らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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山田高梨居館  

◆高野山への参拝中に本家に乗っ取られた分家の居館跡◆

「矢留め」とはなったものの、先週末も相変わらず北信濃の山ノ内町あたりをウロウロしていた。

んで、昼飯食べに寄った湯田中温泉駅に変な(?)ラッピング電車が止まっているのを発見!

モンハン①

「モンハン特急??」  (1939年のノモンハン事件なら歴史で習ったのだが、それと違うの・・汗)

同行していた家人に聞いたところ、人気ゲームの「モンスターハンター」と渋温泉の「スノーモンキー」(温泉に浸かる猿の事)のコラボ企画らしい。

モンハン②

らんまる:「そんじゃ、温泉に入るモンキーを退治しに出掛けるっちゅうゲームなの?、んで丸焼きにして食べるの?」

家人:「・・・・・・・(アホか!)・・・」

スノーモンキー①

小生もその昔、XBOXでネトゲにハマってしまい、俳人廃人になる手前で足を洗った過去がある・・・(笑)

モンハン③
湯田中温泉街の中にも「モンハン集会所」なるブースが出来ていたので興味のある方はこの電車で来てネ!

さて、山ノ内町の観光大使に任命されている訳ではないので、本題に戻り「山田高梨居館」のご案内をしよう。

山田高梨居館(高山村) (3)
標柱が無ければただの果樹園で、何が何だか・・(汗)

【立地】

上高井郡高山村の駒場集落の東側の果樹園が居館跡と推定されている。山田神社の北東にあたり、「堀之内」の畠と呼ばれている。一帯は松川によって形成された段丘面で、西から北、東にかけて屏風のように山が連なり、南面した山懐で、南に松川の谷がある為に、自然の要害地帯である。後背の山頂には滝ノ入城があり、東側の尾根を越えた先には枡形城がある。

山田高梨館見取図

【城主・城歴】

枡形城の記事でも解説したが、高梨一族は同族による寺社領や守護領に対してしたたかに押領(おうりょう)を進め、中央政権が介入しようものなら同族一揆で対抗し支配権を確立していった。

この山田においても鎌倉時代から文明十六年(1484)まで、高梨氏の有力な分家が駒場に居館を構えていた。高梨日向守高朝は、山田城(枡形城)を要害として、当時大熊、江部を領有していた。

分家の支配領土の拡大は、惣領家の意に反逆ありとみなされ、同族同士の対立となった。

山田高梨居館(高山村) (4)
標柱があるだけマシだが、消えかかっている(汗)

高梨家の中興の祖である高梨政盛(謙信公の叔父)の活躍については、別の機会でご紹介したいと思うので、ここでは通り一遍の解説となるが、ご容赦願いたい。

隠居した政高の後継の政盛は、文明十六年(1484)、分家の高梨朝高が高野山参拝中に山田城を急襲して朝高を追放する。この瞬間から「一族一揆=同族同盟⇒所領安堵の主従関係」に変わったのである。

山田高梨居館(高山村) (6)

惣領家が一族・分族をまとめながら平穏に暮らす時代は終わり、敵から領土を守りかつ拡大していく政策に方向転換していく必要に迫られた訳である。

故郷に帰還出来なくなった山田高梨氏は小県郡の高梨郷(現在の上田市西内)に落ちのび、最終的に真田家に仕え、その後奥州に渡り仙台藩に召し抱えられたと云うが、ハッキリした事は分からない。

山田高梨居館(高山村) (5)
方形居館であるとするなら、納得出来るサイズではある。

【館跡】

現在、一帯は果樹園になっている。堀形も土塁も全く確認出来ないが、標柱のある場所から農道西側がやや方形になっているので、このあたりだろうと想像してみるしかない・・・(汗)

山田高梨居館(高山村) (7)
こんな感じなんでしょうネ。

この時、高梨本家の本拠地は「くぬぎ原庄」にあったと云われている。(現在の小布施町の下六川周辺とも)
中野氏の所領への進出を企む高梨政頼にとっては、間山峠や大熊峠という重要な間道を押えている分家の朝高が邪魔になったのかもしれない。

せっかく高野山にお参りに行ったのに、家も城も、まして領地も失うとは・・神様の御利益などあったもんじゃない・・(笑)

≪山田高梨居館≫ (やまだたかなしきょかん)

標高:514m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上高井郡高山村駒場
攻城日:2014年4月27日 
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-  駐車場:ふれあい広場
見どころ:ー
注意事項:耕作地には入らない事
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「信濃高梨一族」(平成19年 志村平治)
付近の城跡:枡形城、滝ノ入城、城山城など

城山城(上水内郡高山村) (84)
須田領の城山城から見た居館とその周辺。(中央を流れる松川が高梨領との境界線であった)





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Posted on 2014/05/24 Sat. 08:07 [edit]

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« 腹が減っては戦(いくさ)も出来ず?  |  福島城 (須坂市福島) »

コメント

どこに行った?高梨さん

北信濃の土豪さんたち、その後の動向を調べるのも面白いですね。
芋川さん、島津さん、春日さん、平林さん、須田さんなどは米沢藩の家臣でも重臣として続いていますし、屋代さんとかは徳川家臣だし、大日方さんみたいに帰農して今につづいていますが、この高梨さんは曖昧ですねえ。
真田の家臣ですか?
ジャンプの高梨沙羅さんは子孫かなあ?

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/05/27 08:20 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

師匠、高梨さんちのその後については中野小館でご紹介しようと思ってますが、もったいぶらずにチョッと披露しましょう(笑)

謙信の叔父の政頼さんは川中島合戦で越軍の先方衆として活躍し、謙信と敵対していた一向宗の大元である本願寺証如上人に面会し、謙信上洛に貢献している。政頼の嫡男である喜三郎は御館の乱で景勝方となり討死したというのが通説であるが、北条方だった真田昌幸にそそのかされ内通が発覚し景勝により誅殺されたらしい。(この系統はのちに尾張藩に仕え、尾張高梨家として存続)
喜三郎の跡を継いだ弟の頼親は中野居館にすぐには戻れず安源寺城を築城。文禄の役で朝鮮に渡航し活躍するが、文禄三年の伏見城修築工事で訴訟騒ぎを起こされ他の六家とともに改易。
が、先祖の上杉家に対する貢献で家名存続を許され、長谷堂合戦での貢献を認められて頼親の嫡男頼清が米沢藩500石を支給され幕末に至る。

そんな感じです・・目出度し目出度し(笑)。でも村上さんはダメでした・・・(汗)


らんまる #- | URL | 2014/05/27 21:14 * edit *
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