らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0528

大岩城 (須坂市日滝)  

◆険しい尾根の稜線上に築かれた大岩郷須田氏の要害城◆

「食べログじゃないので、真面目に山城の記事を掲載してチョーだい!!」

そういう影の声が聞こえそうなこの頃ではある。

「手抜き記事が多いのでは?」とお叱りを受けそうだが、不器用な凡人の努力は報われないのであろうか・・・・・(笑)

大岩城(須坂市日滝) (3)
大岩城を無理なく攻めるのなら、北東の尾根がセオリーだと宮坂先生もおっしゃっている。なのでそのコースを辿る。

今回ご紹介するのは、痩せ尾根の岩盤を利用し周囲の切岸を石塁で覆った大岩城。

【立地】

明覚山(みょうかくざん 957.8m)から北へ派生した尾根上にあり、細長く険しい岩山で、要害堅固な地形で近寄りがたい。後背の尾根を登り切ると、明覚山の山頂の東の山になり、そこには雨引城(あまびきじょう)があり、大岩城の搦め手を守っている。
雨引城のある山(明覚山)は、高山村や日滝地区と、南の豊丘、塩野地区との間にあり、両地区を結ぶ謙信道と呼ばれる灰野峠がある。

須田氏山城縦走MAP①
里山といえども踏査前のルート選びは入念に行う。しかし計画通りに登れるほど山城の立地は甘くないのだ・・(汗)

大岩城(須坂市日滝) (13)
斜面に数段の段郭を見ながら郭7へ。この先の尾根は痩せた岩場が続くので防御は不要としたのであろう。

「なんだ、楽勝じゃん・・・」

そう思ったのもつかの間、ここから本城までは長く険しい道のりだったのだ。

大岩城見取図①
険しい場所にある山城の縄張図は等高線をトレースする作業が凄く面倒臭い。

大岩城(須坂市日滝) (16)
10分ほど尾根を歩いて登ると見張を置いたと思われる見晴らし良好の堡塁へ。(先陣は、ていぴす殿)

この城、稜線と堡塁による防御が基本らしい(点と線の組み合わせ)。隣の月生城が笹郭(ささくるわ)という面と竪堀を中心とした防御特性なので相反した縄張りだ。

大岩城(須坂市日滝) (24)
殺風景だが攻城兵はここで相当な苦戦を強いられるであろう。

大岩城(須坂市日滝) (20)
対岸の東尾根の月生城。大岩城とは似たような標高に築城されている。

大岩城(須坂市日滝) (27)
堀切㋑。あってもなくても変わらない?

この先から城域の主要部になるのだが、スリリングな岩場の連続で滑落の危険を伴う(汗)

いわゆる「一騎駈け(いっきがけ)」と呼ばれ攻城側は一列縦隊を強いられるのだ。防衛側は一人一人潰せば良いのだ。

大岩城(須坂市日滝) (32)
コケたらマジヤバイっす!!

大岩城(須坂市日滝) (35)
郭6は北西尾根からの峰の分岐点に位置する。今回北西尾根の踏査は時間の都合で断念した。

大岩城(須坂市日滝) (36)
加工する必要もあまりないと思われる郭6。

【城主・城歴】

信濃源氏である井上氏の分流が高梨氏・須田氏となり、室町時代~戦国時代にかけて北信濃の高井・水内地方はこの三家が押領による領土拡大を争うようになった。
須田氏は小山(現在の須坂市小山)を本拠地として高梨氏と同盟して井上氏と争い、井上氏の領土を侵食して須田郷・大岩郷と領土を拡大し、井上氏は没落していく。(高梨氏は松川以北の小布施に本拠を移して北への拡大を画策)

大岩城(須坂市日滝) (45)
堀切㋒を越えると城の主要部に入る。郭5には櫓台の跡が確認出来る。(南側から撮影)

大岩城(須坂市日滝) (46)
主郭の手前には二条の堀切で仕切られ周囲を岩崖で守られた橋頭保が立ちはだかる。

大岩城(須坂市日滝) (52)
主郭(郭1)手前の堀切㋔。(上巾8m)

戦国時代に入ると須田氏は満栄の後継を巡り二派に分かれ、須田郷の須田信頼、その嫡男信正は須田城に居城し、もう一派は須田満国、弟の満泰その嫡子満親の系統で、大岩郷を領して大岩城に拠ったと伝わる。

大岩城(須坂市日滝) (58)
郭1.(31×14)。

大岩城(須坂市日滝) (60)
錆びつき古びた標柱が山城の郷愁を誘う。(ってか一年間で何人がこの看板を読むのか?)

高梨氏は隣国の越後守護代長尾氏の縁戚となり同盟を強化する事で村上氏の脅威に対抗したが、須田氏は村上氏の配下となる事で領土の安堵を保証された。

しかし、武田氏が信濃へ侵入すると、須田郷の須田信正は真田昌幸の調略により武田へ下り誓詞を差し出したと云う(高白斉記)。一方、大岩郷の須田満国は村上方として残り、満親の初陣は信玄の戸石崩れだったとう説もある。

大岩城(須坂市日滝) (63)
主郭の西側切岸の石積み。

大岩城(須坂市日滝) (65)
郭1の西側の帯郭。城域の守備の指向性は西の居館方面なのが分かる構造である。

天文二十二年に葛尾城を脱出した村上義清が越後の上杉謙信に助けを求めた事から端を発して、五回に及ぶ甲越合戦の幕開けとなる。村上方の属将であった大岩系須田氏も武田に対する抵抗を続けたが、弘治三年1557)二月に休戦協定を破った信玄が葛山城を落とし城中の者を皆殺しにすると、長沼城の島津氏は恐れを為して大倉城へ後退し越後へ逃亡。須田城の須田父子は予定通り武田に降り、枡形城の原左京真亮も武田方となった。
周囲を敵に囲まれた大岩郷須田氏は大岩城に籠城し防戦するも支えきれず越後へ逃れたと云う。

大岩城(須坂市日滝) (73)
西側の斜面を100mほど下ると巨大な天水溜め(16×17)がある。戻る体力を考えす下りた事を後悔した・・(汗)

大岩城の落城時期については諸説あるが、弘治三年の攻防戦による戦火で城と居館、城下町は焦土となり、須田氏の文献資料等も焼失したという。
(須田氏のその後の経歴は雨引城でまた再開したいと思います)

大岩城(須坂市日滝) (77)

大岩城(須坂市日滝) (78)
上巾9mながら落差のある堀切㋕の断面。

大岩城(須坂市日滝) (84)
削平の甘い郭4.奥に見える山は雨引城。遠過ぎるゾ!!

【城跡】

三つの尾根と天然の岩盤を生かしているが、技巧的な防御構造というのはあまり見当たらない。大きな竪掘は武田軍による改修と思われる。また、防御の指向が何故西斜面なのかも疑問で、髻山方面を意識したのかは分からない。
この地域の城砦群はほとんど石積みを多用する縄張なので、迫力がある。手っ取り早く手に入るのが「土」では無く「石」なので、理に叶った築城方法であろう。

大岩城(須坂市日滝) (85)
郭4から見た北方向。連郭式の単純な縄張である。

大岩城(須坂市日滝) (86)
郭4から見下ろした堀切㋖。此の城内最大の落差と巾(17m)を誇る圧巻の仕様である。

大岩城(須坂市日滝) (94)
西側斜面を100m以上の長さで竪掘として下る堀切㋖。武田軍の改修の跡であろう。

大岩城(須坂市日滝) (96)
まさに軍事構築物の美学である(笑)

雨引城へ向かう尾根には二条の土手付き二重堀切を穿つ念の入れようで、これも武田時代の産物であろうか。

大岩城(須坂市日滝) (99)
痩せ尾根は果て無く続く。

大岩城(須坂市日滝) (103)
堀の中央に土塁を盛ったW型の堀切㋗

大岩城(須坂市日滝) (110)
堀切㋘。ちょっと中央がモッコリしているのがお分かりだろうか?

大岩系須田氏が越後に逃れると、武田氏に降った須田郷須田氏の支配下に入るが、その時にある程度武田による改修が為されたと思われる。
最期はちょっと駆け足的な解説になったが、尾根に張り巡らされたクモの巣のような変わった面白い山城であった。

≪大岩城≫ (おおいわじょう 水沢城)

標高:679m 比高:265m
築城年代:不明
築城・居住者:須田氏
場所:上高井郡高山村中山
攻城日:2014年4月20日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:60分(主郭まで)  駐車場:無いので適当に路駐。
見どころ:段郭、堀切、土塁、石塁、天水溜めなど
注意事項:北東尾根からが安全。イノシカネットがあるので、開けたら必ず閉めよう。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井編⑧ 2013年 宮坂武男著」、「信濃須田一族」(平成22年 志村平治著)
付近の城跡:雨引城、月生城、福島正則居館跡、城山城など

月生城(上水内郡高井村) (90)
北東の麓から見た大岩城遠景。広大過ぎて全て納まらない・・(笑)







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Posted on 2014/05/28 Wed. 23:35 [edit]

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コメント

はるか彼方の大岩城

この城には縁がないです。
2度チャレンジしてダメでした。
1回目は北西尾根から登り、貴図の6の位置で、お腹がSOSを発信し、前進不能に陥り断念。(ところで北西尾根の末端部にはかなりの曲輪群がありますぜ。)
2度目はお寺から登り、御城主のお出迎えを受けて転進でした。

しかし、ごつい城ですねえ。
この荒削りの豪快さが好きですが、この城も満足に機能しなかったのは残念です。もっとも当時の合戦は城取りゲームですから、この城も囲まれてオセロみたいにジ・エンドでしたね。

まあ、色々あったけど、須田さん子孫はつながっているのでマシな一族なんでしょう。

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/05/29 21:42 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

師匠、この辺りの城砦群は「コの字」で囲むような山の斜面の総構え的なネットワークが特徴的ですね。

小布施町の「雁田城(大城・小城)~滝ノ入城~二十端城」、中野市の「小曽崖城~沼ノ入城~坪井城~真山城」、そして高梨氏の本拠地である中野小館における「七面山砦~鴨ヶ岳城~鎌ヶ岳城~箱山城」・・いずれも全山の尾根を切り刻んで要害としている全国的にも珍しい地域だと思います。

小生もその昔、奇妙山の清滝城を苦労して1時間登り城跡まであと10分と迫りながら突然の雷雨で撤収。ムカついたので翌週リベンジ(笑)。室賀の笹洞城では藪漕ぎの途中で足がつり「釣り野伏せ」(爆)
気ままな単独の攻城戦は楽しいのですが、やはりそれなりのリスクもあるんですねえ・・(汗)

南尾根の最終堀切㋗と㋘が東斜面に対して防御姿勢を取っているのは、灰野峠に隣接する月生城からの攻撃に備えたものでしょう。
一寸先は闇・・・そんな緊迫している北信濃。嫌いじゃありませんねえ~(笑)

らんまる #- | URL | 2014/05/29 22:45 * edit *

楽しかったです

お疲れ様です。
この頃は仕事が忙しくコメントも入れられず読み逃げでスミマセン。
大岩城からの縦走楽しかったです。
中信や南信では見られない豪快な堀切や大きな天水溜。。。。。驚く事ばかりです。
石積みや深く長く刻まれた堀を見るとこの地の戦乱の激しさを感じました。
これにより見ごたえのある城址が出来た事は今の時代を生きる自分にとっては
有りがたい事ですが、戦乱を生きた人々にとっては命をかけた築城ですから時代が
変われば見方も変わるものですね。
北信の城にハマりそうです。

ていぴす #- | URL | 2014/05/30 05:06 * edit *

Re:ていぴす様へ

「なんでこんな苦労してまで行かねばならないのか・・」(笑)
確かに北信濃の城は緊迫感ハンパないので魅力的でございます。上杉家臣となった地侍が往還の夢を見続けた執念をそこに見る思いです。
藪が無ければもっと快適なのでしょうが、藪や雑木林だったからこそ往時の姿を今に残しているのかもしれませんね。

南信は南信で「のほほん」って感じなデカイ城館形式が多いようですが、それはそれでまた面白いと思いますよ。そこには小豪族の悲哀の物語があったんでしょうねえ。

らんまる #- | URL | 2014/05/30 09:02 * edit *
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