍における信濃先方衆の伊那衆筆頭として信玄・勝頼に仕え数々の武功を立てる。

天正十年(1582)二月、織田信長による甲州征伐の際に武田勝頼の命で伊那口の守備につき、攻め手の総大将の信忠軍を相手に健闘するも一族の家臣下条氏長の織田への内通により部隊を支えきれず嫡子信正と共に三河へ敗走。

徳川家康が信長には内緒で匿っていたが、失意で過ごすうちに嫡子の信正は病死、信氏も後を追うように急死してしまう。

吉岡城(下條村) (24)
城域先端の四差路交差点は南北の堀切跡になっている。

吉岡城(下條村) (26)
交差点の南側の竪掘を見下ろす。なるほど、強力な堀切跡だ。

主家を裏切り家督を手にした下条氏長は、信長が本能寺で横死すると下条家の家中から不忠者として反感を買い孤立していった。

下条家の家臣団が結束して、三河に逃亡していた信氏の次男の頼安に連絡を取りクーデターを計画。武田の旧臣の掌握を画策していた徳川家康はそれに同調し支援を行い、クーデターを決行。氏長とその一味を謀殺し頼安は吉岡城を奪還し旧領を回復し、下条家十代の当主となった。

吉岡城(下條村) (30)
郭7は坊垣外(ぼうかいと)と呼ばれ、周囲は立派な石垣が周回している。


【天正壬午の乱で徳川家康を支えた下条氏、そしてあっけない幕切れ】

吉岡城に復帰した下条頼安は、武田滅亡とともに旧領復帰を果たした神之峰城の知久頼氏、松尾城主小笠原信嶺(のぶみね)、伊那春近衆ら近隣の伊那の諸士を徳川方に帰属させる事に成功した。

吉岡城(下條村) (29)
郭7(坊垣外)から主郭方面。

武田旧領を巡る天正壬午の乱は、信長横死により息を吹き返した上杉景勝がいち早く川中島四郡を奪取し、残りの信濃(中信濃・佐久・伊那)、上野国及び甲斐は徳川と北条の草刈り場となった。

圧倒的な兵力を誇る北条軍に対して徳川軍は苦戦を強いられるが、甲斐国では武田遺臣を掌握しゲリラ戦で戦闘を有利に進め、信濃の佐久における攻防戦では依田信蕃が北条方となっていた真田昌幸の引き抜きに成功し北条勢を駆逐。

しかし、諏訪頼忠・保科正直が北条方として伊那に侵攻し、家康の後ろ盾で深志に復帰した小笠原貞慶が北条方に寝返る事態となり、奥平信昌、下条頼安・鈴木重次らの徳川軍は飯田城に籠城し北条の脅威に晒され続けた。

吉岡城(下條村) (32)
郭7の石垣はかなり本格的なので、下条氏廃絶の後に代官所が置かれた場所はここかもしれない。

天正十年(1582)十月末、清州会議で家康支援を決定していた織田政権が秀吉派と勝家派に内部分裂し援軍の派遣予定がが中止されると、徳川家康は北条と和睦する。

北条侵攻の危機が去った下伊那では、領土が隣接する松尾小笠原と下条氏の対立が激化し天正十一年(1583)の六月と九月の二度に渡り合戦が行われたという。

天正壬午の乱ではいち早く徳川家康に忠誠を誓い、数々の武功を立てた下条頼安に対して家康は下伊那の所領を切り取り次第に加増すると約束したのに対して、松尾小笠原の当主信嶺は本能寺の変に際しては、木曽義昌の所へ避難し徳川への従属表明が遅れた。

吉岡城(下條村) (35)
坊垣外から見た南の沢川と吉岡城南大橋。

もともと松尾小笠原家と下条氏は犬猿の仲であり、松尾小笠原家と敵対していた鈴岡小笠原家に属していたのが下条氏である。

この因縁はこの時に始まったものではなく。室町時代に三家に分裂した松尾小笠原家が鈴岡小笠原家を謀殺し断絶させると、鈴岡小笠原家に従属していた下条時氏を松尾城に呼び出し斬殺するというおぞましい事件があった。

吉岡城(下條村) (38)

小競り合いならともかく、合戦として記録されてる以上は徳川家康にも報告されたと思われるが、何の沙汰も無い。

「下条記」によると、下条氏と小笠原氏の合戦に心痛めた双方の菩提寺の住職が話し合い、和睦を提案し小笠原信嶺の息女を下条頼安に嫁がせる事で合意したと云う。

天正十一年(1583)十二月に輿入れし、翌正月二十日に下条頼安が松尾城の舅である小笠原信嶺に挨拶に伺い、その場で斬殺されたという。頼安は享年二十九才だったという。歴史は繰り返されてしまった。

吉岡城(下條村) (42)
道路の堀割りにより城跡は国道が貫通している。事前に発掘調査が実施され出土品も多数見つかったという。

ところが、これだけの大事件でありながら徳川家康は見て見ぬふりをしたばかりではなく、騙し打ちした小笠原信嶺にも沙汰を課す事もしなかった。
用済みにありつつある下伊那の豪族が互いに消耗戦で潰し合ってくれれば、片づける手間が省ける・・・そんな程度にしか思っていなかったのだろう。

下条家は勇将頼安を失い、信正の嫡男牛千代はまだ十歳。弔い合戦も出来ずに耐えるしかなかったらしい。

吉岡城(下條村) (44)
見取図に示した郭2。想像でしかないが、本郭は上下二段で郭2と郭3も含めていたと思われる。

吉岡城(下條村) (47)
公民館の建っている場所が郭3。

天正十二年三月、小牧・長久手の合戦で徳川家康より参陣を求められ初陣を果たした下条牛千代は、その後も徳川の先方として働き、木曾義昌が秀吉方に寝返り家康の重臣石川数正が豊臣へ出奔しても動じる事無く、徳川に忠誠を立て伊那衆の中心的存在となっていた。

吉岡城見取図①
文章が長くなっているので、見取図を再掲載(汗)

吉岡城(下條村) (49)
郭2と郭4(二の曲輪)との間の堀切。石組は後世の土留めの為の造作のようであるが、どうだろうか。

徳川家康も領国信濃に対する秀吉の調略で木曾義昌に次いで小笠原貞慶、更に真田昌幸が反旗を翻すに至り、下条頼安亡き後の下条家の動揺を抑えようとして牛千代には自らの名前の一字を与え「康長」とし、感状を与え美濃の領地まで加増したという。

吉岡城(下條村) (48)
同じ堀切だが、北側はこんな感じ。

これだけ徳川に対して忠義を尽くした下条氏だったが、その幕切れは呆気なかった。

天正十三年(1585)八月、真田昌幸の上田城攻めで徳川軍として陣中にあった下条氏は、陣小屋で火事騒ぎを起こした。下条氏に謀叛の嫌疑がかけられ、幼少の当主牛千代に代わり家臣が抗弁し、失火の原因となった家来の佐々木氏を成敗する事でお咎め無しとなった。

ところが、失火原因を作った佐々木氏は逃亡し無実を主張し精巧に捏造した証拠書類を徳川家に提出し逆提訴に及ぶ。

キチンと申し開きもせずパニくった下条家の六人衆の家臣たちは、伊那郡代の菅沼定利によって飯田城に軟禁されていた牛千代(康長)を連れ出し逃亡という愚行に及ぶ。

是に怒った菅沼氏は六人衆を探し出し処刑。他の下条家の家臣は康長とともに他国へ逃れ下条家は完全に没落してしまった。

以上は下条記に記された話であり、史実の裏付けの史料は何一つ無いと云うが、案外そんなことなのかもしれない。

徳川家康にしてみれば、用済みになった下条家を取り潰す思案をせずとも、相手が勝手にコケたのだからラッキーと思ったのであろう。

吉岡城(下條村) (57)
見取図の郭4と郭5の境が二の曲輪と三の曲輪の境界で、二の門があったと標柱が示している。

吉岡城(下條村) (60)
枡形址。説明板には「県下の中世の城館にはあまり見られないので貴重」だそうだが、そうだろうか。

吉岡城(下條村) (65)
見取図の郭5と郭8の間には水路となった推定「堀跡」がある。石積みは往時のものだろうか?


【城跡】

城域は西方から東方にかけて緩やかに傾斜しており、西から出曲輪(郭7)・殿曲輪・本曲輪(主郭)・二の曲輪・城下に空堀で区画される。

本郭は東へやや傾斜しており、本城と呼ばれる。二の曲輪は本曲輪と堀を隔てて東方に続くなだらかな平地で、本城ともいうが上町・屋敷町ともいい、家臣の屋敷地であったという。

二の曲輪の東北隅を大手裏といい、このああたりが大手とみられる。二の曲輪の東方は城下町で中心に竪町、そこを下ると横町があり、その先には馬場・小路・紺屋屋敷・門屋などの地名がある。

吉岡城(下條村) (69)
大手裏と伝わる場所。

吉岡城(下條村) (72)
大手門跡。

吉岡城(下條村) (73)
高札場あたりが城下町の東端のようだ。

さて、長々と書いてしまった下条物語は如何だったでしょうか?

伊那の土豪は早めに信玄に降ったので家名の生存率は高かったのですが、天正壬午の乱あたりで武田領に侵攻してきた徳川家康の為にイッキに淘汰されてしまい、結局最後まで残ったのは高遠の保科家と松尾小笠家だけという過酷な結果となりました(汗)

そんな悲しい伊那の戦国時代背景を思い浮かべながら城跡を散策するのもお勧めです。

≪吉岡城≫ (よしおかじょう)

標高:525m 比高:33m
築城年代:不明
築城・居住者:下条氏
場所:下伊那郡下条村陽皐(ひさわ)
攻城日:2014年3月23日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:本丸公園に駐車場有り 
見どころ:郭、堀切など
注意事項:民間の住宅地での撮影はプライバシーに注意。耕作地への侵入は禁止。
参考文献:「信濃の山城と館⑥諏訪・下伊那編 宮坂武男著」「信州の古城」「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」(2013.6 平山優 著)
付近の城址:大沢城、上田城、八幡城、矢草城など
Special Thanks to ていぴす殿

吉岡城(下條村) (1)
本郭の公園にある散策図を参考にされても良いかと。












スポンサーサイト

Posted on 2014/04/03 Thu. 12:53 [edit]

CM: 8
TB: 0

« 日差城 (下伊那郡阿南町新野)  |  大沢城 (下伊那郡阿南町富草) »

コメント

悲しい物語です。

巨大勢力に翻弄される田舎の土豪の物語、思わず引き込まれました。
主郭部を貫く国道が物語とぴったりです。
でも、ご子孫は続いているので、その点は救いでしょうか?

しっかり造られた城のようですね。
田舎の集落内の光景もほのぼのしていいですね。

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/04/04 22:44 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

師匠、コメントありがとうございました。これからの励みになりました。

ぶっきらぼうなんですが、その実直さ故に人を疑う事も出来ずに滅ぼされた信州の豪族たちには「哀れ」という言葉と、どうしようもない同情の念を禁じ得ません。
神之峰城の知久氏も武田氏に抵抗して滅ぼされ、孫の代にようやく復帰したと思ったら徳川に嫌疑をかけられ腹を切らされて没落。松岡氏も秀吉が後詰めするという貞慶の甘い言葉に載せられて判断を誤り保科攻めに向かい家臣の座光寺さんの讒言で改易。
生き残ったかと思われた木曾義昌も最終的には家康に追放されるという有り様でしたね。

地元だからこそ書ける、城にまつわる敗者の悲しい物語を伝えていきたいと思っています。
ありがとうございました。

らんまる #- | URL | 2014/04/05 00:08 * edit *

長野県在住で特に下伊那の土豪(国人)に関心がある者です。
下伊那の土豪についての情報はネットでもあまり見かけませんが、
偶然こちらのサイトを見つけ、その詳細なレポートに感服いたしました。

関心がありちょっと質問させていただきたいのですが、
武田氏侵攻以前の下伊那の土豪の勢力関係(勢力図)はどのようなものだったのでしょうか?
松尾小笠原氏が最大の勢力で、ほとんどの土豪はその支配下で敵対することなくまとまっていたのでしょうか?

長野ロマン #- | URL | 2016/02/13 20:05 * edit *

Re: 長野ロマン様へ

コメントありがとうございます。小生も伊那谷の国衆についてはまだまだ勉強不足ですが、参考文献から抜粋したものですが、以下の認識を持っています。

●平安~鎌倉時代
南信濃源氏の祖は源為公(ためとも)で、上の平(箕輪町)に居を構え、その子孫として片切氏があり、ここから大島氏、名子氏、前沢氏、赤澤氏、飯島氏、岩間氏に分かれ繁栄したとう。知久氏は諏訪神氏の分流ではじめは上の平に土着していたが知久平に館を移し竜東一帯を支配した。他には松岡氏、遠山氏、小井出氏があり各地に勢力を広げていったと思われる。

●南北朝時代
南朝方の宗良親王を支えたのは大河原城の香坂高宗で、知久氏、諏訪氏、藤沢氏もこれに従ったという。一方北朝方は信濃守護の松尾小笠原が天竜川の西側の諸氏(宮田氏、上穂氏、片切氏、飯島氏、大島氏、名子氏、松岡氏、飯沼氏、座光寺氏、坂西氏)をまとめ、南朝方に対峙したという。大塔合戦では知久氏、藤沢氏伊那衆として守護の小笠原軍として従軍。その後の結城合戦では伊那の国衆は幕府方として参戦している。(下条氏や関氏もその名が見える)

●信玄侵攻前の戦国時代
惣領家を巡る争いで小笠原家が三家(府中・松尾・鈴岡)に分立。松尾小笠原家は求心力を失い、鈴岡小笠原を支持する下条氏との抗争が勃発。新興勢力の関氏も南信濃に覇を唱え下条領に侵入。南信濃和田では遠山氏が地盤を固めて天竜川を挟んだ対岸の関氏に対抗。小競り合いはその程度で、松岡氏、知久氏、藤沢氏、坂西氏は比較的安泰を保っていた。
天文十四年(1545)四月、抵抗する高遠頼継を掃討すべく武田軍が伊那谷に侵入すると高遠城は自落。そのまま伊那谷を進軍し小笠原長時の娘婿の守る藤沢頼親の守る福与城の城攻めとなった。
この時、府中小笠原と鈴岡小笠原は福与城に後詰めを行い、伊那谷の諸氏も反武田として福与城に籠城。約二か月武田の猛攻に耐えたが小笠原軍が撤収したため止む無く開城、城は破却された。
その後はご存知の通りかと・・・。

貴殿のご指摘の通り、南信濃の国人を取り上げた記事は少ない。残念な事です。特に下伊那において、室町・戦国を生き抜いてきた国衆は松尾小笠原を除いて全て姿を消しました。滅びていった彼らの経歴を少しでも記録していきたいと思っています。

らんまる #- | URL | 2016/02/13 23:00 * edit *

らんまる様、解説ありがとうございます。伊那谷では国人同士の争いは頻繁にはなかったのですね。武田軍の伊那谷進軍に際し、抵抗したのは知久氏だけで残りの諸氏は抵抗せずに恭順かと思っていましたが、小笠原や諸氏も反武田で抵抗したのですね。大変参考になりました。

武田軍の伊那谷進軍前、伊那谷で最大の軍事力を擁していたのは松尾小笠原氏なのでしょうか? 伊那谷に松尾小笠原氏に対抗するような勢力は存在しなかったのでしょうか? 伊那谷の最大規模の城は、松尾城だったのでしょうか?

関心あることばかりで質問攻めをしてしまいますが、お時間のあるときにでも、らんまる様の認識で教えていただければ幸いです。

長野ロマン #- | URL | 2016/02/14 14:04 * edit *

Re: 長野ロマン様へ

伊那谷の戦国時代に興味を持たれるのは大変素晴らしいと思います。小生もまだまだ勉強不足で、この地方をキチンと理解するには南北朝時代~室町時代の流れを抑えておく必要があります。特に小笠原氏の惣領職を巡る三家の争いがポイントになると思います。
小笠原家の家督は「家伝文書」を持つ者に権利があるとされ、この文書を巡る争いで松尾・鈴岡両小笠原家は対立し、明応二年(1493)、毛賀川を挟んで合戦となり、鈴岡小笠原家は敗死、断絶。ところが、これを知った府中小笠原氏と縁戚となっていた下条氏は松尾城の小笠原定基を攻める。定基は家伝文書を持って甲斐の武田氏の元へ逃れます。府中の小笠原長時は弟の信定を鈴岡城に入れ鈴岡小笠原家を再興させる。天文二十三年(1554)、武田軍の伊那侵攻に際し松尾小笠原定基の孫の信貴は武田の先鋒として鈴岡城を攻め、その功績により旧領を安堵され松尾小笠原家を再興した。(この時、下条氏も武田に降り信玄の妹を娶っている)
下伊那は飯田城の秋山信友を郡代とし、その配下として下条150騎、松尾小笠原100騎、松岡50騎の軍役を命じている。(※1騎につき徒歩兵4名~5名の計算)
軍役は国人の領土や経済力基盤を考慮して決められるので、この時点では下条氏が南信濃では最大の兵数であったと推定できる。そして下条氏と松尾小笠原氏は前述したとおり犬猿の仲である。(この因縁が原因で下条氏は戦国時代を乗り切る一歩手前で滅びた)

また、伊那谷の城ですが、その多くは河岸段丘を利用した平山城が多いのが特徴です。代表する城としては、甲州流の縄張りが見事な大島城(松川町)、武田軍ですら落とせなかった福与城(箕輪町)、飯島城(飯島町)、下伊那最大の連郭群の松岡城(高森町。付近の支城もみどころ満載)、下条氏の吉岡城、そして松尾城と鈴岡城。

貴殿が下伊那在住であれば、図書館等で「下伊那郡史 第六巻(室町時代)」を是非お読みすることをお勧めします。
非常によくまとめてあり、史跡についても掲載されております。小生も参考にさせていただいております。
伊那谷の城と歴史は興味が尽きません。小生もまだまだ修行中でございますw

らんまる #- | URL | 2016/02/17 10:06 * edit *

丁寧な解説ありがとうございます。特に下伊那の国衆の外交に興味があります。
秋山が郡代の時代、南信濃では最大の兵力を動員できたのは下條氏なんですね。
下伊那の国衆は皆秋山の配下かと思いますが、国衆の総代というのは松尾小笠原だったのでしょうか。興味あります。
我が先祖はどうも松岡の家臣だったようで、家臣が列挙されている文献に我が苗字と同じ人物が在り、その人物がどうも祖先だということです。文献が今手元にないため記憶があいまいなのですが、家臣のなかには名前に○○守とあったり、名前の側に弐騎とか参騎とか書かれていた記憶があります。疑問なのですが、山間の田舎の小さな国衆の家臣でも○○守と名乗っていたのでしょうか? 例えば同じ○○守と名乗る人物は、大名から国衆の家臣まで際限なく全国に何人もいたのでしょうか? 名前の側にある弐騎とか参騎とかはその人物とどのような関係があるのでしょうか? (弐騎とか参騎とかは赤鉛筆で書かれていたような記憶も・・・。)興味は尽きません(爆)
長年城廻はしていませんが、松本城、高島城は何度も行きました。下伊那の城跡は、台城、松尾城、鈴丘城、吉岡城に行きました。その当時はただのドライブ・散策ですが・・・。私は面倒くさがりの他力本願ですが、いつか機会を作って「下伊那郡史 第六巻(室町時代)」に目を通したいと思います。

長野ロマン #- | URL | 2016/02/19 16:22 * edit *

Re: 長野ロマン様へ

中世~戦国時代の楽しみ方は人それぞれに違うものだと思います。戦国大名あるいは国人から入る方もあれば、小生のように山城や館という遺構から入る、或いは歴史小説に触発されて・・とか、はたまたご自身のルーツを探して・・という方も中にはいらっしゃいます。

「徹底して文献資料を片っ端から読み漁る」も良し、前知識無しで山城や城館を巡り後からその経歴を調べるも良し・・・
まずは行動を起こすことが肝要かと。
伊那谷の戦国時代を語るブロガーは少数ですので、地域密着型として極めると面白いと思います。
景ながら貴殿のご活躍を祈念しております。

らんまる #- | URL | 2016/02/19 21:00 * edit *
コメントの投稿
Secret

トラックバック
トラックバックURL
→http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/580-5e10bf8c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top