らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0716

板垣駿河守信方の墓 (上田市下之条)  

◆上田原合戦の後、信玄の命により墓守が置かれたとされる板垣信方の墓所◆

信方さんのお墓は小生の自宅から徒歩5分の場所にある。

自宅を建てて26年になるが、当時はこの場所が上田原古戦場の激戦区だったとは知らずにいた。

そういえば、当時同居していた霊感の強い妹は「夜中に落ち武者が部屋を徘徊して困る」と云っていたが・・・(汗)

その後、徳の高い寺院にお願いしてお祓いして事無きを得たが、五百年後の今も凄まじい生への執念が残るのだろうか。

板垣信方の墓 (24)
千曲公園から見た上田原古戦場と大将さんたちのお墓の位置。手前の広場は「上田 道と川の駅」

天文十七年(1547)二月、佐久平定を完了した武田晴信(信玄)は村上義清と雌雄を決すべく小県郡の上田原にて決戦に及ぶが、佐久を撫で切りにした武田への憎悪に燃える北信濃の豪族連合に敗れ去った。

※合戦の詳細は皆さん御承知かと思いますので割愛させていただきます。また、そのうち気が向いたら書きます・・(笑)

しかし、村上連合軍の犠牲も多く、西条義忠(にしじょうよしただ)、屋代源吾(やしろげんご)、小島権兵衛(こじまごんべえ)、雨宮刑部(あまみやぎょうぶ)などが討死した。

甲州軍の損害はもっと深刻で、信虎追放のクーデターに功のあった重臣である板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)、甘利備前守虎康(あまりびっちゅうのかみとらやす)の両名を失い、初鹿野伝右衛門(はじかのでんうえもん)、才間河内守(さいまかわちのかみ)などの猛将も戦死し、死傷者は村上軍を上回ったという。

須々貴城2013 (94)

500年近くも昔の合戦なのに、村上さんちの武将の墓は3名、武田さんちは板垣さんのみ残っている。

これって、不思議じゃないですか?しかも板垣さんの墓は「板垣神社」で神使いになっているという事実。

板垣信方の墓 (45)

実は二年前に地元の自治会の役員を仰せつかって、天白山(別名:須々貴城 上田原合戦の時の村上さんの本陣)の整備事業の会合に出席したときに、同じ地区の方から、「板垣信方が討死したあと、武田晴信(信玄)は合戦場に留まり今回の戦で亡くなった大勢の兵士を荼毘に附したあとで、彼の命により墓守をこの地に置いたのだ」という。○○さんちは、その末裔だという。

板垣信方の墓 (47)

なるほど、そういう事だったのか・・・・、積年の疑問が取れたような気がした。

生前は敵味方であっても、仏になれば垣根を越えて供養されたのだ。そういう時代だったのだろう。

板垣信方の墓 (48)
信方さん、煙草が好物という伝説があり、お供え物も煙草が多い。

下世話な話であるが、板垣神社のお賽銭箱への寄附は、自治会がキチンと管理していて子孫の方へチャンと届けています。なので見返りとして板垣氏の末裔さんは、自治会への寄附という形で板垣神社の維持管理に出資しています。

それにしても、同じ重臣であった甘利虎康さんの墓が無いのが気がかりですw

架空の人物として創作された可能性も否定できないような気がしますが・・・・・・(汗)

板垣信方の墓 (49)

板垣さんの墓の隣の石碑には、秀作の俳句が彫られている。

「兵の 夢覚ますなよ 鉦叩き」  (つわものの ゆめさますなよ かねたたき)

※カネタタキはコオロギより小さい昆虫で「チッ、チッ チッ チ」と金属音のような鋭い羽音で鳴く夏の昆虫。

板垣さん、今も変わらずに晴信の天下統一の夢を今も見続けているに違いない・・・・・・・

板垣信方の墓 (18)
近くて遠い村上義清の本領。(埴科郡坂城町)。

結局のところ武田信玄は、天文二十二年(1549)まで忍耐を強いられたのである。

≪板垣信方の墓≫ (いたがきのぶかたのはか)

標高:435.0m 比高:
場所:長野県上田市下之条
訪問日:2014年7月6日 
お勧め度:★☆☆☆☆
史跡までの所要時間:-分
見どころ:
注意事項:特に無し
駐車場:付近の方に迷惑にならないように適当に路駐(若宮八幡宮付近へ)
付近の城址:須々貴城 



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Posted on 2014/07/16 Wed. 22:00 [edit]

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コメント

いたがきさあん

板垣さんと言えば、昔の100円札!
あの退助さんは子孫とか?

まあ、それはともかく。
場所さえ特定できない古戦場ってたくさんありますが、ここは物証が多いですね。
これだけあれば、間違いなくここでしょう。

夜中に首のない武者が、鎧を鳴らしながら首を探して歩き回っていませんか?
そのうち、お宅にもご挨拶に伺うかもね。

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/07/17 22:20 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

板垣駿河守さんちの息子も馬場美濃守さんちの息子も放蕩息子で使えませんでしたネ。あっそうそう春日弾正さんちの息子なんか昌幸さんに唆されて景勝さんに成敗されちゃいました。
オヤジが有名過ぎると息子はやる気無くすんでしょうか・・(笑)

最近宅地化が進みましたが、まだまだ古戦場って風情が感じられる場所です。
ハイカラな住宅が多く建つので、首なし武者の行列も行き場が狭くなってしまったんでしょうネ(汗)

らんまる #- | URL | 2014/07/18 07:34 * edit *

上田原敗戦後の信玄本陣跡について

お世話様です。やはり、只来城(砦)は、目茶苦茶良かったです。2週間たっても感動しております。只来城の物見跡から、浜松城が見えます。三方ヶ原合戦大勝後、毎日、武田勢は砦から浜松城を見て「家康今に見ていろ」という感じだったと思います。光明城からも浜松城が見えますが同じ感覚です。犬井城崩れの時は、只来城内は再び「歓喜に沸いたでしょう」

上田原古戦場近くの、当時同居のらんまるさんの妹は「夜中に落ち武者が部屋を徘徊して困る」と云っていたが・・・。私も、上田原古戦場であの手の写真(心霊系)をしっかり撮ちゃいましたが・・・。ネットにアップすると、まずいので・・・。

撮った瞬間「合戦の時あなたの先祖室賀と一緒に戦った。私は戦死した。昭和63年5月に上田原古戦場来た時、寄ってくれなかった。待っていたのに・・・。それから25年もたってやっと来てくれた。」というメッセージを感じました。その瞬間私のEOS KISSにはっきり写真(心霊系)が写っていました。私は、男ですが霊感強いです。

我が先祖の室賀は、村上方で参加でしたね・・・。砥石崩れ時も、まだ村上方。

私は、個人的に信玄(公)と真田三代は大好きです。すみません、信玄ファンは信玄公と呼びます。

今月と来月、長野県に行きます。あの寒い上田に、信玄公は上田原敗戦後も約20日いたそうですが、その敗戦後の信玄本陣跡について土塁や堀は一切ないでしょうか?

わかる範囲で教えて下さい。以上よろしくお願い致します。室賀 

室賀  隆幸 #- | URL | 2017/02/23 22:03 * edit *

Re: 室賀 隆幸様へ

小生もその昔、美濃の岩村城を訪問した時にみぞれ交じりの雨が降り余計なものが写り込みました。
霊も一緒に連れて来てしまったようで、その晩テナントビル1Fの会社の事務所が2Fの空き部屋の漏水で水没。PCも使用不能。
その写真はCDにコピーして隔離しました。マジでヤバかった・・・(汗)

さすがに登城数も1,000を越え、毎度毎度麓の祠や神社、城址の石仏に祈りを捧げる修行の効果もあるのか、最近はポルターガイスト現象は少なくなりましたが・・(笑)

上田原合戦で信玄が本陣(指揮所)を置いた場所は「御陣ヶ原」とか「御陣ヶ入」という地名のみが倉升地籍に伝わっております(上田市神畑)。その背後の山の尾根には「兵糧山」「相図山」という地名も残っているようです。昨年春に雑木林の尾根を徘徊して痕跡がないか調べてみましたが、何も発見出来ませんでした。「御陣ヶ原」という地区も住宅地化しており何もありません。唯一、ここからは村上義清が本陣(指揮所)を置いたであろう須々貴城(天白城)は指呼の間に見えます。

大門峠を越えて依田窪に入った武田軍は長窪城で設営し、丸子から砂原峠(木曽義仲挙兵の地でもあり、信玄はこの道を幾度となく利用した)を越えて生島足島神社で戦勝祈願し、この地に陣を張ったものと思われます。

会戦の行われた上田原や下之条付近は、千曲川の岩鼻の奇岩と北側の虚空蔵山が屏風となり、冬は降雪も少なく寒暖の差はあるものの日中の晴天率が高いので、大軍が逗留しても食べ物の確保さえできれば過ごしやすかったのかと推測されます。

板垣神社は、信玄がこの地で墓守をするように命じられた兵士が代々維持したようで、その家は現在も続いています。
幾度も続いた川中島合戦よりも、たった一度きりの上田原合戦で数多くの武将の墓が伝承として残るのは、武田の墓守が両軍の戦死者を供養して現代に受け継いだ賜物として考えています。

先日、富士山の室賀家の末裔の方とお話しする機会を得ました。
こんな趣味を持っていたおかげで、人様のお役に立てることも稀にあるようです・・・(笑)

らんまる #- | URL | 2017/02/24 21:22 * edit *

早速の返信ありがとうございました。

やはりないのですね・・・。

信長・秀吉は経験を積み、合戦になる前に、陣城を築くことが多くなったのに、信玄公・勝頼時代の武田家には、基本的に合戦前・後に、陣城の(堀をほって土塁を作る)発想がないような・・・。

三増合戦は強行突破、三方ヶ原合戦は騙し合戦ですね。

長篠合戦は、勝頼の陣城の無理攻め大敗北ですね・・・。


上田原敗戦後も近くの室賀が自分の山城にこもっていたわけで、お互い忍者もいたのに、陣城を作らないとは・・・。

本日、平山優さんの「武田滅亡」が届きました。文章がうまいのでグイグイひきこまれていきます。楽天ポイント利用で格安購入しました。大きい本です(笑)

今回は、長野でスキーをして、上田市の大学時代の友人と食事して埼玉に帰ります。ありがとうございました。

室賀  隆幸 #- | URL | 2017/02/24 22:02 * edit *
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