らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0919

楽巌寺城2 (小諸市大久保 リテイク)  

◆釈尊寺への不法侵入を拒む長大な仁王門◆

先日の連休は「妙高サンシャインランド」なる遊園地へ遠征し不慣れな家族サービスに終始する。

あの辺りにも山城跡がいくつかあるのだが、こういう時は雑念を捨て、目一杯楽しむ事にしましょう・・。

しかし、この歳でメリーゴーランドやゴーカートに乗るとは夢にも思わなんだが、せっかくなので童心に返り楽しむ・・(笑)

今回ご紹介するのは、とってもテキトーな解説だった5年前の楽巌寺城の記事のリテイクでございます。相変わらずのテキトーさに更に磨きをかけたいと思います。

楽巌城・布引城201409 (2)
ネーミングが良くない「血の池」。喰い違い土塁があるので、枡形虎口があったと思われるが破壊され謎のままだ。

【立地】

御牧ヶ原台地(みまきがはらだいち)の東端に位置し、千曲川を眼下に望む場所にある。ここは釈尊寺(布引観音)の僧坊の一つである楽巌寺(がくがんじ)があったと思われる場所で、釈尊寺の参道の入り口でもある。
西には、不通沢(とおらずのさわ)を隔てて堀之内城があり、布引城砦群の一つである。
西、北、東の三面は急崖で、南だけが御牧ヶ原の台地に接している。従ってここを押えれば釈尊寺は完全に守られることになる。

楽巌寺城縄張図①

この縄張図を見てピンと来た方は素晴らしい。
そう、前回ご紹介した堀之内城の二重三日月堀を持つ郭部分と基本設計は同じなのである。

【東側の抑え】

「お歯黒池」と呼ばれる堀切㋐と三日月堀形の堀切㋑の間に長方形の郭1を置いている。堀切㋑から尾根を下がるように郭2が置かれているが、平削も適当。おまけで作られたような感じがする。

楽巌城・布引城201409 (1)
血の池側から見た堀切㋐

楽巌城・布引城201409 (4)
郭1を西側から撮影。さほど広くない。

楽巌城・布引城201409 (7)
三日月型の堀切㋑は接続の方法が変則的になっているので後付けっぽい感じがする。

楽巌城・布引城201409 (12)
郭2.ここから尾根が急激に下がっていくので重要性は感じられない。

【西側の構え】

見取図における郭3と郭4の三角形部分は、元々は釈尊寺の六坊として楽巌寺があり、釈尊寺の入口を抑える場所として戦国時代には武装化して砦としての機能があったと思われる。
天文十七年に武田軍に攻め込まれ、楽巌寺を含む六坊はことごとく兵火により落城、焼失。本坊である釈尊寺も焼き討ちされ、灰燼に帰したという。(その10年後に武田方に降った望月城主の望月信雅により再建される)

現在残る遺構は、堀之内城と同様に大勢力により改修されたと見るべき大掛かりなものであり、楽巌寺氏や望月氏のような土着の豪族の手に負えるものではない。

楽巌城・布引城201409 (18)
林道と並行するように続く高土塁の壁。そう云われなければなんの違和感も無い林道の風景である(笑)

楽巌城・布引城201409 (20)
林道側から見た堀切㋓。ここも三日月堀だったら素敵だったのだが、直線の横堀だった・・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (31)
ブーメラン形の郭4。

楽巌城・布引城201409 (30)
郭4側の土塁から見下ろす堀切㋓とその周辺(西側より撮影)

この山の中で、戦国時代の凄まじい土木工事の跡を見ることが出来る。ところどころお化け屋敷のような別荘の廃墟が林立しているが、開発が中途半端なせいで結構遺構が残っているのは不幸中の幸いであった。

楽巌城・布引城201409 (32)
何故か堀切の向こうに別荘の屋根が見える不思議な光景。ってか、普通に考えてもそんな場所に建てるか?

楽巌城・布引城201409 (35)
郭4の西端からみた堀切㋓と郭3方面。

郭3の南側は長大な横堀㋒だったが、南側の土塁が崩されてその上に別荘が並んでいる。それでも堀そのものは破壊を免れたので、不幸中の幸いだったと思われる。

楽巌城・布引城201409 (41)
数件の別荘は売り物件の看板が立っていたが、需要はあるのだろうか・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (49)
クランクに折れる横堀と郭3の外枡形。

楽巌城・布引城201409 (52)
横堀㋒のクランクを東側の堀底から見る。写真中央の段差が「外枡形」である。


【征服地における武田流築城の貴重な遺構】

高度成長期における日本人一億総白痴化の原動力となった「ディスカバージャパン」の合言葉。そして残念ながらその犠牲となった布引城とその城砦群。破壊前の状態は今となっては記録も残っていないようだが、それでもある程度の遺構が残っているのは奇跡であり、これ以上の損壊は許されない。

長野県の史跡や遺跡の保存に対する取り組みは全国でも下位レベルで、小諸市においては更に酷い。この自治体において消滅した中世の城跡は数知れずという有り様で、情けないを通りこして泣きたくなる・・(汗)

楽巌城・布引城201409 (58)
横堀㋒の東端は痕跡のみ残り、血の池までの間は破壊により不明である。

大室城が指定史跡になるのであれば、堀之内城も楽巌寺城も市の指定席として認定し、これ以上の破壊が進まないように小諸市に望みたい。
この城跡は、戦国時代の武田軍(と確定した訳ではないが・・)によって大改修されたと思われる貴重な史跡で、他に類を見ない独創的な縄張りを持つ城である。

布引観音の景観・歴史と共に布引城の景観と歴史も後世に伝えなければならないと切に思う次第である。

楽巌城・布引城201409 (56)
三日月堀にはなれなかった「お歯黒池」。惜しいゾ!!(笑)

≪楽巌寺城≫ (がくがんじじょう)

標高:768m 比高230m(北山下より)
築城年代:不明
築城・居住者:楽巌寺氏、武田氏
場所:小諸市大久保
攻城日:2014年9月3日 (再訪)
見どころ:土塁、郭、血の池、お歯黒池、三日月堀跡など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)、道路が狭いので注意。
その他:別荘の敷地内への無断侵入は厳禁。人里であっても確実に熊・猿の生息地なので単独行動は控える事。
参考文献:「信濃の山城と館①」(宮坂武男著 2013年)、「戦国武田の城」(中田正光 2010年)

楽巌城・布引城201409 (57)
血の池周辺。武田の被征服地の城跡は物騒な地名が多い。武田を嫌った住民のせめてもの抵抗であろうか・・・。








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Posted on 2014/09/19 Fri. 07:22 [edit]

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コメント

らんまるさま、ご無沙汰しております。

この城ですが、かなりの土木量があったのでしょうから、自治体がきっちりと城跡公園にしていたら、相当に見ごたえあったかも知れないですね。(誰が見に来るかは別として・・・)
それはそれとして、わたしの印象では、この付近の地形は、戦国時代当時の人々を悩ませたのではないでしょうか?
崖の上が人々の住む平野ですので、その崖部に城を造るというのは、かなり根性がいるように思いました。
往時は、「血の池」「お歯黒池」などの外堀が、もっともっと厳重に延びていたのかも知れないですね。

ところで、「楽巌寺」ってどこにあったのでしょうか?
その寺が盛況で、やがて地名になり、それを名乗ったというのはよくある話ですね。

まさはれ #- | URL | 2014/09/20 00:01 * edit *

Re: まさはれ様へ

コメントありがとうございます。

現地に立つと台地の端っこを加工した平城なんですが、対岸の国道18号線から見ると崖淵城と云うよりは山城で、釈尊寺(布引観音)を「コの字」に囲む尾根上にも郭跡があるようです。(残念ながら小生は未調査ですが)視覚効果も絶大で、敵を威嚇するには充分な威容だったと思われます。

宮坂武男氏の調査によれば、楽巌寺の住僧に武勇に優れた楽巌寺雅方(がくがんじまさかた)があり、望月遠江守信雅(望月城主)の旗本として砦を築き釈尊寺一山の防衛にあたっていたという。
釈尊寺を本坊とする一山には六坊として果成院、楽巌寺、神晃寺、慈現坊、光岩寺、真福寺があり、天文十七年の武田軍の布引城への攻撃で悉く兵火に遭い焼失したという。
楽巌寺は小生の見取図の4の場所とされ、武田による改修で楽巌寺城の主郭になったようです。

武装化した宗教勢力はこの地域にかなりの影響力を持っていたと思われ、信玄は釈尊寺を再興することで地域の人心の掌握を計るものの、反抗勢力が再度蜂起し拠点化されるのを警戒し楽巌寺城を改修したのでしょう。(まあ、勝手な推測にすぎませんが・・)

らんまる #- | URL | 2014/09/20 08:28 * edit *

こんにちは。

「らくがんじ」 かと思ったら 「がくがんじ」 なんですね。
布引観音からは、かなり離れているのでしょうか。
北側から崖をよじ登って観音様に行ったことはあるのですが、南側の様子がさっぱり分かりません。
考えてみると、南側は平地なのだから、そちらから観音様に行く道があるんですよね?
その辺りが城跡ということでしょうか。
初歩的な質問、申し訳ありません。

万見仙千代 #- | URL | 2014/09/20 16:02 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

布引観音(釈尊時)の南南西400mほどの場所でしょうか。
経路は県道40号線から布引温泉こもろ方面に入り県道153号線を「諏訪山」方面に向かいます。あぐりの湯こもろを通過し、愛宕山記念公園(ここも城跡でしたが道路改良で破壊され記念碑があります)を上り、「長野アイエム開発」という会社の手前を左折してやや細い町道を800mほど進むと城跡にたどり着きます。お歯黒池からの林道を北に進むと布引観音です。この林道が表参道でしょうね。車で余裕で行けちゃう訳です。まあ、北の断崖の間を登って苦難の末にお参りするのが有難みが感じられると思います(笑)

布引観音の周囲を覆うように城塞が築かれているので、北信濃における善光寺と同じように釈尊寺の宗教勢力を利用しようとしたのでしょうか。この城の謎解きは往時の宗教と土豪や戦国武将との関わりにあると思うのですが、そこまで中々踏み込めません・・(汗)

らんまる #- | URL | 2014/09/20 17:52 * edit *

ここほど訳の分からん城は珍しい。
現地に立てば分かると言うけど、分からんかった。
一体何をまもりたいのか?
多分、山の中腹に守りたいものがあるのでしょうが、こんな崖っぷちを守るもんかいなあ。
でも遺構は凝りに凝ってますね。
それをズタズタに壊してしまうのも凄い。
あのバンガローは朽ちているような感じですが、現役なんでしょうかねえ?

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/09/20 23:17 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

師匠、布引城城砦群は北側の対岸から見ると結構イカメシイ感じなので、その辺の効果も狙ったんでしょうか?
雑木林を丸坊主にすれば崖にクモの巣状に張り巡らされたショッカ―の要塞に見えると思われます(笑)
烽火三本程度上げれば、対岸の敵対勢力はビビる事間違いなしです。

何軒かは生活痕があり、二軒は売り物件になってましたが建て直ししないと無理でしょう。
西側のバンガローは廃墟で倒壊の危険があります。販売当初は北側の雄大な景色もセールスポイントだったのでしょうが、お寺さんが山の伐採を拒否したんでしょうネ。
今さら小諸市が史跡指定するとは思えませんが、これ以上の破壊の進行は阻止して欲しいものです。

らんまる #- | URL | 2014/09/21 07:38 * edit *
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