らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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五本松城 (佐久市志賀)  

◆「赤羽記」に記載のある「上の山」とは五本松城の事なのか?◆

これだけハッキリとした遺構が残る城なのだが、伝承は何もない。

武田を嫌う土地柄は仕方ないにしても、反逆者への見せしめとして凄惨な殺戮が敢行された志賀城の戦いなど、記憶から消し去りたいというのが民意であろう。

志賀城(佐久市) (145)
志賀城の麓にある雲興寺から見た五本松城全景。志賀城よりも標高・比高は高い位置にある。

近世になって城跡に五本の松が生い茂っていた事からその名が付けられただけだという。全国に三万以上存在した戦国の城で名の付く城などはホンの僅かで、「城(じょう)」とか「堀の内(ほりのうち)」、「たて(館)」、「要害(ようがい)」「根古屋(ねごや)」などと呼ばれていたらしい。そんな伝承や口伝すら残らない城もある・・。

【立地】

志賀城の南麓の志賀集落を流れる志賀川を挟んで800m南の山塊の尾根上に築かれた全長約300mの山城で、城域の西側部分は五本松城西城と呼ばれている。南東500mには内山古城そしてその先には内山城がある。
城域の北側の斜面は急で人を寄せ付けない。大手は内山集落の香坂入から西城の先端をたどる道だったと思われる。

五本松城 (5)
城域東端を遮断する堀切㋗。(南側の斜面より撮影)

五本松城 (4)
北の沢へ落ちる堀切㋗。北側は急斜面なので竪掘にすることなく終わっている。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では志賀城の物見とされているが、縄張やその規模を観察すれば単なる物見ではなく戦国時代に改修を重ねた城であることが見て取れる。
笠原氏と隣接する対抗勢力であった内山氏の内山城の支城として築かれた五本松城だが、笠原氏の台頭と勢力拡大に伴い接収され志賀城の支城の一つになったという見方も出来る。

五本松城見取図①
西城は後から増築されたのであろうか。防御の指向性が内山方面の南になっている。

城主・城歴が不詳なのだが、高遠城主保科氏の家臣赤羽俊房が主家保科家と赤羽一族の功績を記録した「赤羽記」に、志賀城の戦いの前哨戦が記載されており、その一説にある「上の山」が五本松城を指しているのではないか?という推察がある。以下は「定本 佐久の城」(1997年7月 郷土出版社)の「志賀城・笠原城」の解説文(木内寛氏記述)における赤羽記の引用である。

晴信に志賀の案内を命じられて出陣した高遠城主保科筑前守が、家来の北原彦右衛門をつれて志賀の城下に入り、「角屋の蔀(しとみ)の陰」に隠れていると、数人を引き連れた(笠原)新三郎の家臣志賀平六左衛門が鹿毛の馬に乗って巡回してきた。
そこへ彦左衛門が走り出して平六左衛門の馬の太腹を太刀で突き倒し、落馬した平六左衛門の大鬚(おおひげ)の首を筑前守が打ち落とした。こうして前哨戦は「志賀の町」で始まったのである。
これを「上の山」(志賀川の対岸に構築された五本松城か)から「委しくご覧」になっていた晴信(信玄)は、保科筑前守に褒美として太刀を与え、これを「鬚切りの太刀」と呼び、保科家代々の家宝とせよと命じた。

五本松城 (51)
五本松城から見た志賀城大手口の雲興寺と志賀集落。(ズーム5倍)なるほど城下の動きは良く見える位置だ。

武田軍を迎え撃つなら、志賀城よりも五本松城に籠城したほうが有利な展開に持ち込めたはずだが、武田の先制攻撃で奪取されてしまったのかもしれない。
「上の山」が五本松城を指すかは不明だが、晴信が内山城に本陣を置き志賀城攻めを指揮しているのであれば、五本松城から敵陣視察を行う事は充分に考えられる事である。

五本松城 (52)
五本松城の主郭から見下ろす位置にある志賀城。

笠原城を踏査していないので何とも言えないが、武田軍が接収した五本松城から、城内全て丸見えの志賀城を捨てて、笠原城(または高棚城)で籠城戦に及んだと言う地元の伝承の説は否定されるケースが多いが、意外と真実なのかもしれないと思えた。

【城跡】

連続する二つの尾根のピークを利用した全長約350mの連郭式の山城である。南北の斜面は傾斜が急で人を寄せ付けない。近隣の山城同様、岩場やガレの露出が多く攻城ルートも制限されるまさに天然の要害である。

●郭1(主郭 55×25)

五本松城 (61)
佐久市教育委員会が調査してキチンと標柱を立てて欲しいものです。

結構な人数の部隊を収容出来る広さで、北へ向けて一段下に段郭を設置している。

五本松城 (48)
丁寧に削平された主郭。

五本松城 (54)
北に向けて二段構えの段郭。志賀城に向けて構築されたものであろうか。

●郭2(副郭43×21) 郭3(19×24)

主郭背後の堀切を経て二段の郭が連続する。郭2と郭3の間の北の斜面に三連の「竪掘りが置かれるが短い。傾斜の厳しい北斜面に残る遺構は武田時代のものであろうか。

五本松城 (20)
二重堀切になるはずだった堀切㋖と堀切㋗の関係。

五本松城 (26)
郭3。

五本松城 (22)
郭3には北側の沢に向けて三条の竪堀が入る。

五本松城 (29)
郭2。

郭1と郭2の間は巨大な堀切㋔で切断されている。薬研掘だが、かなり埋まっている。東西の斜面は岩崖なので竪掘としては落とす必要は無い(堀切㋒も同様)

五本松城 (32)
郭2から見た堀切㋔

五本松城 (44)
郭1側の切岸から見下ろすとこんな感じ。結構な落差があります。

●変則的な堀切㋓は工事途中で放棄されたらしい??

いわゆる「大勢力」(もち武田であろう)が短期間で改修したと思われる五本松城は、小田井原の戦いで関東管領の上杉が敗れ、笠原氏が討死するとその戦略的意義を失い、武田方の佐久経営の中心が内山城と定められると放棄されたようだ。中途半端な立地と比高も原因だったと思われる。

五本松城 (72)
主郭の南の段郭bに残る石積み。志賀城の主郭と全く同じ積み方である。

五本松城 (74)
二重堀切になるはずだったらしい平場㋓。西城の防衛ラインが崩れた場合に一条の堀切では心もとない。

五本松城 (77)
北斜面に向かう堀切㋒。

●西城とその周辺

痩せ尾根とその周囲を囲む天然の岩場で構成され、最西端の郭6は南に対しての防御指向を持つ。南側の入香坂からの敵襲に備えた作りで防御技術レベルとしては低い。

五本松城 (88)
本城との連結部分の尾根。

五本松城 (94)
堀切㋐

西城は古いタイプの作りで、西に張り出した尾根を連郭で繋ぎ、城域の南側については竪掘を一条穿っただけの単純構造である。
立地は申し分ないが、城への登城や水の手の確保を考慮すると「いらない」分類に区別される・・・(笑)

五本松城 (102)
郭4の内部。

五本松城 (108)
最終の郭6。

籠城戦用としてはとても良く出来た縄張の山城なのだが、通常における使い勝手は不便そのものである。
そんな訳で、志賀城陥落後は出番もなく廃城になったのかもしれない。

天正壬午の乱で内山城・志賀城は、後北条さんも兵を進駐させたようだが、五本松城は使用された形跡が無い。
兵站補給もままならない要害の地すぎるのが原因かもしれない・・・。

≪五本松城≫ (ごほんまつじょう)

標高:941m 比高215m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市内山香坂入
攻城日:2014年11月8日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:内山城より尾根伝い内山古城経由で約30分
駐車場:園城寺の駐車場借用
見どころ:堀切、土塁、石積みなど
参考文献:「信濃の山城と館①佐久編」(2013年 宮坂武男著)
注意事項:冬は鉄砲隊(ハンター)に注意。

志賀城(佐久市) (148)
このシルエットを見てしまうと、行かざるを得ない気持ちになる・・(笑)













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Posted on 2014/12/13 Sat. 22:03 [edit]

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コメント

なるほど

お疲れさまです。
雪のせいで毎週末悶々としておりますがらんまるさんはいかがおすごしでしょうか。
五本松城の立地から志賀城攻めで使用されたのは確かでしょうね。
しかし、あの山奥の城にそれ以降の利用価値は見出だせませんが、それがよかったのか遺構はよくのこっていてマニアにはありがたい限りです。

ていぴす #- | URL | 2014/12/14 17:28 * edit *

Re: ていぴす様へ

土曜日は強引に佐久へ遠征し、やはり鉄砲隊と遭遇(汗)ヤバさMAX・・。

そうそう、高棚城は天正十一年の天正壬午の乱で文献に記述があるのを初めて知りました。佐久の土豪の志賀さんの居城で依田信蕃に降参したとあります。イマイチ笠原氏との関連が謎ですね。
内山古城も五本松城も立地条件云々よりも使い勝手の悪さはAランクでしょう。もっとも志賀城の付け城としてはS級の完成度ですが・・(笑)

らんまる #- | URL | 2014/12/14 19:49 * edit *

こんばんは。
「角屋の蔀」は、角屋という屋号の家の板戸なんでしょうか。
角屋は今でも、そう呼ばれているかもしれませんね。
それにしても、五本松城址からは志賀集落が一望の下なんですね。

万見仙千代 #YR4Ixzf2 | URL | 2014/12/14 21:46 * edit *

Re: 万見仙千代様へ

対向車とのすれ違いもままならない志賀の集落でこのような物騒な殺人事件が起きるとは・・・(汗)

高遠城主の保科さんちは、もともとは長野市の保科地区の出身で「武田の三弾正」(攻め弾正:真田幸隆、逃げ弾正:高坂昌信、槍弾正:保科正俊)として有名で、のちに保科正之は徳川家光の異母兄弟として会津松平家の藩祖となります。

初めて志賀城を訪問して下山した際にこの城の存在を知りました。
「あそこに登らなければ佐久の山城は語れない・・・」
そう思いながら、佐久の城の過去記事の懺悔の日々でございました・・・・(笑)

らんまる #- | URL | 2014/12/14 22:21 * edit *

晩秋の山城はきれいだねえ。

この規模は物見の城ではないですね。
埋没が進んでいるようですが、かなりの工事量をつぎ込んでいるみたいです。
戦国末期には使ってないようですので、武田侵略時の姿をとどめているのでしょう。
やはり、葉のない今のシーズンのお山のお城はきれいですねえ。

あおれんじゃあ #- | URL | 2014/12/16 20:28 * edit *

Re: あおれんじゃあ様へ

余湖さんに先を越されてしまった信濃先方衆としては、別ルート攻めで目立つ作戦に切り替えました(笑)

志賀城方面からのトライはかなりキツイので、往時の大手道は城域南側の香坂入りの沢だと思われますが、主郭には明確な虎口もなく道も消滅しているので断定は難しいところです。
集落から城跡へのバイパスも長過ぎて兵站補給も容易ではないので、志賀城落城後は早々に放置された可能性があります。そのお陰で武田改修当時の面影の残る城としては貴重なんでしょうね。

らんまる #- | URL | 2014/12/16 21:41 * edit *
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